「だから責任とって嫁にもらってやろーなんて思わなくていいよ」

そう言うとわたしたちの間に叩けばキンと高音が鳴るくらいの硬質の沈黙が落ちた。
バカ冗談だよ。

「思ってねー」

少しして瞬発力というものをやっと思い出した楓が沈黙を一息に飛び越えた。遅ぇよ。エースじゃないのかあんた。

「あれ、いまそんなこと考えてなかった?」
「みじんも」
「あっそ。まーいーや。もしも万が一嫁のもらい手がなかったらそん時は楓んとこいくから面倒見てよ」
「…………………」

……だーかーら、

「……冗談よ。笑えよ」
「どあほう」
「は?」
「何年経ってもあほはあほ」
「何ですかー?」

今日何回こいつにあほって言われてんだわたしは。
軽く足を上げて冗談程度の力で楓を蹴った。

「蹴んな」
「いや蹴る」

しかし蹴りにくい。
いくら遊びでもスポーツマンの足腰にじゃれるのには抵抗があるので肉のついてる尻を目がけて適当に蹴っているのだが、そのためにかなり高い位置まで膝を上げなければ届かない。
背が伸びたとは思っていたけど、胴だけじゃなくちゃんと足も伸びているのか。ねたましい。
三度目に上げた足を軽く手で掴まれて止められた。
バランスを崩して泳いだ上体をもう片方の手で支えられる。

「おお……ありがと」
「どあほう」
「楓も大きく育ったねぇ」
「何を今更」
「いや、昔はもっとおしりが蹴りやすいところにあったのにと思って。ていうか足離して?」
「おめーも無駄に育ったな」
「は? 身長は中3で止まりましたけど。足離して」
「乳が」
「ぶっ……ばっ、無駄じゃねっつーの!これで男子ゆーわくだっつーの!魅惑の乳だっつー、の、足離せ!」
「離したら蹴る」
「そら蹴るわ!」
「蹴んな」
「蹴る!」

はー、と楓がこれ見よがしにため息を吐き出した。

「あほの極地」
「極地なんてずいぶんむずかしー言葉知ってんじゃん楓のくせに」
「あほとは違う」
「無駄でもあほでもないわ!いいか、そもそも乳てのは赤ん坊のためにあるわけよ。あんただっておばちゃんのおっぱい飲んでそんなでっかくなったんだからね。乳を笑う者、乳に泣く。アメリカで巨乳の乳に泣け!」
「乳でつろーがどれとつきあおーが無駄だ」
「どれとって言うな。だれとと言え」
「どうせ逃げられる」
「なんでよ!」
「アホだから」

この世の常識、と言わんばかりの堂々さで楓が言い切った。

「……っっっ!」
「乳、乳うるせー。色気がねー。もてるわけがねー」
「うるさい!も、もーなんでもいーから足!足離して!痛い痛い痛い、もーつるって!」

泣きを入れると楓がやっと足を離した。
すかさずわたしは蹴りを入れる。

「隙あり……!」
「……がさつ怪力」
「うるさいもー!あんたはもーたまに長くしゃべったかと思えば勘に触ることばっかり!だいたい楓にわたしの何がわかんのよ!」
「別に。何も」
「幼馴染つったって今までいっしょにいた時間が人より長いだけで、その時間イコールわたしたちが理解しあってるなんてことあるわけないんだからね」
「たりめーだ」
「ほんとにね!家が近くて同い年だっただけで」
「他に理由なんかねー」
「そのとーり」

特別な理由があってそばにいたわけじゃない。たまたま家が近くで同い年。親が知り合い。そのまま育っただけだ。
親の都合でいっしょに留守番することが多かった。
その分仲がよくなったわけではなくて、その分同じ時間を共有しただけ。
時間を食べて生きるほどわたしたちの身体は大きくなった。
わたしと楓は同じテーブルについて同じ皿に乗った時間を同じ量だけ腹に納めて、よく寝て遊んだ。
その内気がついたらわたしは女と呼ばれる生き物に、楓は男と呼ばれる生き物に変化した。

銭湯で会ったなっちゃんとみーくんを思い出す。
あんなだったなぁ。
あのころはああして、始終いっしょに走り回っていた。
育つにつれて楓は自分の道を自分で選んで進みはじめた。
迷わず止まらずただ黙々と励んだ。自分で選んだ道にレールを引いて、それこそ汽車のように今も走っている。

ふとあの子たちの歌声が耳の内でよみがえった。

おまけのおまけの汽車ポッポ ポーっと鳴ったらあがりましょ ポッポー

真っ赤な顔で歌っていた。あの子たちも、多分わたしたちも。



過ごした時間が長いだけ。それだけだ
その分理解しあえてるなんて大嘘だ。こいつのことなんかわからないことばかりだ。
特別な理由はない。あるのはたまたまの結果だけ。
時間と結果。
わたしと楓にあるのはそれだけ。
そしてそれ以外に他の何も必要ない。
この男を大切だと思うのに、それ以外に必要なものは何もない。

「楓」

あんたと出会ったことに特別な意味はない。理由もない。
捕らわれる原因がないからいつでもこの気持ちに手放しでいられる。

こうして目の前にいても、名前を呼ぶたび目の裏で後姿が浮かんでくる。
走る背中が小さくなる。
けど別にそれはさみしいことじゃない。

何だ、とこっちを振り向く目を受け止める。
なぜか唐突に鼻の奥から涙の気配がこみ上げてきて自分で焦る。
ばれないように腹に力をこめる。

「インターハイで負けて帰ってきたとき、驚いたよ」
「………」
「別に優勝するって信じてたわけじゃないんだけど、あんたが負けるところは想像つかなかった。でも負けた」
「(負けた負けた)るせー」
「けど別に勝ってほしかったわけじゃない」
「?」
「どうでもいい」
「(どうでもいい……)」
「あんたが生きてるかぎり好きで好きでしようのないことに自分をつぎ込めるならそれでいい。勝った負けたは何でもいい」
「…………」
「あんたがやりたいことをやってるなら何でもいい」
「…………………」
「がんばれ楓」
「……おー」
「うん」
「……なぜ泣く」

あ、ばれた。

「いや、なんか、今ちょっと必死になりすぎた」
「?」

心から伝えたいことを相手にちゃんと伝えるにはけっこう体力がいるらしい。
鼻をすすった。悲しくなくても悔しくなくてもつらくなくても本気になると涙が出る。知らなかった。
心が必死になると体も必死になるんだ。

「なんなんだ」
「ずっと言いたかった」
「ずっとか」
「うん。言えてよかった。でも疲れた」

本気出すのって疲れるなぁ。こんなん毎回毎回楓はよくやるもんだ。
そりゃ体力いる。いくら走っても足りないわ。
涙をふいたら何だか笑えた。
わたしたちは強風吹く道の往来でさっきから何をやってるんだ。まったくはた迷惑な。

鼻をすすり上げていると楓がぼそりと何か言った。

「え、なんだって」
「シロートにはわかんねー」
「何が」
「お前のよさ」
「…………………は?」
「…………」
「…何? 何て言った今」
「何も」
「何もじゃねーわ!何か言ったわ!」
「空耳」
「ちがう!…………(反芻)…………褒められた……!楓に!」
「……………」
「え、やだ何よ気持ち悪い!」
「……………」
「つか、こわい!鳥肌!さぶイボ!ひー!」
「うるせー。ガタガタ言ってねーで待ってろ」
「え、なに、あんたのご帰国を?」

それとも

「あんたがバスケをやめるのを?」

楓の足が止まった。

(あ、怒ったかな。いや怒られても別に。怖くない)

楓はバスケをする限り、バスケをやっている自分でいる限り、それ以外の一切に関わろうとしない。
人にも物にも感情にも関心がない。もてないのではなく、もたない。
バスケをしない自分自身にも。バスケのない世界にも。彼はそこで生きていくつもりがない。
そしてわたしが住んでいるのは常にバスケの世界の外側だ。
楓がもしわたしの手を取ることがあるのなら、バスケをやめた時しか考えられない。

(けれど)

バスケをやめた楓は想像がつかない。
生きていたら誰もが老いる。生きると老いるは同じ言葉だ。生きてるかぎり、老いていく。
いつか、自分の心が、意志が、自分自身の身体に裏切られる時が必ずくる。楓にもくる。絶対に。
けれどやっぱりバスケをしない楓は想像がつかない。

その時、楓は今ここにいる楓と同じなのだろうか。
バスケは彼の身体のすでに臓器のようなものなのに。
彼の人生のほとんどでさえあるのに?

「楓」
「?」

それでも、別れるときは必ずくる。
何を選んでも。誰を選んでも。
そんなのわかってる。
でもそれでも、

「バスケやめないで」
「あ?」
「一生戻ってこなくていいから、ずっとバスケの世界にいて」
「(……戻ってこなくていい)…………」
「アメリカでもブラジルでも日本でもどこでもいいの。場所なんてどこでもいい。一生、生きてるかぎりバスケの世界にいて」
「…………」
「戻ってこないで。ずっとそっちで生きていって」

それ以外のあんたがどうやってこの世界で生きていくのかなんて、本当に想像もつかないんだよ。

「泣くな。うぜー」
「たしかに。うざったい、この目」
「…………何で泣く」
「……白熊が」
「あ?」
「白熊は、氷河が溶けたら生きていけないんだろうな、と思うのと同じ気持ち……?」
「………」
「バスケがなかったらあんたは生きてけなさそうだ」

こんなことは言ってはいけない領域の話だと皮膚感覚で思う。
未来の話で、しかもわたしの未来の話ではない。
現役のプレイヤーにする話ではない。
プレイヤーの未来なんて、生きてみなくちゃわからない。

ごめん、と謝ると楓は無表情に息をついた。

「獲らぬ狸の皮算用」
「………それを言うなら、案ずるより産むが易し……いや、転ばぬ先の杖?」
「……どっちにしても、どあほう」


たしかに。あほうなことを考えた。感傷的に過ぎた自分を笑う。