のれんをくぐって下駄箱に出るとすでに楓が待っていた。

「ジャージ乾いた?」

たずねるとうなずく。

「銭湯代と乾燥機代とコーヒー牛乳代貸しね」
「こまけー」
「とーぜん」

外に出ると雨は止んでいた。おお、念ずれば通ず。
けれど変わらず強い風が吹いている。横の楓をさり気なく風よけにしながら歩く。

「傘」
「うん、雨止んでよかった」
「怪我」
「…………」
「あん時のだろ」

人がスルーして進めようとしたものを直球でついてきた。

「……あん時っていつですか」

とぼけてみた。

「とぼけんな」

ばれた。

「……よく覚えてたね」
「忘れねー」
「……あの時の怪我だってわかるとは思わなかった」
「わかんねーわけあるかどあほう」
「あーそー」
「けど跡が」
「え」
「残ってたとは知らなかった」
「あー……」

そりゃ知らないだろうさ。言ってないし、見せてないし。教えることじゃないし。

「あんだけ血が出りゃ当たりめーか」
「……ほんとによく覚えてるね」

本気で驚くと楓はアホを見る目でこっちを見た。
忘れるわけねー、ともう一度低くつぶやいた。

まあ、あれはこどもにしては結構な惨事だったからショックで記憶が強く残っていても不思議ではない。
幸いわたしたちが落ちたのは庭の植え込みだったから落下の衝撃そのものは少なかったのだけど、手にしたままいっしょに落ちた傘が折れ、その突き出た骨で怪我をしたのだ。

しかし「あんだけ」、と楓が言うほどの出血があっただろうか。そのあたりはわたしのほうが記憶が曖昧だ。痛みの感覚も今では遠い。

「救急車にもはじめて乗ったっけ。あれ、楓が呼んだの?」

うなずく。

「そーだったんだ。泣いてたのにしっかりしてたね」
「泣いてねー」
「いや泣いてた」
「…………」

あの時の痛みは覚えていないけど楓の泣き声と大きくなる救急車の音だけは今も耳に残っている。
でも、大騒ぎした割りに怪我は大したものじゃなかったのだ。傘の骨が胸の内側に刺さっていたらそれこそ大惨事になっていたけれど。

「まー運がよかった」
「どこが」
「あんたは無傷だったし」
「運じゃねー」

ぼそりとそんなことを言うものだから驚いた。
楓を見上げると向こうもこっちを見下ろしていた。自然と足が止まる。

「どゆこと」
「あの時お前が傘を一人で持ってた。そのまま抱えて落ちたから怪我した」
「え、そーだっけ」
「とぼけんな」
「いや本当にわかんない。最初わたしたち二人で傘持ってなかった?」
「……本気で覚えてねーのか」
「それあんたに言われるときつい……」
「どあほう」
「傘がなんだって?」
「……二人で持って飛び降りたらすぐ傘がぶっ壊れた。お前がその傘を一人で抱えてそのまま落ちた。だから怪我した」
「ふーん……楓は?」
「手が離れてそのまま落ちた」
「ふーん……全然覚えてない」
「あほはこれだから」

ふーとため息。

「るさいなー。ていうか、やっぱり運がいいんじゃんよ」
「運じゃねー。お前が勝手にかばったんだ」
「……あんたを?」
「他に誰がいる」
「……かばったっつーか……たまたまでしょ」

落下の一瞬でこどもがそんなこと考えられるとは思えない。

「だとしても結果は変わらねぇ。俺は無傷でお前はそれだ」
「……いや……偶然ですよ」
「関係ねー」
「あーそー」

何でもいいけどさ。
楓が歩き出す。その横について強風を防ぎながらわたしも進む。

「……でも、やっぱり楓は運がいいよ」
「?」
「とっさにかばってくれる頼もしい幼馴染がいたんだから、運がいい」

からかうとお決まりのため息と耳なじみの文句がはるか上から降ってきた。

「どあほう」
「ハッハッハ!素直に感謝したまえよ!」
「……………………………」

楓が立ち止まった。

「 ? いくよー?」
「……………………………………」

何やらいつものぶっちょ面をさらに険しくしている。
なんなんだ。
言いたいことを我慢する柄でもあるまいし。

「………………………」

楓が面を上げた。
その目を見てやっと気づいた。

あ。そうか。
気づいて呆れる。らしくないことしないでほしい。驚くから。

「バッカじゃないの。冗談だってば。ほんとにありがとうなんて言わなくっていーっつーの」
「………」
「……大体わたし覚えてないし。結果的にかばったみたいになったとしても絶対偶然だし。それにあの時、楓のほーがわたしよりチビだったしね。大きいほうが小さいのをかばうのって本能的なもんなんじゃないの。わかんないけど」

この馬鹿でかい体がわたしより小さかったころがあったなんて今では冗談にしか思えないけれどたしかにその時はあったのだ。なつかしいとも思えないほどずっと昔の話。

「……今ならあんなこたさせねー」
「今ぁ? 今、嵐の朝にベランダから二人で飛び降りたらそれは、ちょっとやばい。心中と間違われる」

まさか今も風にのって遊べると信じているはずもない。

「どあほう」
「誰がだ。じゃなくて、歩こうよ。横にあんたいないと風強くてきつい」
「次はお前にいい格好はさせん」
「痛い思いしてまでいい格好したくないわよ……」
「もーでしゃばんな」
「なにそれ。じゃ今たとえば車がつっこんできたら楓がわたしをかばってくれんの」

歩き出した楓にいつもの軽口をふっかけると黒い頭が迷いもせずにうなずいた。
おい。

「何言ってんのバッカだねー!今こそそんなことしたら駄目でしょーが。あんたの体はバスケする大事な体なんだから、他人守ってる暇があんなら自分をしっかり守んなさいよ。わたしはわたしで勝手に逃げるわよ」
「俺も怪我しねー」
「車とぶつかって勝つつもりですか。ばーか。今のあんたはスポーツマンなんだからわたしよりよっぽど」
「馬鹿はテメーだ」
「人の話最後まで聞きなさいよ」
「将来子どもを生むかもしれねー体だろーが」


は?


「……なんだって?」
「物好きがいれば可能性はゼロじゃねー」
「物好きってなに!?」
「(無視)」
「くそ……!」


なんなんだこいつは。急にこどもを生むだのなんだの。
わからない。楓の考えることはまったくわからない。

中学まで同じ学校で、違う高校に通って半年弱。
中学のころにはもうバスケで忙しくしていたから頻繁に会うことはなかったけど、毎日顔を合わせてたころも、久々にこんなに長く会話を交わしている今も「バスケ」の三文字以外こいつの考えてることでわかったためしがない。
わかるのはバスケが好きなこと。バスケ以外興味がないこと。バスケさえやれてれば満足だということ。それだけだ。

「あ、将来っていえば」
「?」
「あんたいつアメリカ行くの」

話の接ぎ穂で何の気なしに切り出したのだが「アメリカ」の一言に楓は一瞬足を止めた。

「え、なによ」
「……?」
「ちょっと、止まんないでよメリケンボーイ(風が!)」
「……なんでお前が知ってる」
「あれ、前からずっと言ってなかったっけ?」
「言ってねぇ」
「あーそーだっけ?」

どっちでもいーけどさ。口にしてよーが黙ってよーが、たとえ今思ってなかろーが逆に切望してよーが、どーせいつかこいつはアメリカに行くんだろうし。
アメリカっていうか、バスケットボールの生まれた国に。そして今も生き続けてるあの国に。
その国で生きるために、未練一つなく忘れ物一つなくここを出て行くんだろう。
楓はいつも走ってる。
走ることが生きることのように、呼吸するように楓はバスケをする。
だからどんどん強くなる。
どんどんどんどん速くなる。
足があるかぎり走る。意思があるかぎり挑む。息をするかぎり戦う。
だから流川楓は望んだ分だけ高く飛べる。