体を流した後もう一度湯船に浸かりながら、外の雨が止んでるといいなとぼんやり考えた。

「あ」

そしたらあることに気がついた。

「楓、ジャージ雨に降られたまんまじゃないの?」

男湯に声を投げると、

「あ」

本人も初めて気づいたらしいつぶやきが響いてくる。

「そんじゃ今、番台のおばちゃんにお金渡すから受け取って。よくしぼって10分乾燥機回しとけば着て帰れるでしょ」
「わかった」
「じゃ、もー出るからねー」

隣からざばりと浴槽の湯が流れる音を聞きながらわたしも湯船を後にする。
銭湯道具を手早く仕舞い、あたりをきれいにして脱衣所へ戻ると番台に座っていたおばちゃんの姿がなかった。

「あれ。おばちゃーん、いないー?」

見回しているとマッサージ椅子に座った常連さんが「今さっき母屋に一度戻ったよ」と教えてくれた。おばちゃんちは銭湯の裏手にある。

「そっか……どしよっかな……楓、いる?」
「いる」
「そういえばあんたタオルもないんだっけ。二枚あるからかたっぽかしてあげるけども……」

しかたない。脱衣所でやるのはなんか抵抗あるけど、また仕切りの上から投げるか。
サイフとタオルを用意していると、ブワー!とものすごい勢いでさっきの女の子と男の子が浴場から駆け込んできた。
おお、おお二人とも真っ赤な顔して。

「おとーさん、もー出たー!?おかーさんまだお風呂だよー!」

女の子が男湯の脱衣所へ大声をかけると「もー出たよー。なっちゃん、着替えこっちにあるからおいでー」と穏やかな男の人の声が帰ってくる。お父さんもいっしょに来てたのか。

男女の脱衣所の壁の仕切りにはお風呂屋さんが掃除などしやすいように一枚の扉で行き来できるようになっている。
こどもはよくここを通って自在に男女の境を飛び越えられるのだ。

はーい!と手を上げて答える女の子を見てピンとひらめいた。

「ねぇ、なっちゃん」
「あ、おねーちゃん」
「お父さんのとこ行くんだよね」
「うん!みーくんもいっしょ!」
「そっか。あのさー、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど頼めるかなぁ」
「なあに?」
「むこーにいる、背のでっかい目つきの悪いおにーちゃんにこれとこれ渡してほしいんだ」

小銭入れとタオルを一枚なっちゃんの顔の前に出すと、「いーよ!」とむちゃむちゃいいお返事をいただいた。

「おお、なっちゃんありがとう!」
「みっくん、行くよ!」

小銭入れとタオルを両手に持ち、恋人みっくんを伴ってなっちゃんは風のように男湯の脱衣所へ続く扉を駆け抜けていく。
わたしはその背中を扉の死角になる場所へ移動して見守る。

この扉は実は曲者で、なっちゃんたちこどもが勢いをつけて出入りしたりすると男女の脱衣所を数秒間無防備につなげてしまい、場所によってはお互い丸見えになってしまう。
取っ手と噛み合わせがない単純な一枚扉なので、開いてから再び閉まるまでにある程度時間がかかるのだ。

「楓ー、今女の子がそっちいったでしょー。サイフとタオル預けたから受け取ってー」

間もなく向こうから

「はい、背のでっかい目つきの悪いおにーちゃん!おねーちゃんから!」

と元気ななっちゃんの声がする。なんて利発な子なんだ。楓がどんな顔で受け取ってるか想像しなくてもわかる。
こっそり笑いながら自分の脱衣かごまで戻って体をふきはじめると、

「おねーちゃーん!目つきの悪いおにーちゃん、いたー」

なっちゃんが再び足音高く風のように扉の向こうから駆けてきた。

「あ、ありがとー!」

振り向くと、なっちゃんの背後で開ききった扉が慣性に任せて閉まっていくところだった。
その数秒間、向こう側に立つ楓と目が合った。


「…………」
「………よ」


扉が閉まった。キイと軽く軋んだ音をたてて。


…………
…………


うん

見られたなあれは。わたしからも見えたということはあっちからも見えたはずだ。
わたしはかがんでたし、あっちは腰にタオルを巻いてたからお互い致命傷は避けられた。よかったよかった。
つか、「よ」、なんて言おうとしたんだ自分。「よう(挨拶)」か。「よう(挨拶)」なのか。
いやそんなことはどうでもいい。
見られたのは上半身だけだ。しかし……。

「まずった……」

胸を見られたことの羞恥心とは別のことでわたしは動揺する。というより、失態を悔やむ。
楓との距離は2メートル強ほど、角度は左斜め。
見えたか? 見えただろうな。ああ。

鏡の前で左胸の下に走る傷跡を確認する。湯上りでいつもより心持ち赤く浮き上がっているのが間が悪い。いや、そもそも銭湯の湯上りでもなければ見られる機会なんてなかったのだから間の問題ではない。
けど普段はもっとずっと目立たないのに。間が、いや、だから間じゃないんだって。


ああ、
動揺している。

とりあえず体をふいて頭を乾かそう。そんでコーヒー牛乳飲もう。喉かわいた。

タオルで傷跡の上をこすって水滴をふき取る。
付き合いの長いこの傷にコンプレックスなんてまるでない。自分が一番見慣れているのだ。すでに馴染んだ体の一部だ。強いて言えば昔のアホの思い出写真の一枚と同じようなもの。
見るたび、本気で傘で空を飛べると信じていた自分を思い出して少し笑ったり、あの時楓に大きな怪我がなかったことの幸運にかえすがえす安堵したり、それをもたらした偶然にでも神様にでもとりあえず感謝してみたり。

けど、あれにこれを見られるのは何となく嫌だった。
わたしにしたらひたすらアホな思い出でしかないのに変に気にされたら嫌だというか面倒というか……いや、気をつかうような奴じゃないのは百も承知なんだけど。

傷の場所が場所だしそんな機会は永遠にないと思っていたのだが、うっかりした。
まぁ相手が相手だし、大体十年以上昔の話だし、メリーポピンズ事件をあれが覚えてない可能性だって高い。
そうだ、それに覚えていたとしてもこれがあの時のものだと気づくほど楓は鋭くないはずだ。
バスケ以外は何でも「ま、いーか」と「どーでもいい」で片をつける奴なのだから。

大丈夫大丈夫、と自分をなだめて服を身に着けていく。
しかし、目が合った瞬間かわいく悲鳴の一つでも上げとくべきだったかもしれないことを思い出して、やっぱり大丈夫じゃないかもしれない、乙女として、と深いため息がついて出た。