いずみ湯ののれんをくぐって下駄箱に靴をあずけて鍵をかける。
男女に分かれた入れ口ののれんをも一つくぐると、一気にむわりとした熱気に囲まれる。

「おばちゃん、大人二人分」

番台に腰かけた馴染みのおばちゃんはわたしと楓を見ると、あらと大げさに目を丸くした。

「まぁまぁ、ちゃんに楓ちゃんじゃないの久しぶり。あらーどうしたの、雨の中わざわざ」
「台風で給湯器こわれたー」
「あら。これしきの雨でどうにかなるなんて」
「根性が足りないよねぇ」
「本当よねぇ。あら。楓ちゃんずぶ濡れじゃないの。どうしたの。まあまあ、いつの間にかこんなに大きくなって!来年高校二年生だっけ? あらーあらあら、二人ともほんっと昔はちっちゃかったのにねぇー」

おばちゃんは左右に分かれた男女の脱衣所に立つわたしたちを交互に見やった。
楓をちゃん付けで呼ぶのもこのおばちゃんくらいのもんだろうな……。

わたしはサイフから千円札を取り出しておばちゃんに渡す。

「これ楓の分も。シャンプーとか石鹸はいいっしょ。後で投げるから」

番台でも小分けの石鹸やシャンプーは売っているけど、わざわざ買わなくてもわたしが使い終わった後で浴場のしきりの上から投げて渡してやれぱ共同で使える。家族連れの客はよくやる方法だ。

楓がうなずいて視界から消える。
ごゆっくりー、とおばちゃんの声を聞きながらわたしも脱衣かごを持って、適当なスペースを見つけて服を脱ぐ。


浴場の戸を開けるやいなや湯気が全身を包む。
久々の銭湯の空気に顔がにやける。

体をざっと流して湯船に入ると何とも言えない気分になる。
自分の体の中心だけがお湯の中に浮かんでいて、その他は広がって溶けてなくなっていくような解放感。
もういっそこのお湯になりたい。溶けて流れて消えていきたい。はービバビバ。

しばらく目をつぶって広い湯船を堪能していると、ふと伸ばした足に何かが勢いよくぶつかった。なんだろう。
目を開けるとそばで幼稚園くらいの女の子と男の子が蛇口に手をかけてバタ足をしていた。
ああマナー違反。しかしわたしも昔よくやった。許す。
時代が変わっても泳いだり潜ったりというのはこどもなら誰でもやるものなんだろう。
実を言えば許されるならわたしもやりたいのだが…………我慢だ。年を取るとわきまえなければいけないことが増える一方だ。何だか損だ。
こどもたちよ、今の内に存分にやるがいいさ……と羨望と寛容のまなざしで見ていると、女の子がわたしの視線に気づいてこっちを向いた。

「お湯、かかる?」
「ん? そだねちょっとね」
「怒る?」
「怒んないよ」

不安そうにたずねる女の子がかわいらしい。その横で男の子は鼻をつまんでお湯にもぐっている。マイペースだ。我関せず。面白い。
昔はわたしも楓とこんな風に銭湯で遊んだりしてたなぁ。あいつは昔から度を超したマイペースだったからいっしょに遊ぶというよりそれぞれ勝手に違うことをして遊んでいたという感じだったっけ。
それでもコミニュケート取れていたんだからこどもって結構すごいのかもしれない。

「君たち姉弟?」
「ううん。みーくん、となりの子」
「お友達なんだ」
「ううん」
「え、友達じゃないの」
「恋人」

えー。

「うっそ!いいなー」

ませてんな!最近のこども!

思わず笑ってしまった。
潜っていた男の子の頭がプカリとお湯から出たところで、女の子が「ね?」と同意をうながすと男の子、何も聞いてないのに思い切り「うん!」と答えた。おいおい。

「いいね。ヒューヒューだね」
「おねーちゃんはいないの、恋人」
「お……おねーちゃんは、いない……かなあ」
「さびしーね」
「……そうだね」

何、この子。銭湯の刺客?
あいたたた、と胸を押さえると女の子の目がわたしの手の先を追った。

「おねーちゃん、それどうしたの」
「……いや、胸が痛いこと聞かれたなと」
「痛いの?」
「え?」

たずねる自分が痛そうに眉をしかめてわたしの胸を指差した。
あ。そうか。

「ううん、これは痛くないよ。大丈夫」
「ほんと?」
「うんほんと」
「かわいそう……」
「いや全然! 大丈夫だよー」

人の痛みを自分の痛みのように感じている小さな女の子の横で男の子が再び大きく息を吸ってお湯の中へ消えた。ほんとマイペースだ。楓二号と呼ぼう。心の中で。

「それどうしたの?」
「え、ああ」

どうしたの、と訊かれればそれは、

「落ちたの」

と答える他ない。

「どこから?」
「ベランダから」
「どうして?」

どうして、と訊かれればそれは……

「あほだったの」

と応える他ない。
女の子が首をかしげる。わたしは笑う。
そう、あほだったのだ。
女の子の視線の先、わたしの胸の下に走る傷跡を見下ろす。
ずいぶん薄くなったけど、お湯につかると少し赤く浮き出て目立つのかもしれない。

君たち、風が強い日にメリーポピンズごっこをしようなんて間違っても思っちゃ駄目よ、と言おうとしたとき男の子がお湯から空気の世界へと帰還した。
大きく水のはねる音と、小さな肺いっぱいに酸素を吸う音が浴場の高い天井に反響してゆるやかに響く。
おかえりーと女の子が朗らかに彼の帰りを出迎える。
……この年で恋人がいるくらい現実的なら傘で空を飛べるなんて思うわけないか。
さて、はやく頭と体を洗って男湯にシャンプーを渡してやらねば。
湯船を出る。

その後ろで女の子と男の子が二人声を合わせ数を数え始める。


いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅうー
おっまけーのおっまっけーのきっしゃポッポー ポーッと鳴ったらあっがりっましょ、ポッポー


懐かしい。
昔わたしたちもよく歌った数え歌だ。
よく考えるとおまけでなぜ汽車が走るのか脈絡がないなぁ。

思いながらシャンプーで手早く頭に泡を立てる。
壁を隔てた向こう側から、
「石鹸」
楓の低い声が単語で響く。
しきりの上から石鹸を放り投げてやると
「……ノーコン」
呆れた声が続いた。

「じゃ、返せ」

少しして泡を流していると頭のつむじの真上に寸分違わず固形物が落ちてきた。
…………。

「……ナイッシューとでも言うと思ったか……!」

仕返しにシャンプーボトルを乱暴に放り投げるが、落下した音がしない。うまくキャッチしたんだろう。

「ナイスパス」

ちっくしょう……!
かえってきた石鹸を苛立ち紛れにタオルで思い切り泡立てる。見る間に立派で豪華なシャボンが出来る。フハハ。ゴージャス。見たか、イライラの力。


おっまけーのおっまけーのおっまけーのきっしゃポッポー
ポーッと鳴ったらあっがりっましょ、ポッポー



湯船の中では顔を真っ赤にした女の子と男の子がまだ歌っている。
おまけのおまけで何本汽車を走らせるつもりだ。のぼせるぞ。