風が窓を殴る音で目が覚めた。
ああ、台風がきているのか。
気のせいか湿気を吸って体も重い。
寝返りを打つとうっかりベッドから転がり落ちた。諦めてそのまま起きることにする。
携帯を見ると6時半。いつもより一時間早い。
カーテンを開けると弱い雨が落ちていた。
……でもこれじゃ学校は休校にはならないだろうな。
あくびをしながらぼけっと外を眺めていると、街路樹の葉が大げさに揺れている下を見慣れたジャージの後姿が走りすぎていくのが見えた。
楓だ。
あの背中なら影絵でもわかる。

「雨でも走ってんのか……」

まったくよくやる。
もう一つあくびをしている間にジャージの背中は消えていた。さすがに速い。



嵐の朝にはきまって思い出すことがある。
十年以上昔の話だ。


一本の大きな蝙蝠傘を楓と二人で持って、いっせーのせでベランダから飛び降りた。
メリーポピンズを見た翌日だった。
風に乗って思うまま空を飛べることを疑いもしなかった。
まさかそのまま垂直に庭に落下するなんて夢にも思っていなかった。
こどもって基本的に全員アホなものだけど、多分その日の朝日本で一番アホだったのはわたしたちだ。
あの時、楓が将来に影響を残す大きな怪我をしなかったのは楓にとってもわたしにとっても大きな幸運だった。

強い風が気まぐれに窓を叩いて他人の顔で去っていく。
街路樹の枝葉が人を威嚇するようにしなって揺れる。

雨でも風でも嵐の朝でもあいつはいつも走ってる。
走れるだけ、どこまでも走っていこうとする。
昨日も今も、多分明日も走ってる。









元々足の遅かった台風は神奈川に上陸してぴたっと動きを止めた。
朝からだらだら終わらない愚痴のように降り続いている雨と風は勢いこそ弱まったが夜になっても切り上がらなかった。

「んっとに……神奈川県に永住するつもりか台風十七号!さっさと出てけ!」

自然現象に毒づきながらこうもり傘をさして銭湯を目指す。
何日も続いた雨風のせいでうちから続けて向こう三軒隣の外付け給湯器がぶっ壊れたのだ。
やわい。華奢い。もっとがんばれ給湯器。現代の利器。

昔から近所に銭湯があるので通うのは苦じゃないが、行きはよいよい帰りはこわい。いや怖くはないけど、帰りもこの生ぬるい雨風の中を歩くと思うとめんどくさい。
かーさんたちはそれを嫌がって車で隣町のスパまで行ってしまった。晩御飯の後うたたねしてたら置いてかれた。起こしてよ。
いやしかしスパなんて邪道ですよかーさん。昔ながらのいずみ湯がわたしら家族の憩いの場じゃないすか。

「いざゆかん我が心のオアシス!嵐の中の孤島!魂の故郷IZUMIYU……!」

折れそうな心を励ましながら銭湯に続く最後の角を曲がると、前から走ってくる楓と出くわした。
雨でも夜でもおかまいなしだ。本当にいつでもこいつは走ってる。
距離が近づいたところで手を上げるとこっちに気づいてロードワークの足を止めた。

「よー」
「おう」
「雨降ってんのによく走るね」

雨に打たれてずぶ濡れの楓はさすがに息が上がっている。

「まだ走んの」
「もう帰る」
「あっそ」

いつもの短いやり取りを終えて、じゃ、と手を上げて別れる。
楓の背中が見る間に遠くなる。

あ。そうだ。

「楓!」

大声で呼ぶ。暗闇の中でむっつりとした顔が振り向く。

「あんたんちの風呂、壊れてる!」
「何で」
「台風!うちもやられた」
「……いずみ湯?」

いずみ湯は楓んちも昔家族でよく通っていた。わたしが銭湯に行くところだと察したらしい。

「そー!」

うなずくと去っていった時と同じスピードでこっちに戻ってきた。
ひとっ風呂浴びて帰ることにしたんだろう。賢明な判断だ。だが

「お金あんの」
「貸せ」
「貸してくださいだろ」
「貸し一つ」
「恩に着れよ」
「五百円そこらで偉そうに」
「五百円で地上の楽園にいけんのよー五百円さまさまよー」
「安い女」
「なんか聞こえたな」
「人間が安い」
「おーよ特売中よ絶賛売り出し中のピッチピチギャルよ」

楓の口の悪さなんて流すに限る。
ハッハッハと白けて笑いながら並んで眼前にせまったいずみ湯へ向かう。
しかし今までは走ってたからいいものの、徒歩でこの雨じゃ体が冷えるだろう。

「傘、ほら」

こうもり傘を楓に渡してやると礼一つなく受け取ってわたしのはるか頭上で差した。
実用重視の大きな傘だ。図体のでかい幼馴染が入ってもわたしがはみ出すこともない。

魂の故郷いずみ湯はもうすぐそこだ。