明日雪が降ったら、と仁王が言った。ぼそりと眠たげな声だった。ふと思い出したような口調だった。
明日が雪が降ったら。


に好きって言うかもしれん」


すこぶる冷える帰り道のことだった。



「え」

と声を漏らしたのはわたしでなくジャッカルで、小石もない平坦な道でつまづいたのがブン太。

それまでぼけっと自転車を引いていたわたしは名前を呼ばれて仁王を見た。
仁王は空を見ていた。
雲がすごい勢いで流れている紺色の空を見ていた。視線を追いかけてわたしも見た。
振り落とされそうな速度の雲だ。
何の話をしていたんだっけ。

「さっみいなー」「マジ風邪ひくぜこれ!」「明日は雪がふるかもねー」「明日、雪が降ったら」

雪が降ったら。

歩きながら、沈黙のまま、ジャッカルとブン太が変な顔でわたしを見ていた。

(なんだなんだ、今仁王なんか言ったろぃ)
(なに今の、俺の空耳?)

いや、わたしを見られましても。
戸惑っていると仁王もこっちを見た。動物みたいな目をしてくるりと笑った。

「気ぃつけて帰りんしゃいよ」

あ、うん、とわたしはうなずいた。
ジャッカルとブン太はまだ変な顔してわたしを見ている。
わたしは全力でそれを無視してひたすら歩いた。


翌日雪は降らなかった。
その代わりに朝、幸村がうちまで迎えにきた。


「おはよう、

ニコ、なんて音でも出てきそうな笑顔だ。一瞬家の中に戻るか学校までチャリダッシュで振り切るか二択が浮かんで、すぐにしぼんだ。
やってみるだけ体力的に無駄、っていうより精神的に無理。走ったところで呪いで転ぶ。
あきらめてチャリを引いてご機嫌な幸村の隣に並んだ。

「おは……よう…………どうしたんですか、今朝は」
「雪が降らなくてとても残念な朝だよね。俺もそう思ってた。世界ってほんと時たま気がきかないよね? 脚本にウチダテマキコとか雇ってみようか? 俺月9とか見たことないけど彼女のホンってどう?」
「どう……どう…………どう……?」
「嫌だな、馬扱いなんてよしてくれよ」
「…………脚本てなんですか」
「神様的脚本。運命という名のインクで白紙の人生にビロードのような物語を綴るんだ。時に甘く、時にさみしい、そんな一話一時間、ぴったり十一回でおわる恋の聖書」
「あーあーあーあーあーおかあさーん、おかあさーん」
「幼児退行? お前ってほんと、女性的な成熟に欠けてるよ」
「ちゅうがくせいのわたくしにせいじゅくもとめられても」
「ハハ、思春期のはじらいも持たないくせに何を」
「………………………………ハハ」

出会って一分くらいでここまで人を疲弊させる幸村見たことない。
わたしの知ってる幸村史上初だ。

「……あの……本当にどうしたの」
「うん、だから心配になって」
「(だから?)(なにが?)……へえー」
「雪が降ったら迎えになんかくるつもりはなかったんだけど」

あーあ、とため息して曇った空を見上げる幸村にもはやこんなことなぜ聞くのだろうと自分でも思うけど一応、聞いた。(礼儀のような気がして)

「……なんで知ってんの、昨日の帰り道の話」
「うんまあ普通にブン太から電話きた」
「…………ブン太ってテニス部で、髪の毛赤くて、わたしの友達だったような気がするあのブン太?」
「あいつ本当に優秀だよね。いい友達持ったな、
「もう友達じゃない」
「またまた」
「友達なんかいない……」
「俺がいるだろ」
「…………」
「で、どうするの」
「………………」
「だよな。どっちにしても仁王次第。でもお前も自分の気持ちは見つめておいてほうがいいよ。何より大事なことは相手の出方じゃなく、自分のあり様だ。テニスと同様ね」
「……………………」
「ま、そんな感じでいいんじゃない?ほっといてもまとまるもんはまとまるし、駄目になるものは誰が手を出しても駄目になるよ。運命に身を任せてみたら? ハハ俺運命って言葉大嫌いなんだけど」
「……………………………」
「でももしうまくいったとしても部活内でそういう空気出すんじゃないよ、うざったいからさ。まあ二人ともそういう感じじゃないから大丈夫だと思うけど。え?高等部の話だよ。もマネ続けてくれるんだよね? ああ俺は早く高等部で練習したいよ。卒業式まであと十日だっけ? もー部活ないと体がなまってなまってさ。そりゃあ自主練はしてるけど、やっぱりつまらないよね、一人だと。さみしいよ」
「……幸村って、すごいね」
「え? なんだよ急に。照れるなぁ。でもありがとう。フフ」

一人でも、すごく、楽しそうだ。



かつてなく長かった登校時間が校門の前でようやくおわった。(救われた)
駐輪所へチャリを置いてくるからと幸村に手を上げ、返事を聞く前に踵を返した。

、」

その別れ際、ふといかにもついでのように呼び止められた。

なに。きしむ首で振り返る。幸村の顔はいたって真顔だった。そして、

「仁王のこと、わかったなんて思わないほうがいいよ」

上からふわりと物をかぶせるように言った。びっくりした。

「……思わないよ」
「ならいいんだ」
「てか、全然、全然わかんないよ」
「ならいいんだ」
「……どういうこと」
「いま言ったことが全部だよ、。仁王は言葉でつかまえられるような奴じゃないから」
「……奴じゃないから?」
「お前はいつでも人に答えを聞いてばかりだね」
「わたしの周りにはいつでもさっぱりわからない人がいるからね」
「わかった。じゃ、駄目な子のお前にヒントをあげよう」

いいかい、と幸村は思わせぶりたっぷりに空咳を一つして、人差し指をわたしの目の前にかざした。

「彼の中で一番信じられると思うものを信じるんだ」
「…………それって当たり前のことじゃない?」
「当たり前のことをすぐに忘れるから人間てのは手に負えないんじゃないか」
「自分が人間ではないようなおっしゃりようですことで」
「そりゃあね、だって俺は」
「「神の子だから」」

わたしと幸村の声がぴたりと重なった。
幸村はよくできましたの教師顔。わたしはきっと零点とった生徒の顔だ。

「……聞いておきますよ、幸村先生」
「ならいいんだけど。心配してるんだよ。は大事なマネだから」

軽く肩をすくめた幸村は、そこだけ聞けば感動するようなセリフをはいた。

とても、とてもとても、疲れた。






クラスに入るとすでに本鈴の直前だった。幸村先生、話が長いです。
仁王の席にはまだ鞄がなかった。遅刻はいつものことだ。特にほっとしたということもなく、そうか、と思っただけだった。
当の仁王と会うより、多分幸村と会うほうが意識して疲れる。

仁王は3時間目の途中からいつの間にか席についていた。忍者か。
一度だけ目が合ったけど、気まずさみたいなものはみじんもなくてそこにほっとした。よかったよかった。









移動教室で二年廊下を通ったら赤也がダッシュで寄ってきた。
センパイセンパイ!といやに懐こい顔でご機嫌だことと思ったら案の定、

「仁王センパイとつきあってんスか〜?」

にや〜とチェシャ猫のような笑顔。

「……耳がはやいね赤也」
「足もはえーっス!」
「よかったね」
「いて!いてぇスよセンパイ!足!足踏んでますって!超DV!」
「優しく踏んづけただけじゃないの。大げさ」
「なんスかも〜。あ、もしかして仁王センパイと足のケガきっかけで付き合ったから俺にもモーション?スか? や、俺部活内三角カンケーとか風紀的にどうかと思うんスけど大歓迎です」
「どっちだよ」
「でも仁王センパイ相手はなんかめんどそーだからやっぱスンマセンセンパイ」
「わたしいつの間にかふられてるし!」
「で、付き合ってんのってマジすか」
「マジじゃないす」
「ですよね。告られただけって聞きました」
「……告られたわけでもないような……」
「あ〜今日雪ふんなかったっスもんね〜残念!」
「……お前最初から全部聞いてんだろ」
「丸井センパイっス!」
「だろうともよ。……メール?」
「電話っス。昨日9時ごろ」

あいつもう友達じゃない。蹴る、今日、絶対。
奥歯を噛みしめながら誓っていると赤也が顔をのぞきこんできた。

「残念スか?」

ひょこりと首をかしげて楽しそうに歯を見せて笑っている。

「なにが」
「仁王センパイから。告られなくて。残念?」

赤也は完璧にからかっている。わたしはからかわれている。いやからかっているのは仁王のほうだろうか。

わたしは無言で赤也に頭突きした。
いってぇ! 赤也が目に涙を浮かべて笑っている。 マジいてえスよセンパイ! 懐こい顔で、笑っている。雪の降った日のこどものようにはしゃいでいる。











卒業式で歌う合唱の練習がおわると、外はもうすっかり暗かった。
うちのクラスは全体的にみんなでワイワイと仲がよかったけど、何事も直前にならないとまとまらないルーズなところがあって、体育祭でも文化祭でもそうだったのが最後の最後まで変らないのがなんだか却っておかしくて、「うちら本当しょうがないね」と言い合いながら、少しさみしくなった。
ほとんどがそのままエスカレーターで高校へ進学するメンバーなのだけど、この学校はとにかく生徒数が多いから、来年同じクラスになる子はもしかしたらこの中に一人もいないかもしれない。

じゃあね、バイバーイと廊下でクラスメイトとすれ違う度手を振って下駄箱へたどりつくと、ひょろりと長い背を壁に預けた仁王がいた。昇降口からうかがうように空を見ている。

帰らないのかな、とうわばきを履き替えながら見ていると、わたしに気づいて軽く顎を引いてみせた。

「冷えるのう」
「あ、仁王でも寒いって思うの?」
は俺をなんぞと思うとるんじゃ」
「体温は低いけどその割りに寒いのとかあんまり感じなさそーなイメージ」
「イメージ」
「そう。イメージ。でも寒いんだね、やっぱり」
「寒いよ。やっぱり」

並んでそのまま自然に歩き出した。
待ち合わせをしてたかなと思ったくらいだ。

「……待っててくれたの?」

仁王はうなずいた。単純に。最初からの決まり事のように。

「……ありがとう」

もう一度うなずいた。今度は少し、首をかしげながら。




駐輪所からチャリを持ってきて、校門の前で仁王と合流して歩き出す。
会話はたいしてなかったけど、沈黙が続いても緊張はしなかった。
仁王はいつも通り普通で、それがあんまり自然だったので、あれ、じゃあ何が普通じゃないんだっけと度を失いそうになる。

横の仁王を見上げると、猫背をわずかに左右にゆらして悠々と歩いている。
何を考えてんのかなと思っていたら、前を向いたままふいに口を開いた。

「合唱、何とかなりそうじゃの」
「あ、ね。あと十日もあればなんとかありそうだよね。でもうちのクラスってほんとエンジンかかるの遅いっていうか、のんきだよね」
「ほんにのう。ジャッカルのとこなんぞとっくに三曲仕上げたらしい」
「柳のとこは他のクラスとの合わせも全部おわったんだって」
「でも真田んとこは苦戦してるらしいぞ」
「あー……真田…………だろうね」

真田の低い声は合唱ではいつも一人目立ってしまうので調整が難しいんだ。去年の合唱コンクールでは逆にそれを生かしてソロを歌ってたけど、卒業生全員の合唱ではソロも何もあったもんじゃない。
逆にやったら伝説に残りそうだけど。

「課題曲の中でどれが好き?」
「あれがええ」
「あれって」
「これ」

鼻歌でフンフン流れるメロディはわたしも三曲の中で一番好きな歌だった。

「巣立ちの歌だ」
「そう、そいじゃ」
「いいよねあれ。歌詞も好き」
「いざさらば、さらば友よ、か」
「そうそう、寂しいけど潔くて好き」
「寂しいけど、潔くて好き」
「あ、また繰り返す癖。仁王、いつも思うんだけどそれって何なの?」

無視して仁王はフフフーンフフーン、と鼻歌を歌いはじめた。巣立ちの歌。
まあいいけどさ。
わたしもフフフフフーン、と適当に鼻歌を合わせた。
美しい明日の日のため、さらば友よと別れる歌だ。
短い歌なのですぐにおわった。そうするとまた沈黙に戻った。
チャリの車輪の音だけがしばらくカラカラと響いた。
そういえば去年、やっぱり仁王と二人で帰ったことがあったっけ。
その時は星がきれいで、車輪の音の代わりに仁王のつく松葉杖の音がコツコツ鳴っていた。
そんなに時間が経ったわけじゃないのに、すごく懐かしい。

はええのう」

唐突に仁王が言った。

「……は?」
「羨ましか」
「……な、なにが?」
「なんもかんも」

歌うように言って、少しも楽しそうじゃないのに声だけで笑った。

仁王は、本当にによくわからない。
毎日部活でいっしょにいても、人の本当のところなんてわからないことばかりだ。
それは仁王だけじゃなくて、幸村や真田やブン太に柳、柳生も赤也も、わたしが知ってるのはわたしが知っているところだけなんだろう。当たり前だけど。(けどジャッカルはなんとなくわかりやすい気がする)

ただ、三年間毎日顔を合わす中で、仁王が相当のめんどくさがりだということはわかった。
一見なんでもそつなくこなしているように見えて、自分の興味のない事や興味のない人と話すときは、まるで気が入っていないのだ。
仁王を見ていると物の基準が好意と嫌悪の二つしかないように思える時がある。
それ以外は彼にとってはどうでもいいような。
といって、どうでもいいから邪険に扱うという事はなく、どうでもいいからこそ鷹揚に相手をしている、ような。


そのくせ、好意の範疇に入った物事や人を大事に扱うかと言うとそうでもない。
たとえば大事なガラス玉をわざと高く放り上げてキャッチする緊張感を楽しむようなタチの悪さがちらちら垣間見える時がある。
テニスに対してもそうだ。
部内の紅白戦なんかで、仁王はたまに楽しんで負けるような試合運びをわざとする。
もちろんわたしが気づくくらいだから、幸村や真田はとっくに承知しているらしく、そんなとき真田は唇を噛んで拳を握り、幸村はまぁまぁ、と面白そうにそれを眺めている。

気まぐれというか、酔狂というか。
かぶいているかと思えばものぐさで、徹底した個人主義かと思えば案外面倒見がよかったり。
とにかく一貫して読めない奴であるのはたしか。


「あのさ」

ん? と首をひねってこちらを見上げる仁王は、本来の名前じゃない呼び名で呼ばれた猫のような顔をしていた。
呼ばれたから振り向くけどさ、それほんとの俺の名前じゃねーよ、まあいいけどさ、なあに。ニャア。

「雪が降ったらなんとかって言ったよね」
「好きって言うかもしれんて言った」
「……そう。言った」

好きとか、さらっとよく言うなこの人。すごいな。とわたしはたじろぐ。
けれどその分こちらも言いたいことを胸の内から手掴みに持ち出せる。恥かしいのはわたしじゃない。わたしだけじゃない。いけわたし。さあわたし。

「それはつまり」
「それはつまり?」
「とどのつまり」
「とどのつまり?」
「……つまるところ」
「つまってばっかりじゃの」
「言葉につまるよ」
「察する」

喉の奥で仁王が笑った。くそ、笑われた。
言葉を掴むのって、難しいな。もう。
もう一度だ。

「だから仁王は」
「俺は?」
「わたしを好きなの?」

仁王は真顔でわたしを見た。そしてゆっくり目尻を下げて微笑んだ。
そして何も言わなかった。

えー。

「……………恥を忍んで聞いてるんですけども」
「そんなに恥かしがらんくても」
「恥かしいですよ!なんでこっちから告れってせっついてるみたいな!嫌だもう気持ち悪い!居心地悪い!何が何だかわからないもー」

力がぬけて頭と肩が下がる。よしよしとその頭を撫でられる。

「触んないで」
「つめたいのー」
「……なんか言ってよ」
「なんかってなんか」
「……なんかだよ」

この居心地の悪さをどうにかしてくれ。

なんかか、と言って、仁王はんー、と静かに、長くうなった。エンジン音みたいだ。
仁王のエンジン、とおかしな単語が頭をよぎる。
仁王のエンジン。この男を動かす原動力。なにでこの男は動いてる? なにでこの男は熱くなる?
想像もつかない。

ぴたりとうなり声が止む。薄い唇があっさり開く。

「人生、何でも一回きりで寂しいのう」
「え…………は、なにが?」
「歌も、本も、試合も、人も。みんなじゃ」
「……歌も本も何度だって読めるし聴けるし、試合だって何回もできるし……人とだって会えるでしょう」
「おんなじ奴と何回会っても、会えるのはそんときだけじゃ。歌も試合もおんなじ。みんな一回ずつしか会えんしできん。寂しいのう」
「……一期一会ってこと?」
「ほーじゃのう」
「……仁王って意外とセンチメンタルだねぇ」
「ほーか」
「なんか……いろいろどうでもよくなってきたよ」

気が抜けて、力も抜けた。笑ってしまった。

「ほーか。ほんでな、好いとるよ」
「は?」
「そら、好かんかったら好きって言うかもしれん言わんき」
「……はぁ」
を好いとる。なんぞいらんこと言うて考えこませてしもうて悪かったのう。雪、今日は絶対降ると思っちょったんじゃが、あてが外れた」

ちぇ、と唇を曲げてつまらなそうに空を見る仁王は実にけろりとしたものだった。
そう見えるだけなのか、真実そうなのかなんて判断がつかない。
その「好き」がどういう意味なのか、まるでわからない。
犬が好き、コロッケが好き、焼肉が好き、みたいな意味なんじゃなかろうか。
でもそれならわざわざ予告してまで口にする意味はあるのか。そもそも告白の予告って、なんだ。

?」

いつの間にか立ち止まっていたらしい。怪訝そうに先を行く仁王が振り向いた。
いつも通りの涼しい顔だ。

仁王のルールはわからない。
両手を挙げて降参しながらいつでも王手の一歩手前にいるような。
勝負の百手先まで読みながら無策の丸腰で立つような。
そう思わせるのが計略なのかたまたまの結果なのか。
それともその一瞬しかいない自分の意思にいつでも手放しで従順なのか。

「……わっかんないなぁ」
「なんが」
「仁王がさ」
「ふん?」
「何を考えてるのかやっぱり全然わかんないけどさ」

横を向くと仁王がまっすぐこちらを見ていた。表情のどこにも力は入っていないのに切れ長の目がいつもより少しだけ神妙に見えた。

「でもなんか、ありがと」
「プリ?」
「仁王がどういう意味で言ったのかわからないけど、わたしを……うーんと、好き……だって思ってくれて、それをわたしに教えてくれてありがとう。……て、これ、伝わってる?大丈夫? だからね、恋愛的なあれでなくても、犬が好き、コロッケが好き、焼肉が好き、みたいな感じでもなんでもいいんだけど、とにかく、うん」

何を言っているのかこんがらがってきた。何を言っても余計に聞こえる。
言いたいことはとにかく、これにつきる。

「好きになってくれて、うれしいよ」

実際言葉にしたら清々した。
どんな意味で言われたのでも、何でもいいや。仁王はわたしの大事な部活の仲間で、クラスメイトで、なんだかおもしろい奴で、いっしょにいると不思議で楽しい。
付き合ってくれと言われたわけでなし。考えすぎた。
どんな意味でも、仁王に好かれたらわたしはうれしい。今はそれ以上の答えはない。まだ問われてもいないから。
きちんとお礼を言いたい気分だった。笑って頭を下げた。

「どうも、ありがとう」

仁王は表情を変えずにぱちぱちと二度まばたきをした。
それから、くしゃみをしたように笑った。

「ありがたいのはお前さんじゃ」

言って、わたしの頬骨のあたりを親指でこするように二度触れた。汚れを落とすような動きだったので、何かついていたのかと思ったところだ。その時の仁王の目を見ていなければ。

「……仁王?」
「なんか」
「……どうして泣きそうになってるの」

切れ長の目をすがめた一瞬こみ上げているものをたしかに見たのだ。

仁王の唇が慣れた形に薄く引かれた。癖というより条件反射の自然さで。

「仁王、ど」


早口にわたしの苗字を呼ぶ仁王はルール違反をしたこどもをたしなめるように余裕をにじませて言った。

「訊くんは野暮ぜよ」
「え……や……? なんで?」
「なんでもかんでもなか」
「なんで、どうして?」

しつこくたずねてももう仁王はそれきり何も答えなかった。
時折、とぎれとぎれに巣立ちの歌を適当に鼻歌していたから機嫌を悪くしたわけではないらしいけど……。
仁王は、本当によくわからない。
とても言いそうにないことを急に言ったりするし、言わなくていいことばっか言ったりしたり、たまにすごく優しくなったり、なんでそこまでってくらい辛辣になったり。

でもいつもどっか安定してる。
きっと世界が二十度くらい傾いても仁王は平気な顔で直立している気がする。
地面に踏ん張ることもなく、高い背をひょろりと屈めていつものように二十度傾いた道を登るんだ。すたこらだらだら軽妙に。


駅についた。駐輪所まで仁王はいっしょに来てくれた。

「今日はホーム、こっちやき」
「あれ、どっか寄るの」

うなずいた。どこにとも、何の用事とも言わなかった。
改札を出たところで「じゃあ」と軽く言い合って別れた。

何がなし、一度振り向いて仁王の後姿を捉えた。
ふと、あの背中は絶対に振り向かないだろうと思った。こうやって別れをしたあと、自発的にもう一度振り返って今しがたの別れをなぞることはしないだろう。
一瞬前の仁王はどこにもいない。仁王の中には多分、余韻は残らない。いや、残さない?
いつでも「今」の仁王を捉まえなければ、彼には会えない。

「仁王!」

後姿が振り向いた。呼んでいたことに仁王の顔を見てから気がついた。

「呼んだか」
「あ、うん」
「なんか」
「あ……えっと」

言いながらお互い1メートルほどのところまで距離をつめる。

?」

猫背をかがめて仁王がわたしの顔をのぞきこむ。何か言わなければ。
何か。何か何か。

「あ…………、なんでも一度きりって言ったよね。一期一会?」
「言うたな」
「じゃあ、次会う仁王はまた別の仁王だね」
「ほーじゃの。次に会うは、また違うじゃな」
「そうだね」
「ほしたら、また、よろしゅう頼むき」
「うん、こちらこそ。よろしく」

「うん?」
「気をつけて帰りんしゃいよ」
「うん。仁王もね」
「そしたら、明日」
「また明日」


わたしたちは軽く手を上げて、じゃ、と言って、今度こそ別のホームへ降りていく。

どうして呼び止めたんだろう。
自分の疑問に答える声が返らない。わからないのではなく、多分答えがないからだ。
呼び止めたかった?
そう。
理由はないのだけれど。
そういうこともあるものなのだ。
そうか。

一段一段、階段を下る。
息を吐く。白く曇る。鼻をすする。

いつだったか火傷をしたとき氷代わりに当てた、ぎょっとするほど冷たい仁王の手はどこへいったんだろう。
さっきわたしの頬骨に素早く触れた親指の腹はひどく熱かった。





そうか。
理由のないことの答えをたずねるのは、確かに野暮だ。




向かいのホームに仁王の姿はすでになかった。
電車を待ちながら、わたしはあのとき視聴覚室で仁王が読んでいた本の名前はなんだったかなと必死に記憶を呼び戻していた。

鼻をすする。息を吐く。白く曇る。



明日は雪が降るかもしれない。




猫の雪模様