十二月に入って一日目の風の強い夜、久し振りにうまい飯が食いたくなったので、と隣の蓮二が夕食時にやってきた。
一週間に一度は来ているのに久し振りも何もないものだ。
別にいいけど。
作ったものを「うまい飯」と言われて悪い気はしない。
それが愛想というものを身から漂白して洗い出した奴からならなおさらだし、純粋な料理の評価と言う点でもうれしい。


生まれる前からのお隣さんで、お客というお客でもない。
スリッパも出さず、じゃ上がって、と廊下を通す。


「今日は家族の方は?」
「母さんと父さんは仕事。じーちゃんはカラオケ」
「お元気で何よりだ」
「まったくね」


居間に入ると蓮二は食器棚からわたしのものと自分用の湯のみを出してお茶を注いだ。
わたしは礼を言って台所に戻り、蓮二は勝手にコートをハンガーにかけて、いつも座る席につく。
部活帰りに直接来たらしい。制服のままだ。


「立海のテニス部って引退ないの?」
「ないわけじゃないが、高等部でも続ける者は自主的に参加するな」
「寒いのによくやるねぇ」
「今日は?」
「豚肉の梅肉蒸し、ナスの揚げ煮、玉子とネギのみそ汁」
「うまそうだ」


テーブルに向かいで蓮二と二人で食事を取るのも珍しいことじゃない。
うちは両親共、看護婦と消防士で夜勤の多い仕事をしている。じーちゃんは喜寿を過ぎてなお趣味がナンパという猛者だ。
本人は「ばーさんがいなくなった悲しみの虚無を埋めるための魂の彷徨」なんて言ってるけど、ばーちゃんが生きてたころから町内のおばちゃんたちを口説いてはしょっちゅうばーちゃんにしばかれていた。
今はしばいてくれる人もなく、解き放たれた獣のようだけど、獣は粗相を叱る主人の声がないのを時折あれっ、と不思議そうに振り返って、ああ、いないんだっけ、と尻尾を垂らしている。
人の手の手綱に慣れたさんぽ犬なのだ。

連れ合いを失くす、というのはこういうことかと何だかおかしいような、せつないような。

 

出来上がった料理をテーブルに出す。
蓮二がテキパキと買って知ったる様子で箸やらご飯茶碗を出すのは気づかいというより、はやく夕飯にありつきたいからだろう。
体育会系の部活やっている男子中学生はひくほど食べる。

 

「いただきます」
「いただきます」

 

同時に手を合わせて湯気の上がる料理に箸を伸ばす。

 

蓮二は昔から一人柳家の中で味覚の好みがちがっていて、よくうちにご飯を食べにきていた。
うす味が好きなのだ。食は人なり。蓮二の顔はさらさらとうすい。でも中身はクセだらけで食えない奴だ。

うちはわたしが一人娘で男の子がないので、こどものころ父母はよく冗談で「うちの味が好みに合うなんて、ほんとは蓮二くんはうちの子なのかもしれないわね~」「ほんとにうちの子になるか?」なんて言っていた。

蓮二はそのたび計ったようにきっかり一秒きょとん、とした後、

「ぼく、ちゃんと同い年だから、おばちゃんちの子にはなれないよ」

としかつめらしく言っていた。
思い出すと小さい蓮二のあの真面目な顔と言い方がおかしい。

 

「同い年だからうちの子になれないって、一体どういう理屈なのよ」

口に出して言って、笑ってしまった。

「…?」

蓮二はみそ汁をゆっくり飲みながら、

「ああ、ずいぶん昔話だな」

思い至ったらしい。

「昔言ってたよね。母さんたちが冗談でうちの子にならない?て言ったとき」
「そうだな。小さいながらこの飯が毎日食えるならここの子になるのもいいかもしれん。しかしうちの両親は悲しがることだろう、と思いを巡らせていた」
「こどもらしくないなー」
「気の回るこどもだったんだ」

自分で言っている。
さらにナスの揚げ煮を飲み下してから、続ける。

「多分、ここの家の子になるというのはと兄妹になるということで、同い年で兄妹というのはおかしいと思ったのだろう。養子で双子というのも妙だしな」
「ああ、なるほど」
「まあ、養子にならなかった今もこうしてこの家の飯が食えるというのはありがたい。はよくおばあさんの味を継いだな」

うちは母が仕事で忙しくしていたので、昔から台所はばーちゃんが守っていた。
西の出身のばーちゃんのうす味料理を毎日口にしていたので、特別よく手伝いをしたわけではなかったけれど、何となくの分量作業をわたしの目と手と舌が覚えているらしい。


「正直、おばあさんが亡くなられたときは、密かにあの飯はもう食えないのだと二重、三重に沈んだな」


母さんも父さんも冗談でも自分の子にしたがるくらいだからずいぶんかわいがっていたけど、蓮二はばーちゃんによく懐いていた。
家の中でかくれんぼなんかをやるとかなりの確率で蓮二はばーちゃんの部屋に隠れた。
わたしはそれを知っていたので、数を数え終わるとばーちゃんの部屋へ飛んでいって

「蓮二くん来たでしょ、どこにいるかおしえて!」

とばーちゃんの腕を取って着物の袖をハタハタと揺らした。
ばーちゃんはいつも鼻でフッフフ、と笑って、人の悪い笑顔を作って「来なかったよ」と言った。
さがしてごらん、と挑戦的に目が光っていた。

また蓮二が大して広くもない部屋で上手に隠れるのだ。
押入れの天井裏とか、すみっこに積み上げた座布団と壁の間とか。

そういえば、かくれんぼはよくやったが、いつも多くて鬼を一回ずつ、少なければわたしがかくれ役をやらずに終わっていた。
かくれ役の蓮二がいつもばーちゃんの部屋へ行って、わたしがさがし当てた後は何となく二人ばーちゃんのいる空間を離れがたく、そのままそこでカードやトランプで遊びはじめるのがパターンになっていたからだ。

わたしも大のばーちゃんっ子だった。

 

 

ばーちゃんが死んだのは三年前の三月、小学校を卒業した春休み中だった。
蓮二は小学四年の冬に一度東京に引越していて、その年のはじめにこっちに戻ってきたばかりだった。
約2年間、盆暮れ正月しか顔を合わせていなかったけど、物心つく前からの幼馴染だったので何ということもなく、うちにたびたびご飯を食べにくる元の日々に戻っていった。
その前日も、蓮二はうちにきていた。
ばーちゃんの作った最後の夕飯は、豚汁とブリ大根だった。

 

例年以上に春がくるのが早く、四月を待たずに桜が咲いているのを蓮二といっしょに近くの高台公園まで見に行ったのをよく覚えている。
初七日がおわってもわたしが塞いでいるのを心配した両親が蓮二に外へ連れ出すよう頼んだのだ、ということはすぐわかった。

だって蓮二ときたら道を歩けばふらふらと赤信号でも渡ろうとするし、水たまりがあるのも気づかず足をつっこんで泥だらけにして、しかもそれにも気づかない、という魂の抜けっぷりだったのだ。
死んだのはわたしに血の繋がる祖母なのに、あきらかに蓮二はわたしより駄目になっていた。
もう、だめだめだった。

二人で缶紅茶を持って、公園のベンチで三分咲きの桜を見ながら、わたしは蓮二にわたしの気分転換を依頼した両親をうらんだ。
自分より落ちこんでいる人間になぐさめ役を頼むなんて。ああ、なんて間抜けな優しさだ。


わたしたちは長いこと三月の初旬とは思えない生温かい風に吹かれていた。
蓮二の手の中の缶紅茶はフタも開いていない。
彼はサイフも持っていなかったので、わたしがおごったものだった。
飲みなさいよ、と思ったとき、今まで無言だった蓮二がぼけっと

「立海行くのよすかもしれない」

と言った。

わたしは本当にびっくりした。
立海でテニスをやるためにこっちに戻ってきて、受験の準備をしてきて、無事この四月からの入学を決めていたのに。
蓮二が一度決めたことを翻すなんて、三年前のその以前から一度もなかった。そして今だにこの発言が蓮二の唯一の前言撤回例となっている。(…嫌なこどもだ)

蓮二がそのとき、どうしてそんなことを言ったのか、ばーちゃんが死んだショックでいろんなことがめんどくさかったのか、ただのぼけっとした気まぐれなのか、はわからない。

三年前も今も、あの言葉の真意に手を伸ばすのはあんまり個人の領域にはみ出す行為なので聞けずにいる。今となっては今更だし。

ただ三年前、あの公園で、あのベンチで蓮二がぼけっとそんなことを言うので、わたしは彼を叱らなければならなかった。

叱って、たしなめて、励まして、そしてなぐさめた。
何でわたしが。お前よりあきらかに悲しがる正当な権利を持っているのはわたしだろ、と思いつつ、「しっかりしなよ、元気だして」とか言った。(ほんと、何でだ)

蓮二は相変わらずぼけっとしていたけど、20分にわたるわたしの一人話の後でとりあえず、うん、と言った。

人は自分より落ちている人間を見るとなぜかしっかりしなくては、と思うものらしく、わたしは結局この日を境に復活したのだった。

両親の目論見は一周回って成立したというわけだ。

ああ、やれやれ。

 

だめだめな蓮二とはそれから春休み中暇を見つけては会って、ご飯を食べさせ、さんぽに連れ出した。
そうこうする内春休みが終わって、蓮二は立海の学校生活が忙しいのが幸いしたようでだめだめな自分からいつの間にか立ち直っていた。

そうして、もう三年が経つ。
はやいものだ。

 

 

「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」

 

長いこと食卓を共にしていると食べ終わるタイミングも合ってくる。
ほとんど同時に箸を置いて手を合わせると、蓮二が茶を淹れに立った。

これも食事後の習慣で、満足と感謝の気持ちだと思う。
蓮二の淹れる茶はおいしい。喜んで飲む。
この一服が終わるといつも蓮二は帰る。帰って勉強して風呂に入ればもう就寝するんだろうな。
蓮二は忙しい人だけど、そばにいてもせかせかと焦る気持ちが伝わってこない。
体は忙しなくても心は統制が取れているんだろう。
二ヵ月後にいよいよ受験のわたしには羨ましい。見習いたい。

テレビをつけるとバラエティ番組がやっていた。見るでもなくつけっ放しにしていると、

「まだ好きなのか、こういうの」

感心したように蓮二が言った。

「好きっていうか、まあ、なんとなく見てるだけだけど。普通?」
「ふうむ」
「蓮二はテレビ相変わらず見ないの?」
「ニュースはチェックしている」
「ふーん」

 

テレビの中の笑い声がパッと散った。
蓮二が立ち上がった。

 

「食器、洗うぞ」
「あ、いい、いい。後でゆっくりやるから」
「そうか?」
「うん、大丈夫」
「悪いな。勉強もあるだろうに」
「10分やそこらで終わるから」
「そうか。ではおばあさんにご挨拶をしてもいいか」

わたしはうんとうなずいた。
食器を下げると、蓮二は居間の次の間の和室へ入っていった。
和室には仏壇がある。
目をつぶって手を合わせている人を眺めるのは不躾な気がするので、わたしは和室の中が見えない位置で蓮二が出てくるのを待つ。
湯のみの底に残った一口分の茶を飲む。
冷めていて香りはなく、甘みが強く残っている。
チン、と短く鐘の音がした。

 

 

和室から戻ってコートを着る蓮二について見送りに廊下に出る。

 

「そういえば、どこを受けるんだ」

受験のことだ。

「うーん、無理なく狙えるところで自転車で行けるところかな」
「このあたりなら、鷹山かニ沢台か」
「鷹山はちょっと遠いんだよね。ニ沢台に行ければいいんだけど……志願者多そう」
「立海なら自転車で充分行けるぞ」
「そっちは頭が無理」
「お前そんなに頭悪かったか?」
「言ってくれるね……立海って超難しいじゃん。特に数学。無理。絶対無理」
「絶対はないだろう、何事も。おじさんたちも立海を勧めていると聞いたが」

もう話が漏れているあたりさすがお隣情報網。筒抜けだ。
たしかに立海は父の出身校でもあるし、蓮二も行っているから安心だ、なんて両親は勧めてくる。

「蓮二と同じ学校ってなんか変な感じしない?」
「するな」
「でしょ」
「だが近いのと学食がうまいのはいいぞ」
「学食?うす味なんだ」
「いや、別に」

首をひねっている。
わたしも首をひねる。どういうことだ。

「味覚の好み広がったの?」

ああ、と蓮二はひねった首を元に戻して、口元で笑った。

「いや、特に」
「? ふうん…」

よくわからないが、蓮二の言うことすることなんて大概そうだ。

玄関に下りて身長差のなくなった蓮二がさらにニヤっと笑った。

「立海には幸村もいるぞ」
「もーその話はいいよ」

この間蓮二の部屋に借りっぱなしだった本を返しに行ったとき、棚に飾ってあった部活の写真が見えたので「この人ちょっとかっこいいね」と言ったのを、何かと笑いのネタにしてくるのだ。
その人はテニス部の部長さんらしい。

 

「勉強なら都合をつけて見てやるから、遠慮なく言ってくれ」
「どうも…」
「飯の礼には及ばんが」

じゃ、とお互い軽く手を上げて、引き戸を開けて蓮二が出て行く。
途端に吐く息に白く色がつく。
風でガタガタと引き戸が鳴る。
十二月の北風だ。わたしの髪の毛も蓮二の髪の毛も流される。

「風邪気をつけてね」
「戸締り、気をつけろ」

言いながら戸を閉めかけた蓮二の手が途中で止まった。

「何、寒いから早く閉め…、」
「昔、おばあさんに頼まれたことがあってな」
「、え」
「そのときはお前に叱られて叶わなかったが、反対にお前がこっちにくるという手もあったのだと最近気づいた」
「……はぁ」
「桜が咲くといいな」
「…春がくれば咲くと思うけど」
「では、春を楽しみに待つか」
「? うん」
「その前に努力だな。これから夕食の後は勉強の時間にしよう。苦手な数学と英語を重点的にやるから、一年からの教科書を出しておいてくれ。基本から要点をさらえばまだ間に合うだろう」
「……蓮二、立海の入試の話してるよね」
「ああ」
「わたしが受かると本気で思う?」
「お前が本気で受かると思えば」

 

ガタガタ戸が鳴る。髪がザアザア流れる。
蓮二が笑う。

 

「俺は負ける勝負は仕掛けない」

 

戸締り気をつけろよ、ともう一度言って、引き戸を完全に閉めた。

我が家の風が止む。ボサボサの髪が肩に落ちる。戸は鳴り続ける。

鍵を閉めに靴下のまま玄関に下りると、足の裏に氷を踏んづけたような冷たさが刺さった。

冬なのだ、春はまだ遠い、真冬の入り口にまだ立ったところなのだと身が震えた。
急いで居間に戻るとつけっぱなしのテレビがバラエティからドラマに変わっていた。

ふと和室を開けると、蓮二の上げた線香の背がわずかに低くなっている。
チラチラと生き物の呼吸のように燃えるその火を見ながら、今年の春は三分咲きの桜をいつどこで見ることになるだろう、と考えた。

 

 

 

                          


                  
の食卓