4月の朝はまだ寒い。
なのに高等部の氷帝生が集められた講堂は横手両側の大扉がなぜか全開になっていて、校庭の砂を巻き上げる風がそのまま入ってくる。

あちこちで聞こえるくしゃみが花粉症なのか寒さのせいなのかわからない。
どちらにしても扉を閉めてもらえば幾分楽だろうに、と一際強く吹きこんだ風に身震いした時、

「あれ、忍足だC!」

と新二年になって同じクラスになったジローくんが言った。(ジローくんと同じクラスになるとテニス部員は自動的に眠った時どうにかする係としてそばにいることになりがちだ)

ようやく起きたかと思ったらまた寝たのか。始業式の間くらい起きてなよ、樺地もいないんだし運んでもらえないよ、と振り返るとジローくんはぴょんぴょんジャンプして忍足ー!と手を振っていた。
幻覚まで見えるのか、とその寝ぼけ加減にげんなりしかけた矢先、ジローくんに向けて振り返す手が遠くに見えた。

わたしまで幻覚が見えている。と思った。








君の寄る辺









去年、中等部の卒業式を終えたその足で忍足は北海道に引っ越した。
お父さんの仕事の都合によるもので、忍足には選択権のない転校だった。
ほとんどが高等部へ進学する氷帝生で賑わう校庭の端、一人空港に向かう忍足をテニス部員で見送って、バタバタながらも別れの挨拶をした。
忍足とは、引っ越しのことを遅れて知ったその日に既にさんざん揉めて泣いていたので当日は平静に、平和に、無難に送り出すことが出来た。
誰も泣かなかったし、離れていてもお互いの健闘と幸運を祈ってそれぞれが手を振った。


わたしたちは高等部新一年生になり、テニス部も始動する。
中等部の最高学年から高等部の新入生になったのだからやりにくかったり緊張したりするかなと思っていたけど、実力と自主性を重んじる氷帝の校風のせいか先輩方は癖のある新一年をあたたかく迎え入れてくれた。

そして一年でも跡部は跡部だからいきなり目覚ましく活躍するし、向日はますます高く跳ぶようになるし、宍戸はめちゃくちゃ気合い入ってるし、滝くんは多方面への細やかな気配りを自然にこなして一目置かれ、ジローくんは相変わらず寝てばかりいる。

皆それぞれ成長したりパワーアップはしているけれど、全体的な空気感は拍子抜けするほど変わっていない。


視界の中で、一人足りない見慣れた顔を探しては、いやいないんだって、とつっこむことも、次第に少なくなっていった。
いないものはいないから、わたしの目も脳も学習する。


忍足がいなくても季節は普通に巡るし時間は過ぎる。
寂しかろうと悲しかろうとわたしも一日一日昨日に蹴り出されるように今日に進む。進むしかないから進む。
忍足がいないことにずっと違和感を感じていたいのに、次第にそれにも慣れてしまう。それが後ろめたくて嫌になる。


忍足とは、あまりやりとりをしなかった。
やろうと思えばラインでも通話でも手紙でもなんでも言葉を交わすことは出来たのになぜだろう。
元々毎日顔を合わせていて、でもそれは同じ学校にいて部活をしているからで。
約束をして会うことなんて一度もしなかった。
だからまったくの任意でお互いと話すためだけの手法をわざわざとる、という行為自体気恥ずかしかったのかもしれないし、そうすることで今までと微妙に何かが変わってしまうのが嫌だったのかもしれない。
あるいは、遠くにいる忍足の近況を聞くこと、こちらの近況を伝えることで、離れているという実感を決定的なものにしたくなかったのかも。
話そうが話さなかろうが、東京と北海道にいるという現実は変わらないのだから無駄な抵抗だ。


やがてあっという間に夏になって秋になったんだかなってないんだか長すぎる残暑が終わったかと思えばいきなり冬が来て、ようやく来たかと思っている内、また春になった。

忍足と別れて一年が経ったのだ。
そのはずだ。

なのに、なんでまだ氷帝に忍足がいる?










「帰ってきてん」


始業式が終わるやいなや、生徒のいなくなった講堂でテニス部員に囲まれた忍足はへらりと笑って「アイルビーバック!言うてな」と親指を立てた。

「マジかよ!つうかそれ溶鉱炉に沈んでくやつだからやめとけよ!」
と向日は目を剥き、忍足の実在を確かめるように肩を叩く。
宍戸は
「なんで連絡一つよこさねーんだ」
と正論を言いながらも笑顔を隠せない。
滝くんは「元気そうだね」とにこにことし、ジローくんは「うわー本物!マジで帰ってきたC!」とはしゃいでいる。

跡部は、とうかがうと、やるじゃねぇかと言い出しそうな顔で不敵に笑っている。
……これは跡部も忍足の転入を知らなかったということだろうか。
全員寝耳に水?
ほんとになんで連絡一つよこさねーんだと宍戸ではないが言いたくなる。


「お父さんの仕事は?」
「第一声がそれて。は変わらんな」


そう言う忍足は一年前より背が伸びて、あとは……いやあとはそんなに変わってないな。お互い様だ。一年じゃ人はそんなに変われない。


「転校の理由がそうだったんだから気になるでしょ……」
「まぁ、ほんまに色々あってんよ。オトンが院長選挙で負けた先生側の派閥におって見せしめに飛ばされたーって話したん覚えとるか」
「うん」
「あちらさん、勝てば官軍いう勢いでその他にもえらい極端な人事続けとったらしいんやけど、選挙で蹴落とした先生の手術の腕がどうしても必要になるケースが出てきたんやと。守秘義務やら何やらで詳しいことはよう話せんけど、それなら忍足先生もいないと困る、て言われるようになってんて。言うたら権力バランスの揺り返しがあったんやな。何事も極端したら反動がくるわ。ほんで、そもそも懲罰転勤自体どうなん?て話にまでなっておさまりつかんから一旦忍足先生帰ってきてくれん? て要請が来たんよ」


人騒がせなこっちゃで、ほんま。と忍足はいやにこなれた説明をする。


「オトンは北海道でも良うしてもらったし根ぇ下ろすんも満更でもない感じやったんやけどな」
「お前はどーだったんだよ、侑士!」
「俺か? 俺も楽しかったで、北海道。みんなええ人ばっかでなぁ。良うしてもらったわ。飯も何食うても美味いし」
「なんだよ、よかったじゃねーか!」
「泣いてへんか心配やったか?」
「つうか、はぶられんじゃねーかってよ!」
「はぶられてへんわ、俺はこれでも転校のエキスパート、転校のエリートやで」


侑士、転校6回だったか? いや、そんで北海道行って、帰ってきて今度で8回目やな、と向日と忍足は指折り数えている。二人のこんなやりとり昨日まで見てたみたいで時間の感覚がおかしくなりそうになる。


「……お父さんが北海道満更でもなくて、忍足も楽しかったならそのまま向こうにいるって選択肢もあったの?」
「オトンはかなり迷うてたな。向こうで関わった患者さんらすぐ置いていくんも忍びない言うて。なんやその気持ちもわかるような気ぃするしな。呼ばれて戻ったところで元勤務先の人間関係物凄そうやったし」
「忍足は?」
「聞きたいか?」
「は?」
は聞きたいんか、俺の考えとったこと」
「聞きたいから聞いたんだけど」
「……せやったな。あかん、なんや一年ブランクあると会話のテンポ狂うわ」
「ろくにやりとりしてなかったしね」
「ほんまやで。さみしかったわ。お前ほんまに連絡しぃひんやん」
「里心つけちゃまずいと思ったんだよ。忍足こそ全然してこなかったじゃん、ラインも通話も」
「そら、お前らが楽しくやっとるのなんてわかっとったからな」


聞かんでも見える、と忍足は目を細めた。


「それが羨ましゅうて、ほっとして、愛しゅうてならんかったわ」


忍足の、らしいキザな言い回しに一年前なら誰かがつっこんだのかもしれないけど、皆黙って開け放った扉から校庭に吹く風を眺めた。


残された方と残していった方。ここにいたはず、あそこにいたはずだった、とわたしたちは同じ想像をしていたのだろう。
共有できないまま、ずっと。


「俺がこっちに戻りたいって言ったんよ。ガキの頃から引越し暮らしで初めて言うたわ。オトンもオカンもびっくりしとった。俺も言うてからびっくりした。親の都合の引っ越しなんて慣れとったし、諦めとった。言うてもしゃあない思っとったし、実際しゃあないわな。けど、気づいたら言うてた。なんでやろな」


独り言のような忍足の声がころりとこぼれて足下に転がっていくのが見えるような自問だった。
なんで、なんてそんなのここにいる全員が知っていると思うけど誰も何も言わなかった。


「……帰ってくること黙ってたのは何か理由があったわけ?」
「それは、ま、普通に驚かせたろ思ってな」


喉の奥で笑って忍足はピースサインを見せつける。
あんまり似合わないな、忍足にピース。


「それに、引っ越す時はにだけ言えんくて揉めたやろ。ほんなら今度は全員に言わんとこ!思てん。これなら揉めんやろて」
「クソクソ侑士!」
「全員に言うって方向はねーのかよ」
「ていうか、それなら前回秘密にされてたさんにだけ今回のこと伝えておいた方がフェアだったと思うけど」


向日と宍戸と滝くんに言われ、忍足は「あ」と口を開けた。


「いやそんなん、照れるやん」
「んだよそれ!」
「何も言わねーで急に現れる方が照れんだろ」
「忍足ってけっこう勇気あるよね。前から思ってたけど」


3人と一緒に笑う忍足は幸薄そうで、でも幸福そうで、わたしは夢でも見ているような気になってくる。現実なのだと知りたくて忍足にたずねる。


「もうずっとこっちにいるの?」
「なんや、せっかく帰ってきたのに早々に追い出すなや」
「ぬか喜びしたくないし」
「その糠洗って落としとき。喜んでくれ。もうどっこも行かへんて。もし万一また転勤話が出たら今度こそ跡部んちの馬小屋にでも間借りさせてもらうわ」


跡部、馬小屋、間借り。泣きながら歩いて忍足とそんな話をした。


「そんなの道理が通らないとか言ってなかった?」
「そら普通は無理やろうけど」


忍足が言葉を切ると、今まで事の次第をゆったり眺めていた跡部が高らかに声を上げた。


「その無理、俺様が買い取った。うちの馬小屋は快適だぜ?」
「お馬の世話なら喜んでするで」
「あーン? うちは厩務員も一流しか雇わねぇよ。お前はテニスで結果を出しな。大体、それしか脳がねぇだろうが」
「テニスは一流って認めてくれるん」
「二流の選手がうちにいたか?」
「そうやな。氷帝にはおらんわな」
「親の説得は任せな」
「頼りにしとるわ」


言って二人は片腕を上げて軽く打ち合わせた。
この人たちどこまで本気なんだろう。わからん。
でもどこまでも本気な気もする。だって跡部だし。
それにしても、いつも超然とした態度を崩さない跡部も忍足の不在に思うところがあったんだろうか。
この一年、いかにわたしが自分のことでいっぱいいっぱいだったのか今更気づく。


「……跡部も忍足いなくなってさみしかったんだね」
「あーン? そりゃお前だろうが」
「跡部もでしょ」
「お前と忍足が、だ。大体、隣にいようが離れていようが息災でいるならたいして変わらねぇだろうに二人してビービー泣きやがって、見てられたもんじゃねぇ」
「昔のこと掘り返すのやめてよ! 跡部は色々大掴みなんだよ」
「大局を見てると言いな。ま、たいして変わらねぇなら、ふり向いたついでに声をかけられる距離にいた方が何かと便利ではあるがな。なぁ、忍足」


跡部は投げた先に受け取る相手がいると知っている気安さで声を放る。


「せやな。どうせなら、ほんまにそうや。誰かさんが泣いた時、すぐハンカチ渡してやれるしな」


それに、と忍足は空咳をして向き直る。


「氷帝の天才は氷帝におらなあかんやろ」


言ったった!と満足そうな忍足に跡部は短く笑い声を上げ、向日と宍戸はよく言うぜと顔を見合わせ、滝くんは微笑む。
ジローくんは「あっ忍足帰ってきたこと日吉たちに教えてやんないと!」と上履きのまま校庭に飛び出していく。中等部の校舎へ向かう気らしい。
「おい、あいつら明日入学式だから中等部に行ってももういねぇって!」
宍戸がすぐに声を投げる。
けどジローくんの足のはやいこと。見る間に背中が小さくなる。


「つむじ風みたいなやっちゃ」

忍足は肩をゆらして笑っている。

「うれしーんだろ。ま、気持ちはわかるけどな」

宍戸は照れくさそうに鼻をこすり、

「明日からまた見慣れた顔が勢揃いかよ!」

向日は満更でもなさそうにとんぼを切った。


そう、明日の入学式で日吉も長太郎も樺地も高等部に上がってくる。
どんなに願っても時間を止めることはできない。けど、進み続ける時間の中でこんなにうれしいこともまた起こり得る。


「ま、これくらいのことはあってもいいな」
「同感。やるねー、忍足」

跡部と滝くんは吹く風に目を細めている。


過去の良かった一時期がどんなに恋しくても、執着しすぎれば毒になるだろう。この一年でそれは身に染みていた。
またみんなで、なんて望むのは自分の幼さだと思っていた。今も思っている。
それでも、またみんなで迎えられる明日が来る。


忍足を見ると、忍足もこっちを見ていた。


「おかえり、天才」


わたしはずっと言いたかったことをようやく言えた。
忍足は一瞬目を丸くして、かなんなぁ、と笑い、わたしに手を差し出す。
忍足の真意はすぐにわかった。なんとも忍足らしい仕切り直しだ。
マメだらけの手の平の、その硬さをわたしは覚えている。
忍足の手を取る。
忍足がわたしの手を確かに掴む。


「ただいま」


相変わらず肉が薄くて幸も薄そうな手の平だが、もう冷たくも震えてもいない。
わたしも忍足も笑っているので握手は小さく揺れている。



、」
「うん?」
「告るんなら今やで」
「は?」
「いやほら、え、覚えとらん?」


自分で言っておいて忍足の手は熱を持ち始める。


「覚えてるけど」
「いやその、つまりこれは漫才で言うとこの天丼ちゅーやつで……」


照れるなら言うな。

あの時のやりとりを踏襲するなら「告るんならあの時告ってるよ」と言えば済むのだけど、弱った顔でそれでもニッと笑う忍足を見ると本当に告って驚かせてやるのもいいかと一瞬思う。



握り合ったまま、忍足の手はますます熱を帯びていく。