カチ、カチ、音を立てて火を打ち出す装置を手の中でもて遊ぶ。
一瞬だけ現出する火の色に目を奪われる。
カチ、カチ。

、本が燃えたらこわいからやめてくれないか」
「…燃えないから大丈夫ー」
「紙は燃えるよ」
「手から離さないから大丈夫ー」

図書室の長テーブルにつっぷして低い声にだらだら返事をする。
顔を見なければ素直に声だけに恋することができるな、と思うくらいしんみり深い声。
向かいに座っている乾は高速で辞書を繰りながらわたしの相手をしてくれている。
試験もおわったところなのに、何を熱心に勉強してるんだろう。

「で、そのジッポはどうしたんだ?」
「……このジッポは」
「平方先生が恋人からもらったと自慢していたものだろう?」
「……聞くまでもないじゃないですか」
「それをなぜが持っているのは聞かないとわからないな」

カチ、カチ
火ってきれいだなぁ。
少しの風にもゆらぐのに、これ一つで家一件、学校一つ焼き尽くすことができる力があるなんてすごいなぁ。

「言いにくい話?」

乾が聞いてくれる。気遣いというよりは会話をスムーズに進行するためだろう。

「うーんと……」
「でも話したいんだよな」
「……うん」

だからわざわざ乾がいそうな図書室に来て、乾の向かいに座ったんだ。

つっぷした体を起こすと、乾がノートにものすごい速さで文字を書き入れながらちょっと笑ったのが見えた。

「聞くよ。作業しながらでよかったら」
「……あのね、」


事の顛末は単純だ。
美化委員の仕事で昼休み平方先生に職員室に呼び出された。
先生の机に行くと、このジッポが彼女と撮ったらしい写真の前に置かれていた。
「彼女からもらったんだ〜」と平方先生がたれ目の目尻をさらに下げて自慢するのは最近の授業前のお決まりで。
学校内完全禁煙なのにお守り代わりに持ち歩いてるらしく、生徒がちょっと触らしてよ、と言っても本当ににちょっとしか触らせてくれないブツだ。

フーン、と思ってしげしげジッポを見ていたら、真鍮製の表面に細工された羊の横顔(先生は未年だ)がとってもよく出来ていて、まぁきれい、なんて思ってつい手に取った。
その瞬間後ろから「おー!」と先生に呼ばれた。
とっさに怒られる!と思ってポケットにそれを隠した。
委員会の仕事を教えられて、「あれ、ここにジッポなかった?」「い…いえ、ありませんでしたよ?」と思わず答えた。おわり。


「おわり」

はは、と乾は笑った。乾いた、深みのある声。

「早く自首したほうがいいよ、
「盗むつもりなんてなかったんだよー」
「わかるよ」
「……乾、返してきて」
「なんで俺が」
「乾なら先生から信用あるでしょーわたしだったら本当に盗む気で盗んだって思われかねないよー」
「そんなことないだろう。先生方は成績の良し悪しで人格まで評価はしない」
「うう……なんて言えばいいんだろう……」
「あったままを言えばいいだろう。なぜそんなことでがそこまで悩むのか理解に苦しむな」

苦しむどころか、機嫌よさそうな笑みを浮かべて乾が辞書とノートを閉じた。
人差し指を厳かに立てる。

「仮説一。は実は平方先生に好意を持っていた。だからかねてから彼女にもらったと自慢していたジッポをつい取り上げたい嫉妬心にかられた。だからジッポを返したくない」
「は!?」

続いて堂々と中指。

「仮説二。は実は平方先生に嫌悪感を持っていた。愛煙家である先生の嗜好である喫煙を阻み、ざまあみろくっくっく、と笑うために盗んだ。だからジッポを返したくない」
「は!?」

愉快気にはね上がる薬指。

「仮説三。は実は喫煙の習慣がある。普段学校ではそれを抑えているが、今日にかぎってそれが我慢できなくなった。放課後タバコの自販機までダッシュしよう。そして公園の裏で隠れて吸おう、ああ放課後が待ちきれねぇぜ。だからジッポを返したくない」
「………」
「さあどれ」
「どれでもない!」

冗談じゃない。

「怒るなよ。冗談だ」
「許すから、乾お願い、良い言い訳を考えて!乾の頭脳なら適度なリアリティに満ちたいかにもな言い訳なんてたやすく思いつくでしょう!」
「だから俺がいる可能性の高い図書室まで来たの?」
「うん。乾、部活引退したあとは毎日ここに来てるでしょ」
「毎日の俺の行動をは把握してるのか」
「あ、ちょっと勘違いしないでよ!乾のこと好きでチェックしてるとかじゃないからね。委員会で学校掃除終わって帰るときいつも乾がこの席にいるの渡り廊下から見えたてたから」
「ツンデレ?」
「ちがう!」
「なんだ。残念」
「……もういいよ、一人で言い訳考える」

席を立つと、まぁ待てよ、と笑い声。

「ちゃんと考えてやるから。女子から、乾お願い、なんて言われたら応えないわけにいかないだろう?」

……なんか気持ち悪い言い方だな。

「中々気分のいいフレーズだった。、試しにもう一回言ってみないか。乾お願」

席を立つ。悪かったよ、と笑い声。
続けて乾も席を立つ。

「じゃ、行こうか」
「へ」
「職員室に返しに行くんだろ」
「……言い訳は?」
「言い訳はする必要のある時だけ用意すればいい」
「……今まさにそうじゃないの?」
「君に悪意はなかった。そうだろう?」
「……そうだけど」
「ふむ。さしずめはウサギで俺がカラスと言ったところかな」
「ウサギ?カラス?」
「さ、天の火を返しに行くとしよう」


乾が長い足で広い歩幅で図書室を出て行く。あわててそれを追いかけた。


放課後の職員室は部活動の顧問をやっている先生方が留守にするから割とがらんとしている。
「失礼します」と頭を下げて入室すると、腰をかがめて床の上をさらっていたニ、三人の先生がこっちを見た。


「乾、。どうした?」
「すみません、資料室でこれを見つけたので。平方先生のものだと思うのですが」

一人、こっちを見ずに四つんばいになったままごそごそやっていた平方先生がばっと顔を上げ、猛然とこっちへ駆け寄ってきた。

「資料室!うわ、まじでか乾!うわー、あー、ありがとなー乾ー!」
「平方先生、見つかったんですね」
「よかったですねぇ」
「先生、じゃあ囲碁部の生徒たちを見に行ってやってくださいね」
「はい!先生方、ご協力ありがとうございました!すんませんした!行ってきます!」

乾からジッポを受け取った平方先生は泣きそうな顔でふにゃふにゃと笑って、探し物を手伝っていた先生たちに何度も何度も頭を下げて、

「乾、本当、ありがとな!さすがお前!今度ラーメンおごるよ」

慌しく職員室を出て行った。
平方先生は囲碁部の顧問だ。生徒たちを待たせていたんだろう。

よかったわねぇ、やれやれ、とコーヒーを淹れ直している先生方に入室したときと同様「失礼します」と礼をして、乾が廊下に下がる。わたしもそれを追う。

無人の廊下で乾が小首をかしげて歩き出す。な、、という具合。

「言い訳なんていらないだろう」
「…………」
「どうした。気に入らない?」
「……乾、ごめん。嘘つかせたね」
「まあ、この場合嘘も方便」
「わたしがああ言えばよかったんだ。ていうか、そもそも後ろめたいことないんだから本当のこと言って謝ればよかったんだね。乾に嘘つかせることなんかなかったのに」
「ふむ。罪悪感を感じてるんだな。誰に?」
「先生たち。乾。みんな一生懸命さがしてたね。わたしは謝らなきゃいけなかったんだ。乾、ごめん」
「先生たちにはそうかもしれないが俺に謝る必要はないよ」
「どうして」
「俺はああすることを承知でそうした。は俺がどうするか知らなかった。でも俺に事を預けたのはだからは罪悪感を感じる」

そういうことだよな、と目線で聞かれる。うなずく。

「だから謝らなくていい。肩代わりくらいしてやるけど君の罪悪感は君が始末をつけるしかない」

下げるべき頭を下げずに通した代償だ。
乾の言葉は整然としている。理論で作られた水路を引かれる水のよう。
乾の言葉は正しい。水はいつでも上から流れて下へ行く。当然の帰結。事象。

「……天の火を盗んだウサギじゃなくて因幡の白兎だな。俺はオオナムヂのつもりが八十神というところか」
「……なにそれ」
「昔話と神話」
「……乾はすごいね。何でも知ってるんだね。勉強だけじゃなくて、本当にたくさんのことを知ってるね」
「知識というのは、。つかう知恵あっての知識だよ。でなければ馬鹿に刃物。俺が出刃を持ってもサンマを開けないのと同じこと」
「乾は、だって、ちゃんと知恵を持ってるでしょう。知識をちゃんと活かしてるでしょう」


乾が笑った。

「俺の中で本物と言える知識なんて一つもないよ」
「……本物じゃない知識なんてある?」
「本物の知識というのは誰にひけらかすものでもないし、ずっとつかわなくていいものなのかもしれない」
「誰にも言えないし何にもつかえないなら意味がないよ」
「知識が本当に本物なら求める意味に意味はないんだよ」
「…うん?」
「ただ、そこにあることを知っていればいいんだと俺は思うよ」

図書室の前へいつの間にか戻って来た。
ドアの前で乾が止まる。小首をかしげて真摯に笑う。

「まるで恋心の理想だな。求めず、乞わず、押し付けず」
「……キモイよ」
「ふむ。なぁ、。そのキモイという俺への言葉を何か違う単語に置換するとしたら何にする?」

うーん。

「乾らしいよ」
「もう一度」

うーん。

「悪くないよ」
「悪くないか」
「うん」
「うん。悪くないな」

音もたてずにドアをスライドさせて乾が図書室へ足を踏み入れる。

はこれから委員会で学校清掃?」
「ううん、今日は二年が当番」
「じゃあ来る?」

学校の図書室を我が家のように言うものだ。
少し迷った。

「うん、行く」
「勉強するのか」
「ウサギの話を読む」
「そうか。知識を増やすのは悪いことじゃない。帰りにラーメンでも食おう」
「ラーメン?」
「悪くないだろう?」

夕方の帰り道。小腹がすいたところにラーメン。乾のメガネはきっと湯気で曇る。

「うん、悪くない」
「もちろんおごってくれるんだよな」

それで帳消し、そう言うように乾が笑う。低く深く響く声。
上から下、下からまたその下へ引かれて流れる水の道。
優しい理論。乾の知恵。


「餃子もつけるわ」
「すばらしい」

兎が走る