ジュニアテニス界にも最近は皇帝いうんがおるらしいが、競馬やってて皇帝ちゅーたらあの七冠馬をおいて他にはいーひんよ。
まさしく孤高の強さや。圧倒的な最強馬やった。
せや、そんな偉大な親父を持ってあいつは生まれてきたわけや。

最初にそいつを知ったとき、皇帝の息子で帝王なんて、まあた気張った名前をもらったもんやと鼻白んだ。
どんだけ走るか知らんけど、とりあえず期待だけはしてみよかとご祝儀のつもりで財布の有り金賭けたらちょっぴり増えて戻ってきた。
一番人気で掛け金の倍率が低かったから少額の配当やったけど、その日の晩飯で半月ぶりに牛肉食えたんのはこいつのおかげ様。

どこに出しても恥ずかしくない血統証つきで、顔がよくて、才能があって人気があって結果を残す。
嫌みなやっちゃ。人間だったら逆立ちしたってかなわん。好かん。
けどこいつは馬やったから俺はそん時からこいつに惚れこんだ。

重力なんて知るかっちゅーフットワークは見てると胸がすいた。
騎手がムチ振るわんと自分でハミをとってレースを仕切る勝負師っぷりにはサブイボたった。
実力と並走してプライドが高そうなところに痺れた。勝って当然、ちゅー顔は、小銭数えて競馬する俺にとってはほんま頼もしかった。


血統も地位も名誉も実力も愛情も人気も結果も全部持ってる奴やった。
ただ、運がよかったかどうかはいまひとつ言えんとこがある。
順風満帆っちゅーにはどうにも挫折が多すぎた。怪我しすぎや。現役時代に骨折3度もしていくつもタイトル棒に振った。
まあそれも高すぎるスペックの代償ちゅーか、能力について回る支払いちゅーか。

歴代俺の生活のピンチを救ってくれた馬は何頭もおるけど、言うたらこいつだけは特別やねん。

……なんや、何笑っとんねん。熱くなりすぎ? 馬一頭にそこまで入れ込んで?
アホ、聞いとけ。オタクちゃうわ。こいつだけ特別や。
挫折してるとこが好きや。
あん?性格悪い?
最後まで聞け。
こいつの、何がええって挫折してるとこが好きなんや。そっから絶対、這い上がってくるって人に思わせるその力が好っきゃねん。







十二月の週末には、恥ずかし気もなくそんな話をしたことを思い出す。
との暮らしにはあの馬の話がついて回る。
なし崩し的に同棲をはじめたのがあの年の十二月最後の日曜日。と言ってピンときた奴は競馬ファンや。
競馬やってて一年一度のお祭り、有馬記念のファンファーレ聞いて燃えん奴はおらんよ。
若いころは俺も競馬新聞丸めてあの人ゴミの中山に行ったこともある。最後の直線で外れ馬券空に投げるおっさんらーがちょびかしかっこよく見えるんは、まあ年の瀬の哀愁とロマンの相乗効果。大概幻覚。それでも愛しい。人ってほんま阿呆でしみじみかわいいとか思えんで。

その年の有馬はぼろいアパートで二人、薄い布団の中でファンファーレを聞いた。
返し馬に入ったそいつは気のせいかなんとはなしにキレにかけていた。あの浮き立つようなフットワークが見られんかった。

「勝てそう?」

の声に、わからん、と答えたのは競馬ファンとしての目線というよりただの勘。
滅多にあたらん俺の勘は嫌な時だけ当りよる。
結果は惨敗十一着。

へこむより先に焦燥と疑問がわいた。
また骨折やろか。また戻ってこれるやろか。

「今夜はわたしがおごるから美味しいもんでも食べにいきますか」

が励ましてくれたのでそのままもう一度薄い布団になだれ込んだ。
もらったばかりの給料をそのままつっこんだので、翌年の正月はひどいもんやった。
学んだこと。金がなくても年は明ける。めでたい。











が妊娠したかも知れん、言うたのは春やった。
吸うてた煙草が手からこぼれて畳に落ちた。慌ててひろった。既に焦げていた。
俺は動揺しなかった。かわりにぽかんとした。ただただぽかんとした。
俺が人の親なんちゅーえらいもんになれるやろか。そんなん出来るやろか。
とかなんとかフワフワ思いながら、「万馬券もんやな」と無意識に口にした。

うれしいの? と聞かれて、答えに困った。
当時の俺は今の俺より大分アホやったから、わからん、と答えた。ほんまにわからんかった。
ただ、答えに困っただけで妊娠そのものに困っていたわけではなかった。
そんな実感さえなかった。
俺より彼女のほうがずっと不安でいるということにも気がつかんかった。ほんまにアホ。

はプッと吹き出して笑った。


「あなた、本当に正直」


こんな時に笑えるなんて器のでかい女やなぁ、と俺はそれでに惚れ直した。今思い出しても惚れ直す。
できた女というか、動じないというか、寛大というか。

結局は妊娠しとらんかったけど、あの時もし子どもができていたら俺たちは結婚していたんだろうなぁと思う。
そして今ごろ俺に愛想を尽かしたが女手でたくましく子どもを育てているに違いない。

結局捨てられとるがな俺。



妊娠疑惑が持ち上がった時、そいつは三度目の骨折が判明していた。調整中のことだった。
現役で三度骨折した重賞馬なんぞ他に知らん。そこから復活した奴なんてもっと知らん。

これはあかんやろ。無理やろ。
誰もが思った。俺も思った。

「あいつもうあかんぽいねん」

日曜の昼下がり、ファンファーレを聞きながら薄い布団の上で寝っ転がってそう言うとは、ふーん、とうなずいた。

「どうして駄目なの」
「現役で骨折三回てありえん。もう復帰は絶望的やろ」
「そうなの?」
「みんな言っとるで」
「みんなが言ってたらそうなるの」

ふーん、とはうなずいた。
洗濯物を畳みながらの何の気なしの言葉だった。

なぜか後ろめたくなった。

特別に好きな馬なんやったら信じたらんかい、と頬を打たれた気がした。
被害妄想や。にそんな気はこれっぽっちもなかったに違いない。


聞きなれた「さあ、各馬いっせいにゲートを出て横一線」というレース実況アナウンサーの平板な声までどこか耳に痛かった。










秋までは順調だった。と思っていたのは多分俺だけで、の中では表には出さんけどいろいろ腹に据え兼ねるものがあったんやと思う。

生活に変化は何もなかった。相変わらずの安月給、相変わらずのボロアパート、相変わらずのセックス、相変わらずの競馬。
思えば人生で一番がんばるということから無縁だった数年間やった。それにをつき合わせてしまったことが申し訳ない。


「一度東京に戻ろうかと思って」


と言われた時も、ほー、と返事をしただけだった。久しぶりに里帰りもええな、とかなんとか。アホか。アホや。

目の前のアホには少し笑って、「あの子、調教をはじめたみたいよ」と競馬新聞を差し出した。

新聞には「有馬を目指して奇跡の復活を賭ける」とあった。
去年無残に敗走したレースから一年後の同じタイトルでの復活。美しい話や。できたらまさに奇跡や。


「もしも勝ったらファンタジーやな」
「うれしくない?」
「復活なんてそんなに甘ないやろ」

新聞を畳んで放った。


「あなたはいつ復活するの」


びびった。急に俺の話か。
焦って心臓の裏っかたと右膝が痛なった。人間てなんてメンタルな生き物や。

あんまりびびって返事でけんかった。
復活て。やっぱせえへんとあかんですか、と。せやけど復活でいったいなんですか、と。
神様相手に答えをねだりたいのは俺のほう。





膝を壊してやめたテニスのことをは知っているとは思っていた。
俺の部屋にはそのへんに今でもカバーかかったラケットが転がっとるし、雨の日に思い出したように痛む膝にはサポーターをつけている。

未練たらしく押入れの中にしまってある学生時代のテニス雑誌も、は手にしたことがあると思う。
黄ばんだその本の中で青臭いことを言ったり、寒い笑顔で笑ったりしとる若い俺を見てが何を考えたかも大体わかる。


膿んだままの傷を抱えた人間のそばにいるなんて俺やったらいくらもらったってごめんや。
痛いのもつらいのも伝染する。優しい人間なら怪我した当人よりしんどくもなる。













そのまま冬がやってきた。
大したもめごとは最後までないままだった。はいつもニコニコとしていた。
今思えば嘘をつくのが上手い奴やった。ええ奴過ぎた。そんで俺はほんまにアホやった。


十二月最後の日曜。
俺たちはまた二人で有馬記念のはじまりを告げるファンファーレを聞いていた。
テレビの中の東京の空がよく晴れていたのは覚えているが、大阪の窓の外がどうだったかはわからん。


「このレース、賭けてるんでしょう」
「馬券? 買うとるよ」

どの馬に、とは訊かなかった。
あいつは調整を済ませてこのレースに立っていた。
去年から一年。こまいこと言えば364日ぶりのターフに何を思うのか、そいつは悠然としたもんやった。ぼーっとしてさえ見えた。
ファンや関係者らのほうがよっぽと血圧上っとるわ。

競走馬にとって一年のブランクちゅーのは想像を絶する。人ならまだしも動物や。勝負勘、闘争本能、走るために生まれたサラブレッドのすべてが衰える。
たとえ走れても戦えん。勝てるわけがない。


「なあ」


高らかに鳴り上るファンファーレに集まったおっさんらが丸めた新聞を振り上げる。
あん中に人生賭けてる奴もおるんやろうな。


「このレース俺が獲ったら」


競馬にはロマンがある、なんて言ったところで所詮ギャンブル。わかってる。
走るために生まれたなんて言っても馬がそれを望んだわけやない。
無理やり生まして走らせて、不具合があれば処分て虐待ちゃうんかと言われたら何も答えられへん。
そんでも、こいつら見てると走るために生まれた生き物やと思う。
あそこで新聞紙丸めてるおっさんらがロマンと夢だけ見てるとは到底思われへんけど、目の前を命賭けで走る馬と人に金だけ見てるとも思えん。


有馬は一年一度、競馬ファンのお祭りや。走るために生まれたと、勘違いでも見るもの全てに思い知らせる圧倒的な生きる力を祝うレースや。


このレースに勝つことができたら。


「俺と結婚してや」


横にいたがその時どんな顔をしていたのかびびらずによう見とけばよかった。
唖然としたかも知れんし、無表情だったか知れんし、呆れてたかも知れんけどもしかしたらものすごくきれいに笑っとったかもしれんのに。

わかった、とは言った。

馬は全頭ゲートに収まったところだった。
スタートまでの張りつめたこの短い時間が俺は嫌いや。緊張する。物事が劇的に動く直前の静止。

ふと思った。
この一年は、にとってこの一瞬と同じようなものやったんやないか。




ゲートは開かれた。みんないっせいに飛び出した。
ああ、お馬はきれいな生き物やなと、思った。






その2分30秒後、あいつは先頭でゴールに飛び込んだ。
「奇跡だ」と叫び驚き、騒ぎ立てる観衆に「何が奇跡だ」と逆に驚いているようだった。
当たり前の帰結だろう、そのための命だろう、と見せつけるようなウイニングランで万雷の拍手に応えた。


「彼に賭けなかったんでしょう」


の語尾に疑問符はなかった。


「ああ。賭けとらん」
「そうだと思った」


少し笑ってがうなずく。そして一枚の紙を差し出した。あいつの単勝馬券やった。
そこに記入された金額に目玉ぶっとんだ。


「……お前、ようこんな金」
「配当金は……940円っていうと、二人で分けても中々な大金よね」
「ありえへん。お前の心臓毛が生えてるんちゃうか」
「わたしも賭けてたのよね。もしもあなたがこの子の馬券を買ってたらあなたといっしょにいようって」
「…………お前」
「そっちには負けた」

笑って、は立ち上がる。

「山分けよ。わたしはこれで東京に部屋を借りる。あなたはこのお金でいい整形外科に行く」
「……は?」
「あの子の挫折してるとこが好きって言ってたね。そこから絶対這い上がってくるって人に思わせる力が好きだって」
「ああ……」

そんなん言うたな。

「わたしもあなたのそういうところが好きだった。それが実際に叶わなくても、そういう風に信じさせてくれるところ」
「……それは」

買いかぶりや、と言いたかった。
の声がさえぎった。

「まだ信じてるんだけどね、わたしは」


は最後まで笑っていた。多分あの時世界で一番賢くてきれいな女はで、世界で一番情けなくてアホな男は俺やった。


テレビではあいつの背に乗った騎手がインタビューに答えている。
自分ではなく、彼の力だと馬の勝利を讃えている。

「勝ってしまうなんて誰が考えますか」
「こんな偉い馬、ほかにいるものか」 と。



復活てなんやとねだって尋ねた答えが降ってきた。
これが紛れもない復活やと。




皇帝の息子で帝王なんて大層な名前もらって、なんて思うとったらほんまもんやないか。

奇跡を起こした馬は「だからどうした」と言いたげな顔で悠然とカメラを見据えている。


ほんまにお前は偉いなぁ。
信じてやれんくて、すまんかった。




















それだけはやめてくれ、いらん、と最後まで抵抗したのには配当金のきっちり半分を俺の部屋に残して出て行った。
どんだけやねん俺。
その金は彼女の言う通り古傷の膝のお医者にかかるのにつかわしてもらった。







四カ月後、春。
あいつが四度目の骨折をして引退を決めたころ、俺は新しく赴任した学校でテニス部顧問に就任した。
久々に握ったラケットは懐かしくて胸が痛んでちょびかし泣けた。がおったらこのことを喜んでくれるやろかとか埒もないことを考えた。
こんなん、復活なんてとても言えへんけど。




テニス部にはやたら元気のいい新入生がぎょうさん入ってきた。
どう見てもあっち側のお姉言葉のメガネ坊主、それにようくっついとる目つきの悪いモノマネ男、中一には見えんごっつい渋い坊主、ちぃともじっとしとらん、何するんにも一目散に走りだす犬みたいな奴、それに、


「顔がよくて、才能があって人気があって結果を残す……」
「は? 監督、なんや言いました?」
「いや、お前によう似とるやつ、知っとるなと思ってな」
「はぁ」
「そいつ、むっちゃかっこええでぇ。地位も名誉も実力も愛情も人気も結果も全部持っとるんや。その上奇跡まで起こせる! どや、ごついやろ」
「そんなすごい人に似てる言われたらなんや照れますね」
「しれっとした顔してなにが照れるや」
「ハハハ」
「おー笑っとけ笑っとけ。お前みたいな奴はけろっとした顔でごっついことやらかすって知っとんねん俺は。おら、走ってき。あ、謙也に二十周以上走んなって言うといて。この後も練習あんねんから」
「はい。ほな、行ってきます」


背を向けて走り出す足取りは軽い。重力なんて知るかっちゅーフットワークや。見てて胸がすく。


「おい、白石」
「はい?」
「怪我には気ぃつけや」


中一の小僧っ子は、はい、とごく自然にうなずいて外周に出て行く。




賭けるか、と問われたら、賭けると即答する。オッズが何倍でかまわん。
こいつらは多分強くなる。全国で名前が聞かれるほどに。

まあ、でもそれはまだまだ先の話で。今はなんもかんもはじまったばっかの春やし。



「各馬いっせいにゲートを出て横一線、てなもんや」



あとは好きに走り。
骨折にだけは気ぃつけてな。










ファンファーレ



皇帝と呼ばれたお馬もその息子で帝王と呼ばれたお馬もそのレースの記録も一応すべて実在するものです