「仁王の足ってもう痛くないの?痛くなかったの?全然?」 テニス部4人の舞台発表がおわったあと幸村を捕まえてたずねると、縦にも横にも首を振らず、さあどうだろうね、ふふふ、といつもと同じ顔で笑われた。 「ブラックジャック先生……部員の怪我が心配じゃないんですか」 「仁王が平気だって言うんなら平気なんじゃない?」 「怪我した次の日はあんなにうるさかったのに……」 「は仁王が痛めた足に無理させてまで踊ったりなんてすると思うのかい?」 「……しないと思うけど……幸村はどう思うの?」 「俺は概ね仁王を信用してるよ」 「……それは仁王の『大丈夫』を信用してるの、それとも『大丈夫じゃない』を信用してるの?」 「ハハハ、はずいぶんおもしろい日本語つかうんだなぁ」 幸村は優雅におなかを抱えて笑ったあとで、気になるんなら仁王に聞けば、と言った。目には涙が浮かんでいた。 なにがそんなに楽しいんだか。 腕時計を見ると五時限目をすでに10分過ぎていた。 音をたてないように視聴覚室の扉を開けると、中はBGMと爆発音でいっぱいだった。 そうか、映画を見てるんだから、別に音に気をつけなくてもよかったんだ。なんだ。 水曜の五時限目はロングホームルームになっていて、とくにやることがなければ視聴覚室で映画を見たり外で適当にドッヂボール(なつかしい)をしたり、ひたすらだらだら自習したりする。 今日はパイレーツ・オブ・カリビアンの1か2だったっけ。 プロジェクターと画面の明るさで部屋内は何とか見渡せるけど、誰がどこに座っているかまではわからない。 みーちゃんやよっちは前の方かな……オーランド・ブルーム好きだしな二人とも。 しかたない。最後列につくか、と目を向けると、一番左端の隅で一点妙に明るい座席があった。 机の下でケイタイを開いているらしい。 暗い中歩く目印になるし、ちょうどいい。 足下に気をつけながら近づくと、白い明かりにうっすら浮かび上がったその顔がぱっとこっちを振り向いた。 さすが気配に聡い。 「仁王、なにやってんの?」 席に腰を下ろして仁王の手元を覗くと、左手に開いたケイタイ、右手に文庫本を持っていた。 「読書」 「ケイタイの明かりで?目、悪くしない?」 「悪くせん」 立海テニス部で読書家と言えば柳や柳生のイメージだけど、仁王もよく本を読んでいるところを見かける。 柳が純文学、柳生が推理小説と大体読んでいるジャンルが決まっているのに比べて仁王の読書傾向は雑多だ。 見ているかぎりかなりの速読家だけど、読む時期と読まない時期が雨季と乾季のようにぱっきり別れているのがおもしろい。 最近は文化祭がおわったころから読み期に入ったらしく、この間は昼休みに階段でなぜか立ちっぱなしで重たそうなハードカバーを開いていた。 何読んでるの、とたずねると、 「チョコレートコスモス」 「ずいぶんかわいいタイトルだね……どんな話?」 「ガラスの仮面」 またこの前は花壇のレンガに座って文庫をぺらぺらめくって、 「何読んでるの?」 「寺田寅彦」 「だれ?」 「猫好きの気のいいおいちゃんじゃ」 一昨日は朝の電車でたまたま会って、 「おはよー。今日は?」 「嵐が丘」 「おもしろい?」 首を少しひねって目はページから離さずに、 「濃いのう」 その日の部活帰り、電車に揺られながらバッグから文庫を取り出すと今度はこっちがたずねる前に、 「高瀬舟」 とだけ言ってページを開いていた。 柳や柳生ほどじゃないけどわたしも本を読むのは好きなので、人が読んでる本はつい気になって読書中にうるさいよね……と思いつつ、あれこれ聞いてしまう。 ましてやそれが仁王ならなおのことだ。何を読んでどう思ってるのか気になる。まさか読書する姿でまで人を煙に巻こうなんて面倒なことはしないだろう。………多分。 「……何、読んでるの?」 隣で淡々と文章を上から下へ追っている仁王の目がこっちをちらと見た。暗がりの中、仁王の目の白目の部分がやけに目立った。 「なんして遅れたんじゃ?」 「え? あ、昼休みの、月一部長会議が長引いて。真田とバレー部の井上くんがまたもめてさ……まーゴジラ対キングキドラかという迫力で……」 「真田は机でも引っくり返したか」 「いや、そこまでは」 「ほんなら、茶でも引っかけたんか」 「ううん、いらいらした真田が自分の唇噛みしめすぎてちょっと血が出たぐらい。こわかったけど他人に実害はなかったよ」 「ほしたら、それはどうしたんじゃ」 ちろ、と視線を下げた仁王の目は、わたしの左手の甲を見ていた。ああ。 「よくわかったね仁王、暗いのに」 「プリ」 「みんなにお茶出すときにこぼししちゃって」 よくやるミスだ。火傷だ。まったく、そこつだとよくよく痛い目を見る。時間がなくてあまり冷やせなかった。意識を向けるとジリジリと痛みが調子づくので極力無視している。 「痛いか」 「痛くないと思うことにしてる」 「思うことにしてる」 「なに?」 仁王はたまにこうやって人の言ったことをそのまま繰り返し口にする。 なんのクセだろう。 「なんも。はー、部会はマネが茶ぁ入れる決まりになっちょるんか。OLさんみたいじゃのう、」 薄い唇を少し引いて、おどけるように仁王が言った。 揶揄されてるな、これは。言いたいことはわかるけど。 「うーん。部会って結局真田が議長みたいになってるからわたしもちょっとは働かなきゃ…みたいな空気で」 「そもそも、なんして名義上引退した真田とがまだ部会に出とるんじゃ」 「それは、まだ赤也一人に部の代表を任せるわけにはいかん!て。お目付けがいた方がいいっていうのは同感だけど、お守りがあれじゃね……井上くんも真田が出るなら俺が出ないわけにいくか、なんて言って出席してるみたいよ。三年なのに」 バレー部の積年のライバル(?)を相手にしての丁々発止のやり取りを思い出す。 真田の唇から床へ落ちた絵の具のような血の赤さも、ついでにその横でぐーすか眠りこけてた赤也のゆるんだ口元も。 「井上くんと真田は似てるんだよね。同族嫌悪」 「幸村は部会には出んのか?」 「幸村は……赤也のお守りは嫌らしくってね」 「ほーじゃろうのー。柳生は?」 「柳生だと赤也が隙を見て逃げる」 「結局が二人のお守りか。苦労人じゃの」 「そう思うんなら仁王が来てくれても……あ、やっぱうそ。今のなし」 仁王が来ても丸く収まるわけがない。もうにやにや笑ってるし。 「俺じゃ役に立たんて?」 「その笑い方やめたらお願いすることにする」 「お願いすることにする」 「え、だからそれなに?」 「なんも。真田は物言いがきついからフォローも面倒じゃろ」 「フォローまではいかないけど。まぁ女子がお茶入れるくらいで場がなごむんなら別に惜しむほどの労力じゃないし」 「ほーか」 「そーよ」 「はマネの鑑じゃのう」 「でしょ。もっと大事にするべきだよ。たまには学食でおごってくれてもいいよ」 「あー大事大事」 どうでもよさそうに言う仁王の手の中でパコ、と二つ折りのケイタイが閉じられた。 おや、と横目でそっちを見ると同時に左手が冷たい物体に包まれた。ぎょっとした。 「ぎょっ」 「……ぎょって素で言うた奴初めて見たぜよ。ほんまに言うんじゃの」 「いやすごいびっくりした……なに、握手?左手で握手は決闘の約束じゃなかった?」 手だ。いきなりわたしの火傷を包んだのは仁王の手だった。しかも、恐ろしく冷たい。 「俺はこっち右手ぜよ」 「あーなら大丈夫……じゃなくて。どしたの、急に」 「大事にしとる」 「は?」 「マネの鑑じゃからのーは」 「はあ」 「冷たいじゃろ」 「うん、すごいひゃっこい。仁王冷え性?」 「まぁ、冬はこんなもんじゃ。授業おわるまで冷やしときんしゃい」 まるで自分の手をアイスノンのように言う。 冷やしとけって、手なんて触ってたらその内あったかくなっちゃうじゃん、と思いながら、でも、まあ正直いまこの冷たさはありがたい。 引き攣るようなヒリヒリした痛みが一気にすーっと沈静化していく。 「おお……気持ちいい」 「便利じゃろ」 あんまり冷たいので本当にアイスノンやら水風船やらの物体に思えてくる。 けど、仁王が呼吸するたびわずかに振動が伝わるので本物の仁王の手なんだろうな。ていうか、本物以外なんの手があるんだという話だけど。 「あ、そういえば男の子と手つなぐのわたしはじめてだわ」 「ほーか」 「そういえば仁王ってもてるんだっけ?」 「知らん」 知らんてことはないだろう、と思ったけど、仁王ならそれもあり得るかもしれない。 幸村がかなり、ブン太がちょこちょこもてるのは知ってるけど、仁王がもてるかどうかは三年間同じ部活にいたけどよくわからないところだった。 かっこいいよね、と言われているのはたまに聞くけど、実際だれかと付き合っているという噂も聞かないし、当の彼女を見たこともない。 仁王だったらそういうことの一切をペロリと隠して何もない風を装うなんて簡単にこなしそうだけど、どうなんだろう。 「なんじゃ。じっと見てから」 「やぁ、別に」 仁王はわずかに首をひねって、正面のスクリーンに顔を向けた。 ちょうど火薬が派手に爆発するシーンで、横顔が一瞬赤く染まる。 文化祭がおわって一週間がたった。 仁王はあの日から松葉杖をつかっていない。 あのとき足はもう治っていたかどうかは結局聞けないまま時間が過ぎてしまった。 本当は痛かったの?と聞けば心配してるってことで、それは仁王の癇に障るだろう。 また前みたいに侮蔑のまじった目で見られるのは嫌だ。こわいんだ、あれ。 それに、つまり、だましてたの? と当の仁王相手に聞くのはこっちも癪だ。 「すごい顔で見とったな」 顔を正面に向けたまま仁王がぽつりと言った。 「え?」 「あんとき、屋上から」 「……まあね」 「飛び降りてきて蹴られるかと思ったぜよ」 松葉杖は蹴ったけどね。 「ほんと、腰ぬけたよ。……あのとき、足、本当に痛くなかったの?」 「痛かったらあんなことせんよ」 「じゃ、なんで屋上まで松葉杖持ってったの」 「いつも持ち歩いとったからの。クセ?」 「クセかー…」 「信用ならんか」 正面を見ながら顔の皮一枚下で笑っている。 「信用してるよ」 案外素直に言葉が出た。ああ、これは本当だ。わたしは仁王を信用している。うん。 「どこを?」 仁王の白目が動いた。こっちを見た。 どこを? どこをだろう。 仁王は言うこともやることも本当なんだかなんなんだか。なにがなんだか。 仁王の「大丈夫」も「大丈夫じゃない」もわたしには見極めがつかない。 けど、なるほど。はじめて知った。 何を知らなくても、何がわからなくても、誰かを信用することはできる。 「わかんない」 「わからんか」 「だって仁王って言うことやることめちゃくちゃだし。自分の体だけは大事にするかと思ったらそうでもないし。どこって言われても全然わかんない」 「ほーか」 「でも信用はしてる」 「……ほー」 「信用だけは、してるよ」 どこを、かはわかんないけど、と言うと仁王はしばらく間を置いてから深く息を吐き出した。 「なんじゃ、ちいとも勝った気がせんのう」 「げ、なにそれ」 「せっかくを驚かせたと思っちょったのに形無しじゃ」 「いつ勝負なんてしてたのよ」 「お前さんは正直者じゃのー」 「普通だよ」 「正直者には、よう勝たれん」 がりがりと頭をかいて、けっこう本気で悔しそうにしている。 何が勝負で勝ち負けなのか少しもちっともわからない。 けど、独り相撲で勝手に負けてる仁王はなんだか下らなくてちょっと笑えた。 ……しかしそれにしても。 「……仁王、全然あったかくなんないよ仁王の手」 わたしの火傷を重ねて包む仁王の左手は「ぎょっ」と言ったときと変わらない温度だ。 恐ろしく、つめたい。 あー、と仁王はぼけっとした声で、 「まぁ、冬はこんなもんじゃ」 「だ、大丈夫……?し、死んでんじゃないの、実は」 「死んどらん」 「だってすんごい冷たいよ!(ヘビ!?)」 「死んどらん」 「で、ですよね……死んでなくてよかったです」 「、死体、触ったことあるか?」 「え、な、ない」 「こんなもんじゃなかよ、死人の温度は」 仁王は死んだ人を触ったことがあるのだろうか。 思っただけで聞くのはよした。仁王がなんて言ってももういいや。この手が死体に触ったことがあってもなくても何でもいい。 火傷の皮膚にこの手はひどく心地いい。 結局仁王の右手は視聴覚室に明かりがつく三秒前に離れるまで少しもちっともあたたかくならなかった。 ありがとう、と言うと仁王は文庫本とケイタイを片手に収めて立ち上がり、首をひるねようにうなずいた。 文庫本のタイトルがふと目に入った。 「それ、どんな話?」 ピクリと仁王の片眉が上がった。そして大げさにチンピラめいた人の悪い笑みを浮かべ、 「死人が生き返る話」 「へえー」 「……今日はどうもいかんのう」 「どこが?」 「どこもかしこも」 はー、と息をついて、仁王は視聴覚室を出て行った。細長い背を疑問符のように器用に曲げて、だらだらと。 「あ、!何やってたの、遅れて」 「オーランド・ブルームかっこよかったー。ちゃんと見た?」 思った通り前の座席に座っていたらしいみーちゃんとよっちが駆け寄ってくる。 「うん、ちょっと部会が長引いちゃってさー」 「また真田くんと井上?」 「あいつら卒業するまでに絶対どっかの川原とかで決闘すると思うよ」 「いっそ結着つけてほしいけどねー」 「あれよ、最後は同時に倒れて笑い出して、やるではないか……ふはは、お前こそな、なんつって肩を組んで歩き出しちゃったりするのよ」 「その前にあんな大男が二人でケンカしてたら警察呼ばれると思う」 笑って歩いていると氷代わりが離れた火傷が再びジンジンと痛みだした。 仁王の持っていた本は「生ける屍の死」という題だった。 放課後、部活に出る前に保健室で火傷の処置をしてもらって廊下に出たら、物陰から真田があらわれた。 「真田!び、びっくりした……ど、どうしたの」 「何を驚いている」 「真田が急にあらわれるとびっくりするよ」 「何を今更」 「まあ今更だけど……」 真田に待ち伏せされるなんて、すわ切り捨て御免!かと一瞬本能がおののくんだよ。 「まあ、そんな瑣末なことはいい」 咳払いを一つして、真田は頭を下げた。廊下に対して直角に。 「、すまなかった」 「え……ええ、何?あ、頭上げてよ」 「いや、先日のサーブミスのことといい、お前には一度きちんと謝罪せねばならんと感じていた。謝らせてくれ」 「いや、いいよ気持ちだけ受け取っておく!」 「気持ちだけの謝罪などなんの意味もなさん」 「ちょ、土下座とかほんとやめて!許す!許したから顔上げて!」 「本当か」 「本当だよ!で、な、何がすまなかったって?」 土下座しようと膝を折っていた真田がやっと顔を上げた。頑固だけど素直なのが真田の美点だ。真田が素直で助かった。 「うむ。そこつなお前に毎度茶を入れてもらって、すまなかった。気をつけなくてはならなかったな。なにしろお前はそこつなのだから。しかしごく普通に茶を出すだけでよもや火傷するほどのそこつ者だとは思っていなかったのだ。許してくれ」 「おい真田」 今何回そこつって言った? 「火傷は大事ないか?その後の経過は?」 「……軽い火傷だよ。跡もそんなないし、平気」 「そうか……本当にすまなかった。嫁入り前の体に跡など残して……。副部長として親御さんに申し訳がたたん」 「……いやあのわたしのミスだから…真田が悪いわけじゃないから…ていうか嫁入り前とか、親御さんとか……」 「いや、お前という人間のそこつをわきまえていなかった俺の責任だ。以後、は茶を入れることを禁ずる。熱湯にも近づくなよ」 「……(てめぇ)」 「どうした、般若のような顔をしているぞ」 「…………………火傷のこと、なんで知ってんの」 うるさいことになるから黙ってたのに。 「うむ。仁王から報告を受けた」 「ああ…」 「助言も併せて預かったぞ」 「助言?」 「うむ。井上といつまでももめとるとその内にジョイの一服でも盛られるぜよ。気ぃつけんしゃい、とな」 真田の仁王言葉はちょっと色んなところがもたれるな、と思いながらも引っかかる。 「ジョイって?」 「盛ったのはアタック・ジョイだろう?台所用洗剤の」 「盛ってない!」 「そうか。安堵した」 「盛らないからずっと安堵しててください」 「うむ」 では、体を大事にな、また部活で会おう、と真田が大きな背を向けた。 そっちこそ、血が出るほど唇を噛んだりするもんじゃないよ、と呟く。 なんか、一気に力が抜けた。 「そうだ、それから」 「えっ」 真田は唐突に振り返り、 「それから、ОLを顎でつかう上役は嫌われるぜよ、とも言っていたな。あいかわらずよくわからん奴だ」 怪訝な顔で言い置いて今度こそ大またで歩き去った。 「……ОLじゃないけどね……」 詐欺師のフォローか。らしいんだか、らしくないんだか。 ガーゼの上から火傷を押さえるとチリチリと小さく皮膚が鳴るように痛んだ。 まぁ、冬はこんなもんじゃ。 ぼそりと真似した声はちっとも似ずに響きもせずにリノリウムの廊下に落ちた。 |