「今暇か。暇だな」


問いながら返事を待たず、断定して男は勝手に玄関口に上がりこんだ。
久方ぶりの来客だが面の皮の厚さと張り付いた仏頂面は相も変わらぬ様相だ。


「……暇だけど」


言外に何の用だとたずねると、男は軍靴についた泥を払いながら簡潔に答えた。


「異端審問会が長引いてな。時間を潰しにきた」


音をたてずに実に物慣れた動作でソファに腰を下ろす。


「茶をくれ」


喉が渇いた、と遠慮会釈の一つなく要求する男にこれ以上突然の訪問を咎めだてするのも面倒になった。


茶の一杯を出ししぶりするほど恩のない相手ではない。どころか、わたしは彼が所望するなら靴底の泥でも黙って舐めてやるくらいのことはする義理がある。まあ、この潔癖な男が他人に、それも元娼館勤めの女にそんな真似を許すことはあり得ないわけだが。



「どうぞ」
「ああ」



出された茶をすするこの小柄な男とは数えれば随分と長い付き合いになるが、知っていることは互いに多くはなかった。

顔見知りになったのは十代のころで、男はまだ少年といっていい年だった。同じくわたしは少女だった。

ウォール・マリア北部の突端地区の貧民街で両親の顔を知らずに育ったわたしは、あらかじめそう決められていたかのように年頃になると体を売って暮らしをたてはじめた。
その町ではそれが女にとって最も安全かつ安定した収入を得られる仕事だったのだ。

わたしは中々うまくやっていた。
数多くいる娼婦の中でわたしは顔も体も凡庸だったが、恐らくは名前がよかった。
客に取った男たちには偽名と思われたことも少なくなかったが、偽名だったところで効果は別段変わらなかっただろう。

壁の女神にあやかってこの名を授かる娘は珍しくはないが、界隈の娼婦でそう名乗る女は知る限りわたしだけだった。

わざわざ罰あたりを買ってでることもない、と諌められたこともあるが、ただの本名なのでそのまま名乗っていた。自分の名前に特別の愛着も信仰心も持っていなかった。
男たちはそれを逆手に取った意気に感じたのか、名前だけでも女神と寝れば運がつくと考えたのか、話の種程度には面白がった。





「シーナ」
「え、」
「仕事はどうだと聞いてる」
「え、ああ、まあ順調よ。人出が足りないけど、それはいつものことだし」
「そうか。よかったな」
「……そっちの仕事はどうなの」
「どうということもない。何も変わらない」


抑揚のない不機嫌めいた声に、わたしは「……ああ、そう」という返事くらいしか返せない。 この男には人と会話しようという気勢がない。
いや、人と、ではなく、わたしとだけかもしれないが。

(……そもそも他人とこの男が話しているのをほとんど見たこともないのだから比べようもない)



この男がわたしの店に来たのはまだ少年だったころのことだ。
明らかに気乗りしない様子で、この世に面白いことなど一つもないという憮然とした面持ちは女を買いにきた男たちの中で異様に浮いていた。
属するゴロツキ連中の付き合いで嫌々連れてこられたと一目でわかる風体で、さめた目は商売女もそれを買う男客もまとめて軽蔑しているように見て取れた。

わたしが名乗ると、少年はわずかに眉根を寄せ、
「突端地区の路地裏でローゼもシーナもないもんだ」
と言った。
周りの男たちはよくできた冗談を聞いたかのように声を上げて笑った。
娼婦仲間はそれに追従して高い声を響かせた。
わたしは名前をからかわれることは慣れていた。
少年の言うことはたしかに、と思わせた。
貧民街でなにが女神。
体を売って稼いだ金で口に糊する娼婦のなにが女神。
たしかに。


わたしは少年に名前をたずねた。
けげんそうな表情で返された彼の名は悪くない響きだった。
だから次にこう言ったのは、ただただひたすらに腹がたっていたからだ。


わたしに息子が生まれたらあんたの名前をつけてやる。
あんたの名前は娼婦の息子によく似合う。


少年の目が瞬時にまたたいた。
わたしは彼を不快にさせることに成功した。
この後殴られようが殺されようがどうでもいいと思えた。
要するに、わたしは当時、その暮らしに絶望しつくしていた。


けれど少年はわたしを殴りも殺しもしなかった。
リヴァイと名乗ったその少年は直後わたしを指名し、部屋へ伴い、その晩わたしに指一本触れずにぐっすり朝まで眠った。

それ以来、リヴァイは何をどうしたのか、時折まとまった金を持ってわたしの元へ訪れては最初の晩と同じようにわたしに一切触れることなく、ただただ深く眠って帰る客となった。


それから数年がたち、何の因果かリヴァイが調査兵団に入る頃にはわたしは娼婦から足を洗い、ウォール・シーナの壁内で小さな食堂に勤める職を得た。

娼婦廃業の折りの荒事も、新しい生活への足がかりもリヴァイの助力なしにはとても叶うものではなかった。


もう、十数年来、疑問だ。疑問というより既に謎だ。

なぜこの男はわたしに力をかしてくれるのか?

一度も見返りの類を求めずに。





「リヴァイ」
「なんだ」


この男は何事にも興味の薄いさめた目をしている割に、名を呼ばれればいつ何時もその声に応える。
それは当たり前のことだろうか?
律儀なのだ。いや、神経質なのか。


「わたしはずっと前からいつかあんたに聞いてみたいと思ってたことがあるんだよね」
「お前は案外、気の長い奴だな。そんなものがあるならとっとと聞けばいい」
「じゃ聞くけど。あんたはどうして会ったときからずっと、わたしによくしてくれるの」


リヴァイはまた一口茶をすすって、わたしを一瞥した。


「よくした覚えは特にない」
「必要な金を必要な時に用立ててくれた」
「俺には必要ないものを渡しただけだ」
「そのくせ一度もわたしに見返りを求めなかった」
「お前にそんな奉仕精神があったとは意外だ」
「あんたの協力はいつでもわたしを助けてくれた。あの街から抜け出せたのも、生きて今ここにいるのも、ほとんど全部があんたのおかげだと思ってる」


どうして、あんなによくしてくれたの。


言葉にはせずに、再度たずねた。



「お前は花が好きだ」
「……は?」


脈絡のないリヴァイの言葉に一瞬度を失った。


「好きだろう。違うのか」


顎で指された先を見れば、テーブルの上の花瓶に生けたアネモネ。
赤い花が一歩、青い花が一本。紫が一本。


「す……好きだけど、まあ……」


言葉の通りに、まあ…………、まあ、といったところだ。花を飾るのにさしたる意味はない。些少のうるおいといった程度のものか。


「この花には見覚えがある」
「まあ……アネモネなんてこの時期珍しくないわよ」


リヴァイは赤いアネモネの花びらを親指の腹でこすっている。
短くたわんだ茎、鳥の両翼のような葉が水の中でくるりと身をよじる。



「お前の部屋は」
「え?」
「大昔お前がつかっていたあの部屋だ」


ああ……、と思いだすのは、娼館にいたころの自室にして商売部屋だ。


「あの部屋の床はいつも顔を映るほど磨かれていた。ベッドのシーツは糊がきいていた。布団は乾いていて清潔だった。テーブルには花があった」
「……だから?」
「あの肥溜めみてぇな街でそんな場所があるのは奇跡的だった」
「…………はあ」
「だからってほどのことでもないが……まぁ、理由なんてそんなもんだ。あとは………………気休めみたいなもんか」
「気休め?」
「死んだほうがいい奴らばかりの街で、生きてるほうがまだマシな人間は少なかった。お前は希少なその一人に思えた。そんな人間は俺にとってもできれば生きていたほうがいい」
「……どうして」
「死にたくなるだろう。クズだけが生きてる世界なら」



死にたく、なるのか。あんたが。

あのころ、少年だったころ。あんたはそんな風に思って生きていたの。



「そろそろ頃合いか。邪魔したな」


言って、リヴァイは立ち上がる。
来る時も唐突なら帰る時も余韻を残さない。
茶器を受け取って、習いで玄関まで見送る。


「今度会うのがいつになるかわからないけど、元気で。気をつけて」
「ああ。……そうだ。この間、新兵が入ってきたんだが、初めて会った時のお前を思い出した」
「……なんでまた」
「さあな。年がもう少し若ければ、存外お前はいい兵士になったかもな」
「……それは、どうも」
「今からでも、少なくとも食堂のばばあになるよりは向いてそうだ」


口端を持ち上げて吐き捨てるように、はっ、と笑うこんな顔は少年のころと変わらない。


「やめとく。調査兵団なんて、あんたじゃなきゃ命がいくつあっても足りない」
「ああ、やめておけ。惜しめる命はせいぜい惜しめ」
「そうする」
「じゃあな」


じゃあ、と手を上げてリヴァイを見送る。
昼下がり、賑わう大通りの雑踏にまぎれる間際、小柄な背中がふいに振り返った。


「いつか」
「え?」
「いつかお前に息子が生まれたら、俺の名をつけるんだったな?」



驚いた。 振り返ってまで何を言うのかと思えば。
十数年前、はじめて会った晩の話か。



「そう、いつか息子が生まれたらね」


リヴァイはごくわずかに首を揺らしてうなずいたかに見えた。
逆光の陰に隠れてよくわからないが、もしかすると笑ったのかもしれない。


「シーナ」


大きな声を上げているでもないのに、不思議と耳に通る声。
リヴァイがその声で呼ぶのなら、女神でも返事をするのではないか。ふと一瞬の間にそんなことを考えて、どれだけこの男を特別視しているのだと自分で呆れた。
人類最強の男だかなんだか知らないが、わたしにとったらただの生涯の恩人だ。


「シーナ」


返事に遅れたものだから、いらつきの浮く声で再度呼ばれた。気短かな男だ。ああ、変わらない。


「なに」


リヴァイはわたしを見据える。


「ウォール・シーナの壁の中、お前が生きてることなんてただの気休めでしかないんだが」


言って、半身をひるがえし


「死んでるよりはマシだ。はるかにな」


去る、その小柄な背にわたしは笑いながら


「……ああ、そう」



という返事くらいしか、返せない。









ウォール・シーナの壁の中