あ。
雅治くんだ。


視界に入ってすぐに気がついた。
シロクマの柵の前、上着のポケットに手をつっこんで、楽しそうでもなく、つまらなそうでもなく、ゴロリと仰向けに寝っ転がっているシロクマをただ見ている少年に動物園が好きそうなイメージはなかったけれど、小学五年生が暇つぶしに選ぶ場所としては妥当なところなのかもしれない。


「雅治くん」


や、と片手を上げて近づくと、彼はわたしを認めて、おや、と目を丸くした。


センセ」
「ひさしぶり。こんなとこで会うとは、意外だねぇ」
「そいはこっちのセリフじゃ。高3にもなって一人で動物園とはセンセエ、物好きが過ぎよるよ」
「そっちこそ一人で来てるくせに」
「俺は小5じゃき。ゲーセン行くより平和じゃろ」
「あれ、テニススクールの帰り?」
「や、今日は休み」


ピース、と二本指を立てるものの、顔は無表情だ。なら、なんだそのイエーイ、みたいなピースは。よくわからないところがある子なのは相変わらずだ。


「でもテニスラケットしょってるじゃない」
「スクール行く言うて出てきたけん。偽装よ」
「へえ?」
「一日時間潰すんもこれでけっこうたいぎでのぉ。金もないし、こどもの身の悲しさよ」


柵に寄りかかって、雅治くんははー、とこれ見よがしに息をついた。


「そんなにおうちにいるの嫌なんだね」


雅治くんの様子が芝居がかっていたので、つい笑ってしまう。
雅治くんは、

「笑いごとじゃなかよ、センセ」

いかにもうんざりとした様子でわたしをにらんだ。



雅治くんのおうちは自宅でお母さんがピアノ教室を開いている。
生徒は小学生から近所の主婦の方まで幅広く、仁王先生のレッスンはレベルに合わせてそれぞれ楽しくも厳しく、人気がある。
わたしもこの夏まで通っていて、週に一度レッスンを受けていた。


雅治くんがわたしをセンセ、と呼ぶのはピアノレッスンの後、彼の姉のりっちゃんの勉強を見てあげていたからだ。
レッスンを終え、いっしょににお夕飯をいただいた後、居間で教科書とノートを開いてりっちゃんに家庭教師の真似ごとをしている頃に雅治くんはいつもテニススクールから帰ってきた。
「かーさんにこきつかわれて、センセもたいぎじゃのお」と、一人遅れて夕ご飯を食べながら、雅治くんはよくりっちゃんとわたしをまとめてからかったものだった。


仁王先生のところの三姉弟は当然のようにお母さんからピアノを習っているのだが、真ん中っ子の雅治くんだけはどういうわけかピアノが嫌いで、それでも二年前まで渋々やらされていたものの、同じく小さいころからはじめたテニスを本格的にやりたい、とスクールの選手コースに入り、お母さんの指導からついに離脱した。


この悶着のあった二年前、わたしは高校一年生だったが、その時の雅治くんとお母さんの戦いはものすごいものがあった。
レッスンにうかがうと、二人が一メートルの距離を挟んで微動だにせずにらみ合い、無言の火花を散らしていたり、
「テニスなんかやって指痛めたらどうするの?ピアノ弾けなくなるでしょう」
静かな迫力で迫る仁王先生に、
「お、そら弾けんくなったらラッキーじゃの」
ケロリと笑う雅治くん、という修羅場に出くわすことも多々あった。


雅治くんは、本人は嫌いだと言うけれどピアノの才能があったらしく、それを育てたかったのだ、とわたしは後にぽつりと仁王先生が漏らしたのを聞いた。でも、悪いことをした。あの子はそんなこと、望んでなかったのにね、と先生の呟きは続いた。


雅治くんにあったらしいピアノの才能を、しかしわたしはお目にかかったことは一度もない。
ピアノを弾くのも嫌いなら、人に聴かせるのはなお嫌いらしい。
一度くらい、先生が育てたかったと言った彼のピアノを聴いてみたいな、と思ったこともあったけど、嫌いと充分知っているものを押して頼む気になれるはずもなく。
それにそんなことを言って小学三年生のころからお母さんと対等に喧嘩して一歩も引かない雅治くんに機嫌を損ねられるのは正直こわい。触らぬ神にたたりなし、だ。


「ほいで、センセはどうしたんよ」
「え?」
「なんして、こがん時間に一人で動物園なんぞいるんじゃ?」


こがん時間、と言われてあたりを見るともう空がずいぶん暗くなっていた。


「あ、もうこんな時間なんだね。雅治くん、帰り送っていこっか?」
「かまわん。スクールの時はもっと遅うなる時もあるし」
「あ、そっか。いつもみんながお夕飯すませた後に帰ってきてたもんね。でも、よく考えたらあんな時間に一人で帰るのって危なくない?」
「普通ぜよ。女子でもあるまいし」
「そお? でも最近変な人多いって聞くしさー」
「俺よりセンセこそ気ぃつけて帰りんさいよ。センセ、いかにもすっとろそうじゃけん」
「すっとろ……!小学生に心配されるほどじゃありませんよ!」
「ほーか。 で? センセはどうしたんよ」


雅治くんはくつくつと笑っている。
最初の質問に答えていないわたしをきちんと見逃していないのだ。目端のきく子だ。


「先生は、予備校をさぼってました」


年下の、冗談にしても自分を「先生」と呼ぶ少年を相手にするには不甲斐ない告白だ。


「ほお、センセもさぼってええんか」


雅治くんは目を細めて笑っている。
最初から言わなくたって、この子は恐らくわかっていたんだろう。


「さぼりたくなる日もあるのです」
「ま、センセも人間じゃからの」
「そうそう。先生は、しかも弱い人間なのですよ」


冗談めかしてまったくの事実を自嘲すると、雅治くんはよくできた笑い話を聞いたかのように、はっ、と声を上げて笑った。笑ってくれたまえ。そのほうが先生救われます。


「ほーかほーか。センセはそうじゃったかの」


雅治くんはうなずいて、それきり、予備校をさぼった理由、などには追及してこなかった。
興味がないのか。賢いのか。



聞かれても困るので助かった。
予備校をさぼった理由なんて、特にはないのだ。
成績が下がったわけでも、友達ともめたわけでもない。嫌なことはなにもない。
ただ、毎日の予定されている行動を、今日は外れてみたくなったのだ。

河原を散歩して、服屋と本屋をひやかして、勉強もしないのに図書館にまで行ったりして。
それで最後に来るのが動物園なんだから、我ながら地味なさぼりだ。


「雅治くんは、ピアノ教室終わるまで帰らないの?」
「まあ、そーじゃのう」
「ふーん……」


ピアノ嫌いも徹底したものだ。
自分が弾くのは当然、人の弾いてる音を聴くのも嫌らしい。

わたしが教室に通っていたころ雅治くんの帰りはいつもテニススクールが終わってからで、その時間にはピアノ教室は既に終了していた。
テニスを熱心にやりたいからスクールに通うのか、自宅のピアノ教室に帰りたくないからスクールへ通いだしたのか。
以前から、この仁王先生のところの真ん中っ子の本意は、わたしにはちょっとした謎だ。



「ま、でもそろそろ頃合いかの。今から歩いてタラタラ帰れば、ちょうどいつものスクール終わりってところか」
「偽装に不備はないですか、先生」
「なんのセンセーよ」

は?と言いだけに雅治くんの眉が下がった。

「さぼりのセンセー」
「うん?」
「時間潰すのたいぎ、とか言って実はさぼりの常習犯でしょ、雅治くん」


彼の痛い腹をついたつもりで指摘したら多少はこの少年もあわてるかな、と思ったのに、雅治くんはことさら大仰にため息をついてみせた。


「センセ、モテんじゃろ」
「え! なにそれ今その話してた?」
「野暮はモテんよ。女でも」
「……!!」
「さ、帰るかの。シロクマ、ずっと寝とるし。腹もへったし。ほらセンセ、さっさ歩かんか」
「……野暮ですいませんね」


小学生に野暮とか言われた動揺のまま、雅治くんに並んで歩き出す。 伸びる二つ影の長さの分、わたしは彼より経験値なるものが勝っているはずなのだが、先生はその優位性を少しも感じられませんよ。


「野暮を詫びるとは、これまた野暮じゃのー」


雅治くんはカラカラと空き缶ふるうみたいに笑った。








シロクマ帰り









「……あんたはさぞかしモテる大人になるんでしょうね……」
「センセが言うたら、呪いみたいじゃのー」