部室のロッカー整理をしにきたら既に中には幸村がいた。いや幸村しかいなかった。 瞬時に身が固くなった。やばい。 「やあ、」 ひらりと手を上げるその優雅な仕草につい目が泳ぐ。 「はやいね幸村……みんなは?」 「まだみたいだね。まったく、たるんでる」 同じ言葉でも真田が口にするのとはまるでちがう「たるんでる」。口調は穏かなのに幸村に言われたほうがなぜか背筋が縮こまる。 引退式を間近に控えてロッカー整理にきているはずなのに幸村は窓辺のイスに脚を組んで腰かけていた。 整理はもうおわったのかな。 窓からなまぬるい夕方の空気が入り込んで床にうっすらつもったほこりを巻き上げる。 どうしてまめに掃除してるのに部室ってすぐ汚れるんだろ。……ていうかやっぱり幸村掃除してないじゃん。 「すっかり秋だね。金木犀の香りがする」 「え、する?」 「するよ」 「わかんないな」 「部活も引退してこれからさみしくなるよ」 「でもすぐ冬になって春になって、そしたらまた部活三昧だよ。今の内にゆっくりしようよ」 「つまらないな。部活がないとに毎日会えなくて」 「……それはどうも」 またはじまった。これだから幸村と二人きりはいやなんだ。 同じ小学校から立海へ来て、誘われてテニス部のマネをやって3年。 長い付き合いの中でわたしは何度も幸村に好きだというようなことを言われてきた。 いうようなこと、というのが肝だ。 はっきり明言されたことはない。 いつでも一番かゆいところから斜めに指一本分ずれたところを時折ひっかいて、幸村は通り過ぎていく。 「求めてないものはすべて恵んでくれるのに求めているものをこそくれないなんて、神様は意地が悪いよね」 「……なにそれ」 半ば以上嫌な予感がしたけれど間が持たずに訊いてしまった。 幸村は黙ってたおやかに笑んでいる。 わかっているくせに、と言われている気がするのは自意識過剰、自意識過剰と心で唱える。 「序盤は本のように、中盤は奇術師のように、終盤は機械のように、という言葉があってね」 しばらくしてから唐突に窓の外を見ながら幸村がつぶやいた。 付き合ってはいけないと思いつつも、無視しているのも疲れるので出来るだけ気乗り薄に応じるのがコツだ。 幸村と話していて疲れないコツ。 「テニスの格言?」 「いいや」 「じゃガーデニング?」 「どっちも俺の好きなものだけど、はずれ。それにテニスはともかくガーデニングの終盤で機械のようにしたら駄目じゃないか。植物を育てるのに必要なのは徹頭徹尾、愛だと俺は思うよ。これは人にも当てはまるかな」 すでにもう疲れてきた。 「へえ……」 一見有効に見えるこういった相槌は幸村相手には実は悪手だ。 話をどんどん持っていかれる。ペースを一旦つかんだら幸村は離さない。 「チェスの言葉なんだ。序盤はできるだけ確立された定跡に従うことが望ましく、中盤は記憶だけでは対処できず、その場に応じたテクニックが要求される。そして終盤は機械的な読みの深さの優劣で勝敗を決する。ああ、でもこれはテニスには当てはまるね。今度真田にも教えておこう。もっとも、真田はチェスより将棋の方が好みだろうけど」 「その言葉がどうかしたの?」 「わからない?」 「なにが」 「口説いてるんだけどな」 「……あの、難しすぎるんですけど」 「出会って随分立つからもうとっくに序盤は過ぎてる。ちょうど中盤あたりだと俺は見当をつけてるんだけど、奇術師のようにってちょっと難題だよね。押しても引いてもには今更だし。奇をてらった行動って言っても、そういうの俺苦手みたいなんだ。今度仁王に何か聞いてみようかな。奇術師と詐欺師って通ずるものがあると思わないか?」 語尾に疑問符をつけても幸村に答えを求める意がないことはわかる。 伊達に何年も付き合っているわけじゃない。防戦には慣れている。しかし悲しいかな、慣れているのは防戦だけだ。 「……さあ」 ああまた悪手だ。打つ手があるならわたしにこそ教えてくれ奇術師。(仁王でもいい) 「わからない?」 一体何の質問だ。 目を合わせないよう窓の外を見ていると、ごく軽く手を掬われた。そしてごくごく軽く手の甲にキスをされた。幸村に。 幸村が。手に。唇。 「ひっっっ!」 「……何て声出すのさ」 むっとしたように幸村の声が硬くなる。笑うかと思ったのに。くつくつと、押し殺したように喉の奥で、おかしくてたまらないというように。 そろりと盗み見ると、幸村がそっぽを向いて口を引き結んでいた。驚いた。こんな顔ははじめてみる。ついまじまじと見入ってしまう。 ……なんか、 「赤也みたい」 「は!?」 高速で向き直った幸村は笑顔の般若のようだ。 こわかったけど、それよりよっぽどおかしくて思わず大笑いしてしまった。 幸村は面白くなさそうに歯噛みして、持ったままのわたしの手をブラブラと揺らした。 赤也よりよっぽど拗ねたこどもみたいだった。 幸村はわたしの手をぱっと離した。何の未練もないかのように。 「そろそろ決着をつけないかい」 「なんの」 「わかっているくせに。わざわざ問い返すところが女はこわい」 「はっきり言わない幸村のほうがタチが悪い」 「言うね」 「……決着は、つけるものじゃなくて自然とつくものだと思う。つかないならそれまでだと思う。わたしは嫌なんだよ、無理矢理白黒つけるやり方」 「俺はこの試合は長引きすぎてると思う。何事にも寿命があるんじゃないかな。人にも、人の感情にも、関係にも」 「…………これが試合ならわたしは勝ちたくも負けたくもない」 「引き分けがいいって? 俺は引き分けは負けだと思うな」 「常勝立海大テニス部キャプテンらしいね」 「だって嫌いなんだ。負けるのが心から」 「……幸村らしい」 「ねぇ、だから俺のこと好きになってくれないかな」 小首をかしげ三日月形の唇で笑んで、この男はいともたやすくわたしの心臓を冷たくする。 自分の好きなように、好きな温度に調節される。 引くな、と心が体に指令を出す。 最初の一歩でびびったらずるずる持っていかれるばかりだ。 「その前に幸村がちゃんとわたしを好きだと言ったら考える」 「だからさ、嫌いなんだよ。負けるの」 「いつも思うけど、幸村とは話にならないよ。テニスみたいに人生全部勝っていけるわけないでしょう。ていうか、勝ちとか負けとかいちいち話に持ち出すのよそうよ。面倒くさい」 「本当、勝負にならないな。とは」 幸村が愉快でならないというように笑った。 「だから、いつまでも好敵手でいてほしい。白旗を掲げることなく、両手を上げることなく」 「……決着をつけたいんじゃなかったの」 「言うとおりにする相手なんてつまらないよ。絶対に勝てる試合なんて面白くない」 「じゃあずっとこのままで?」 「そう。僕らは日がな一進一退の攻防をくり返す。チェックメイトには程遠く、盤上のクイーンとキングのように」 歌うようにつぶやいて再びわたしの手を取った。今度はゆらす代わりに爪を立ててきた。 幸村はいつもこうだ。 本当に言いたいことは一切言わず、言わせたいことだけを相手の口から引きずり出して値踏みしようとする。 心の一番内側にある気持ちをせーので見せ合ったらきっと同じ言葉が出てくるのに、わたしたちはいつも相手の手を時折気まぐれに取って揺らしながら、もう片方でかわいい自分の手を絶対に離そうとしない。 幸村の爪に力がこもる。 痛い、なんて死んでも言うか。 「腹が立つ」 にらみつけると幸村は予想通りと言わんばかりにクスクスと笑った。 「もちろん、君は腹を立てるべきだね」 ああ、きっとすべてが幸村にとっては予想内の予定調和なのだろうな、と思うと体中から怒りといっしょに力が抜けた。 この、何手先も人の思考と行動を読んで泰然と笑うたおやかな男がいつか我を忘れて激したり、胸を焦がす想いに身悶えることがあるのだろうか。 たとえば今、押し倒してキスでもしたらその三日月形の唇がポカンと間抜けに開く確率はどのくらいあるだろう。 それさえ予定調和だとしても、実行の価値はありそうだ。 生涯ひねもす、千日手 今こそ王手をかける勇気を。 |