黒い鼻先から吐き出した息を最後に、茶色い毛並みがそろった胸がもうふくらむことはなかった。 頭の中心がガンガン殴られたように痛んだ。 あいつが今どうしてそばにいないんだろう。今すぐに知らせて、ここに呼ばなければいけないのに。 でもそれはできない。 隣の家に飛びこんだってあいつはいないから。 ここから一時間かけて電車に乗った海の見える町で今ごろは練習に疲れて眠りこけているんだろう。 電話したってしょうがない。メールなんかじゃなんにもわからない。 こういうときはそばにいないとしょうがない。 まだあたたかい、何も失われていないような体を抱きしめて、あいつに会わせてあげられなくてごめんとつぶやいた。 「サジタが死んだ」 昨日の夜、わたしの足元にやってきた絶望の理由なんて伝えるにはたったの一言で事足りる。 サジタが、死んだのだ。 目の前の十年以上見続けてきた幼馴染が急に知らない男の顔に見えてきた。 仙道は頬杖をついていた大きな背丈に似合いのやはり大きな手の平をはずした。 目を少し見開いて、 「いつ」 低い声だ。でも落ち着いている。 「昨日の夜」 答えると、そっか、と男が言った。 「そうなんだよ」 できることはもうなかった。獣医は安楽死を勧めていた。それを拒んだのはわたしだった。 一分一秒でもいいから温かくて大きな茶色い七つのころから兄弟だったあの生き物に、この世に存在していてほしかった。 薬を注射して眠るように逝かせてやればよかった。今になって悔いる。サジタは苦しんで死んだのだ。それをわたしが選んでしまった。 「サジタ、いまも家?」 声にうなずく。 「いつつれてくの」 「今日学校がおわったら」 骨を焼きにいく。 「俺も行くよ」 「練習は」 たずねると、仙道はしばらく黙ったあとでゆっくり噛んで含めるように「馬鹿言うな」と言った。なにが馬鹿なんだ。 そもそもサジタに本名サジタリアスと妙な名前をつけたのはこの男だった。 そのとき見ていたセイントセイヤのアニメから取ったらしい。 子犬だったサジタを二人で見つけて、うちで飼って、中学まで二人で世話をした。高校に入った仙道はバスケをするために学校付きの寮に入ったので、それ以来サジタの顔を見ることは少なくなった。 中学のころ、仙道はよくロードワークにサジタを連れて走っていた。夜自分の部屋へ上げていっしょに眠っていた。一月に一度必ず体を洗ってやっていた。 兄弟のようだった。 わたしとサジタだって姉弟みたいだった。 わたしと仙道も、サジタを通して兄弟だった。 こっちの同い年の兄弟のほうは、少し見ないうちにどんどんと背を伸ばし声を低くし皮のボールを自分の一部のように扱うようになっていった。 バスケの世界ででこいつがどれだけすごいのか知らないけど、とにかく男子に女子に人気があって、学校で名前を呼び捨てにするのが気が引けたので苗字で呼ぶようになった。その内地元で会っても名前で呼ぶことはなくなった。 わたしはもうとっくに、この男について知らないことのほうが多いんだ。 仙道の机を離れて、自分の席へつく。クラスメイトの声が水槽の中にいるみたいにぼんやりとたわんで響く。なのに頭は妙に冴えている。 「!」 急に左耳に激痛が走った。 「なに、」 首だけでふり返ると仙道が立っていた。耳を掴んでいる。ていうか、つねって…… 「いたたたたた!いたいいたいいたい!なにすんの仙道!い、たたたた!」 親の敵!といわんばかりの渾身の力で耳をつねってくる。 「なんなのよ!痛い!」 涙が目のふちにのぼってきた。なんのつもりだ仙道……!(にくい!) 耳を掴まれているほうの手で仙道の胸あたりをどんと突いた。 当の仙道はびくともせずに(あたりまえだけど)、 「お前、泣いたほうがいいよ。ちゃんと」 相変わらずの穏やかな声。 なんだそれ。 「なに言ってんの、」 たしかにわたしは泣いてない。泣けなかった。サジタは苦しめたわたしに泣く資格はとてもなかった。 「サジタの思ってたことなんてサジタにしかわかんねぇんだからさ」 なんだそれは。慰めてるのか。仙道が。(気づかいなんて言葉とは世界一縁がうすいくせに) 涙が目のふちをこえてこちらがわに流れてきた。仙道の馬鹿のせいで、泣いてしまった。 仙道はやっとわたしの耳を離した。感覚がない。つねったあとを見て、また穏やかに仙道がつぶやく。 「ごめんな」 「なんなのよ、あんたえらそうに。自分だって泣いてないじゃない」 下を向いたまま言い返すと、仙道は押し黙った。 ガラリと戸の開く音がして、先生の挨拶が響いた。クラスメイトたちのイスや机がガタガタと動く音。 「仙道、どうしたー?席つけー」 先生の声。視線を感じる。 俺は、と仙道が小さく言った。 「俺はこれから」 顔を上げると後ろのドアから仙道が出て行く後姿が見えた。 おーい、仙道ー?と廊下側の男子。 まったくあいつはしょーがないなぁ、と先生。 昔からかわらない。 泣くときは絶対一人になりたがる、あのこどものクセだ。 裏庭か、屋上か。 仙道が置いていったらしい。机のはしっこにくしゃくしゃに丸まったハンカチが乗っていた。 思い切りそれで鼻をかむ。 あとで見に行ってやろう。見慣れてはいるけれど、随分久しいあの泣き顔。 そしてこのハンカチをありがとうと言ってさし出してやるのだ。 |