目が覚めたら6時間目終了まであと十二分くらいだった。 大あくびと伸びを一つ。 周りを見るとみんな勉強していた。すごい。自習の意義をみんなよく知ってる。 けれど隣人だけは机の上に何も出さず、頬杖ついて窓の外をぼけっと見ていた。 四十人弱いるこの教室でわたしと隣の席の宮田だけが浮き島のように今勉学と無縁。 もう一つあくび。 窓の外を見たけど、とくに何もない。曇りで、鳥もいない空。七月の初めだってのにちっとも暑くならないつまらない不気味な夏の空。 宮田は何を見てるんだろう。 隣の席の宮田はプロボクサーだ。 くわしいことは知らないけど、プロってことはボクシングを習っているわけじゃなくて、お金を払って試合を見に来る人たちの前でリングに上がって戦って、それでお金をもらってるということなんだろう。 よくテレビで高校生プロゴルファーとか女子高生がバレーの全日本チームに入ったとか聞くけども、同じクラスの子がすでに体を張ってプロの世界で生きているなんてまったくピンとこない。 宮田はほかの男子たちとは全然ちがう空気を持ってる。平たく言うとちょっと浮いてる。 友達がまったくいないわけじゃないだろうけど、大勢とつるんでるところを見たことはないし、笑った顔どころか自発的にしゃべっているのもあんまり見た記憶がない。 端正な顔をしているので女子の間ではよく名前が挙がるけど実際告白した子がいるとか付き合った子がいるという噂は聞かない。 男子にとっても女子とっても宮田は近寄り難いところがある。らしい。 ……記憶がないとか、らしいとか。 去年一年同じクラスで、春からもう三ヶ月も隣の席に座ってるのになんでこんなにこの人いつまでたっても知らない人なんだろう。 「宮田って」 思わず口をついて出た。 宮田が振り向いた。 持ってる空気がちがう世界でも声は届くのだ。わたしに口があって言葉があって、宮田に耳があるのだから当たり前だ。 「宮田って、どんな人?」 は? と宮田の目が一瞬丸くなった。あ、驚いた。宮田も驚くんだ。そんなことにわたしは驚きながら言葉を足す。 「いや、わたし宮田と去年も同じクラスだったけどあんまりしゃべんなかったし、宮田って他の男子と全然違うし、なんていうか」 なんていうか、なんだ。そうだ。 「気になる」 ぽつりと落ちた一言はなんだかおかしな余韻を生んだ。 宮田の顔が怪訝そうに微妙にゆがんでいる。 あ。今の言い方はなんかまずかった。 「いやあの、わたしが宮田を好きで気になるとかじゃなくてですね」 「別に勘違いしてねぇよ」 ため息。あ、宮田もため息つくんだ。そりゃつくか。わたし言いたいことまとまってないなぁ。 「じゃなくて、なんていうの……宮田は何を……うーん……好きなのかな、とか、嫌いなのかなとか。何をしてる時が楽しいのかとか……学校は好きじゃないみたい?とか。ボクシング………宮田とボクシングってどんな関係なのかなとか」 「……ボクシングとどんな関係って。、現国大丈夫か」 「今のはわたしもおかしな日本語だと思った」 認めてと笑うと宮田はますます呆れたようだった。呆れられてしまった。 「なんだって急にそんなことが気になるんだ」 「うん、三年になってから急に進路の話が身近になってきてみんなばたばたしはじめたでしょう。今まで遊んでた自習の時間に勉強したり」 「は寝てたみたいだけどな」 「うん、まぁ。宮田はぼーっとしてた」 「見てたのかよ」 「え、そっちこそだし!」 「………………で、なんだよ」 「何だかどうも実感わかなくってさ。就職とか進学とか、そういうのはわかるんだけど、こう、自分の人生を自分で生きるって、どんな感じがするんだろうって」 ああそうだ。 それが気になる。それをすでに自分の感覚にしているこの人の見てる世界が気になる。 この人の吸ってる空気とわたしが吸ってる空気は匂いどころか味まで違う気がする。 自分で選んだことに自分を懸けるってどんな気分? 失敗も成功の全部自分で背負うってどんな気持ちがする? 怖い? 気持ちいい? 逃げたくなる? 誇らしい? あなたは何を見てるの。 どうしてそれを見ることにしたの。 それが、 「気になる」 胸の内で生まれた言葉をたどたどしく何とか形にして、隣にいる宮田の耳に伝える。 隣にはいるけれど、手を伸ばせば多分触れるんだろうけど、この人のいる世界はわたしには見えないし聞こえない。 それくらいに隔たっているということだけはわかるのだ。 また呆れてるかなと思った宮田は、ついていた頬杖を外してこっちを見ていた。 静かな目をしていると思った。 今まで人の目がうるさいとか静かだとか思ったこともなかったけど、今、宮田の目がとても静かなことはわかった。 わたしがわかるんじゃなくて、宮田がわからせているんだ。 「」 この、絶対的な存在感はなんだろう。 「やっぱりそれ、俺のこと好きなんじゃねえの」 「………え」 「……………………え、じゃねぇよ。否定しろ」 「え」 「………………………」 「え、何。今のボケ?」 「…………………」 「え、えー宮田もボケるんだ!えー」 「騒ぐな」 「しかも何か寒いってゆーかボケきれてないボケだよ!宮田モテんだからさ!洒落になんないよ恥かしいよ!」 「うるせぇ!俺のほうが恥かしいよ!騒ぐな」 「いやだー中途半端に寒い色男ってすごく嫌!どっちかにして!うぬぼれるならうぬぼれて!俺かっこいーとか言って!俺に抱かれてぇ奴は先着100人全裸で廊下に並べとか言って!」 「うるせぇっつってんだろ!」 「それくらいしないと宮田の場合ボケが足りないのよ!がんばってボケて宮田!全身でボケて!」 「……もういい」 「えっちょっと待ってまだ心の扉閉ざさないで!」 「…………」 「無視しないでよー今なんか話しててすごい楽しかったよ。開けてみよう?扉。聞かせてよ、心」 「…………」 「……悪かったって。毎晩100人抱いてるみたいなセクハラ言ってごめんって宮田」 「…………」 「宮田ー」 宮田の無視ときたらものすごい。鉄壁だ。鉄の壁と書いて鉄壁だ。今までこの壁でどれだけの雑音を遮断してきたんだろうこの人は。 「宮田ってば」 「……………………」 「……いや、ほんとごめんね?」 「……………………」 すごい。さすが鉄の壁、冷たくて厚い。そしてうず高い。叩いているこっちの手が折れそうだ。 でも、 「あのさー宮田」 「……………」 「この時間っておなかへってくるよね」 どんなに君が固く扉を閉めたとしても、君のいる世界とわたしのいる世界が気圧が違うくらい標高に差があるとしても、その耳にわたしの声が聞こえているということはもうわかってる。 だってわたしに口と言葉があって、君には耳と心があるんだよ。 わたしたちに本当は埋まりようのない隔たりがあることはわかっているけれど、今手を伸ばせば多分わたしは君に触れるし、君はわたしに触れる。 そんなのは、きっと本当に今だけだ。今のたまたまの巡り会わせでしかない。 でも、それがなんだかわたしは楽しいよ。 目を閉じて眉間に皺を寄せている君は多分しつこい隣人に腹をたてているんだろうけど、どうしてかわたしの口元はつい笑ってしまう。 悪意はないし、他意もない。 言いたいこともしたいことも本当にこれだけ。 「もううるさくしないから話をしようよ」 宮田が目を開けた。 こっちを見た。静かな、永久に物音一つにたたない真空の真ん中を切り出したような目だった。 そして、 「……お前根性あるな」 わたしを見た。 |
「うざくてごめんよ!」 「本当にな」 |