男が最初に店にやってきたのはまだ両親と働いていた頃だった。 父も母も元気で、店には常連客があふれ、一日に何皿料理を運んだか数え切れなかった。 食材の買い付け、荷運び、店の掃除、調理の下準備、接客、皿運び、皿洗い、伝票の整理。また掃除。 それらを片付けてからメニューの一つ一つの調理方法を両親に習い、くり返しつくる。 そんな毎日で床につく頃にはくたくたになっていたが不思議と苦ではなかった。 繁盛している飯屋を切り盛りするのは刺激があったし、おいしいと言ってくれるお客さんの笑顔はうれしかった。 両親の仕事は丁寧で、娘から見た贔屓目を抜きにしてもどのメニューもおいしかった。 戸を開けて入ってきた瞬間、何とはなし目を引く男だった。 橙色とも桃色ともつかない明るい髪色の三つ編みを背中にたらし、雨でもないのに番傘を手にした出で立ちは町の常連客とは雰囲気が異なっていた。 流れ者の荒事師かな、と見当をつける。 そういうお客もたまにあった。料理を食べてお代を置いて行ってくれるならどんな客でもありがたい。 「お姉さん、注文いいかい」 男は一度に冗談のような大量の料理を注文して厨房の両親のみらなず、店中のお客の度肝を抜いた。 私も驚いたし、ひやかしなのかと思えばそれらを全て平らげてなお追加のメニューを読み上げる。 その内に食材の備蓄が切れたことを伝えると 「ええ、それは困るよ。せっかくいい飯屋を見つけたと思ったのに」 と勝手なことを言った。 勝手だがありがたいとも思った。両親にしても同じだったろうと思う。出した料理をこれほど豪快に食べられるのは気分のいいことだったろう。 男が二度目に店にやってきたのは両親が伏せって間もない頃だった。 がらんとした店内を見て、あれ、という顔で、ここ前は親父さんとおばさんとお姉さんでやってた飯屋だよね?と言うので、肯定した。 「前はもっとにぎやかじゃなかった?」 答えずにいると、注文いいかい、と前回と同じく大量の料理をオーダーした。 一人なので時間がかかるけど、と言うが、男はかまわないよとのんびりと答えた。 あるだけの食材でつくれるだけの料理をつくって運んで、男はそれを瞬く間にたいらげたが、備蓄が足りず男の注文の半分も出せなかった。 会計時に「味はどうでしたか」と尋ねると「中々うまかったよ。けどあれだけじゃとても足りないな」と言って店を出て行った。 近くの通りに出来た飯屋の店主に父親が因縁をつけられ怪我をした。 その穴を埋めようと母は倍働いたが、揉めた店からの嫌がらせが続き、客は離れ、心労がたたって母は倒れた。 一人で店に出るようになってからも状況は変わらず、連日仕入れた食材が無駄になるばかりで、頭のどこかではいつ店を閉めようかと算段をつけ始めていた。 腹を満たせなかった今の客には悪いが、最後に店中の食材を空にしきってくれて気持ちの整理もついた気がした。 父と母の言うとおり、このあたりがいい潮時なのだろう。 帰ったら二人に、あの時の大食らいが来てまた店にあるだけの食材を食べきっていったよと笑って話そう。 繁盛していた頃の印象深い客のことを両親も懐かしく思い出すだろう。 さて、と腰を上げると、出て行ったばかりのさっきの男が戸を開けて入ってきた。 忘れ物でもしたのだろうかと窺うが、男はよいしょと背負った巨大な荷を降ろして言った。 「さあ、食料だ。これならちゃんと俺の注文に応えてくれるだろ」 「え?」 「飯屋なんだから、仕事をしてくれよ。俺のために」 男はそれがさも当然の権利と疑わない顔で両手を広げた。 たしかにうちは飯屋でお客の注文に応えるのが仕事だ。 だが、 「もう店仕舞いしようかと」 今夜の営業のことでもあるし、店自体の運営の話でもある。 だが男はどかりと勝手にイスに腰を下ろし、 「そんなこと言われても困るよ。せっかく食料だって持ち込みで用意したんだから。俺は本当に空腹なんだ」 …………。 男は始終柔和で鷹揚な物腰だが有無を言わせない。 過去にも男の注文を満たせず帰してしまったし、これが最後の客の頼みになるなら応えよう。 それに、男の言うように食材まで持ち込んでうちの料理が食いたいと言ってくれるのはありがたいとも思えた。 「時間はかかりますけど、よければ」 「いいよ。出来た端から持ってきてくれ」 その晩は男のために料理をつくり、夜が明けた。 男は十二分に飯代を払い、腹いっぱいだと満足げに帰って行った。 店仕舞いする最後に思い残すことのない客になった。 と思ったのだが、翌日を丸々眠って過ごし、目が覚めたら様子が違っていた。 うちに嫌がらせをしていた飯屋の店主が前夜に強盗に遭い、食料を盗まれ、怪我をしたとかつての常連客が話しにやってきた。 強盗ははじめ食材を売ってくれと持ちかけたが、店主は飯屋なんだから飯を食っていけと断った。強盗はここの飯は気に入らないから嫌だと言い、店主が激高し蹴り出そうとしたところを返り討ちにあい、結局食材は奪われたとのことらしい。 常連客の話を聞いて、へえ、と普通の顔であいづちを打つのが精一杯だった。やはりあの男、荒事師に違いなかった。 「ちゃんのとこは大丈夫だったかい?」 「うん、うちは何もなかった」 「けど物騒だよねぇ。強盗のやつ、去り際にまた来るよって捨て台詞を吐いて行ったって。店主はすっかり縮み上がっちまってるよ」 その後、言葉通りの強盗の再来を恐れた店主は早晩店を畳んで町を出て行った。 店主のことを労る気持ちは持てない。 嫌がらせを受けて以来足が遠のいていた元常連客たちも、それぞればつが悪そうだったり、謝ったり、あるいはまったく変わらぬ顔で戻ってきてくれた。 何だっていい。料理を食べてお代を置いて行ってくれるなら、うちにとっては皆ありがたいお客だ。 しばらくは一人で切り盛りできる分だけお客を入れて、資金が出来たら人を雇った。 さらにしばらくすると父が厨房に戻り、回復した母も店に出れるようになった。 男の三度目の来訪はまだない。 また来るよ、と強盗した店に残した言葉をそういえばうちでは聞かなかった。 けれどまあ、いつかふらりと現れるだろう。 その時はもう食えないというほど大量の料理を運んでやろうと家族三人で話している。 夕飯時、見知った顔が連れ立ってやってくる。 戸が開く音が鳴り、いらっしゃい、と父の大きな声がする。 私は厨房に立ち、手を動かしながら名前も知らない男を待っている。 |