朝起きると喉に違和感があった。

(いがらっぽい)

風邪か? けれど朝稽古でも特に体の重みは感じなかった。
たいしたことはない。
朝食の席で会話を交わした母さんにも気づかれなかった。
問題ない。
いつも通りだ







毎年二学期の期末試験が終了した翌日にはマラソン大会が開催される。
行事の多いこの学校らしいがなぜ勉強でなまった体に突然マラソン? 疑問だ。

ジャージに着替えて校庭に出ると、すでに全校生徒のほとんどが思い思いにストレッチなどしてスタートの時間を待っていた。
12月の薄曇りの空は晴れる気配がない。
今朝は冷え込みが厳しいが走る時はこれくらいの気温が俺は好きだ。
級友の集団の隅で入念に体の筋肉を伸ばしていると背中を思い切り叩かれて一瞬むせた。喉がちくりと痛む。

「日吉!よっ!」

……この声は

「向日先輩…………何ですか」
「何って挨拶!おはよー日吉!」
「…………おはようございます」

挨拶で何で背中強打するんですか。

「マラソン、どーよ」
「どうって何がですか」
「自信あんのかよ?」
「引退してなまってる先輩方に遅れを取らない程度には、そうですね」
「しれっとしやがって!引退したからってなめんなよ」
「客観的な分析です」
「ぜってー負けねぇ!おら、ユーシもなんか言ったれ生意気な新部長に」

引っ張り出されたペアの相方はなぜかグラウンドの上に体育座りしていた。トレードマークの丸メガネがどんより空模様と揃いで曇ってる。
……なにやってんだこの人は。

「ユーシ!」
「……んあ…………どないしたん」
「もーお前気合入れろよ!」
「……………今日………なんでこんな冷えるん………?」
「知んねーよ冬だからだろ」
「……………なんで今日マラソン大会なん………?」
「知んねーよ年中行事だよ」
「…………あかん絶対いけん……期末で最近寝てへんねもん…………走ったらほんま死ぬ」
「死なねーよ立てよ」
「ちょっ、蹴んといて!なにするんこん子はもお!」

向日先輩に言葉通り蹴り立てられて忍足先輩がよろけながら立ち上がる。
……二年のところまで何しにきたんだこの人たち。

「とにかく日吉!」
「何ですか」
「新部長にゃまだまだ負けねーぜ。誕生日だからって花持たせてやるつもりはねぇ。本気で行くぜ!」

いきなり飛び出た単語に面食らった。

「……何で知ってるんですか」

今日は12月5日。
たしかに俺の生まれた日だが。

「センパイなめんなよ!おめでと!」
「おめっとさん。ええ誕生日になるとええなぁ」

片目をつぶって親指を立てる向日先輩と、メガネを曇らせたままの忍足先輩がひらひら手を振って立ち去って行った。
……ほんと何しにきたんだあの人たち。


ピー、と鳥の鳴き声のようなホイッスルが響いて整列の合図がかかる。
空を見上げる。
雲は厚いが、雨はなんとか持ちそうだ。


喉の内側がまたちくりと棘を刺すように痛んだが、たいしたことはない。いつも通り。
顎をひいて背筋を伸ばす。見えない相手と対峙するように丹田に力を込める。


全校生徒参加のマラソン大会はゴールした直後に自分の順位を告げられ、手の平にナンバーを書かれる。
マラソン終了後に生徒会主催のレクリエーションでそのナンバーをつかって人間ビンゴ大会を開催するのが慣例なのだ。
ほとほと行事の好きな学校だ。

生徒会長の跡部さんも表舞台に立つのはこれが最後の機会になるんじゃないだろうか。
あの人のことだ。せいぜい派手に自分の花道を仕上げるんだろう。

3年の列を見るとそここに元テニス部の見慣れた面々がそれぞれ張り切っていたり、寒さに震えていたり、既に眠っていたり、悠然とリラックスしたりしていた。


マラソン大会か。
あの人たちに下剋上を突きつける中学最後の機会になるかもしれない。
吠え面かくのはどっちか楽しみですよ。




マラソンは男女同じ距離を走るのでスタート時に男子と女子にわずかにハンデタイムが設けられる。
の後姿を捕らえたのは走り出してたから20分ほど経った地点だった。
女子の中では大分上位にいるんじゃないか。、何か部活してたのかと思いながら横に並ぶ。

「あ、日吉!」
「調子いいな、
「いや、そろそろ、疲れてきた!」
「そうか。しゃべらせて悪いな」
「日吉は、さすがにこれくらい楽勝?」
「まあ、別に」
「じゃ、こっからだね」
「ああ」
「がんばってね!」
「お前もな」

疲れてきたと言ってはいてものフォームはまだまだきれいなものだ。数学は不得手だが体育はいけるんだな、と追い抜き様に声をかけると、ぶっ、と噴き出し笑いが聞こえた。なんだ?

「ひっ、日吉今日誕生日なんだ!」
「……なんでが知ってる」
「いや、うん。とにかくおめでとう!」
「………ああ」
「誕生日祝いに一位取るんだ日吉!がんばれ!行け日吉!」
「……言われなくても行く」


に限らずさっきから顔見知りを追い抜くたびに誕生日を祝われる。
いったい何なんだ。
自然に眉間に皺が寄るのを感じる。喉がかゆみを訴えるので一度呼吸を乱さないよう咳をした。
走り続けると前方に小さな背中が見えた。
わいた疑問はとりあえずよそに置いて足の回転数を上げる。


「ちっ、きたな日吉!」
「向日先輩、お先に失礼します」
「くそくそ!ジローは!?」
「さっき樺地がおぶってました」
「あいつまだ樺地にメーワクかけてんのかよ!滝は!」
「抜きました」
「ユーシは!」
「とっくに抜きましたよ」
「くそくそ!あと残ってんのは誰だ!」
「宍戸さんと跡部さんです」
「ちくしょー!思っきしなまってんじゃねーか3年くそ!」
「あなたもでしょ」
「あーもーこーなったら全員抜いちまえ日吉!下剋上だぜ!」
「言われなくても」

そのまま一気に抜き去った。

「今日の主役は間違いなくお前だぜ!」

背中に笑い含みの声。
なんなんですか、それは。


呼吸を整える。ピッチを上げる。喉のかゆみを押し殺す。
あと二人。
あと二人だ。









「61位!」
「62位!」

二つの順位のコールがほぼ同時に耳に飛び込んできた。

「どっちが……先ですか」

頭が上がらない。膝に手をついて、並んでゴールした当人へ問うと「俺だ!」と息切れ声が返ってきた。

「……本当ですか」
「うそつく元気ねーよ」

言って宍戸さんはへたりこんだ。

「……負けましたか」
「おうよ。僅差だが俺の勝ちだ」
「………そうですか」
「けど若、速くなったなぁー」
「宍戸さんが遅くなったんじゃないですか」
「ばっか言えよお前!俺をメロドラマ漬けの忍足といっしょにすんな。毎日うちんちの犬と走りこんでんだ。まだお前にゃ負けねーよ」
「……跡部さんは何位ですかね」
「あー何位だろーなー。陸上部がいっからな。ま、10位内には入ってんじゃねーの」
「10位か」

下から見上げる視線が朗らかに笑ったのがわかった。

「焦んなよ。お前、ほんと速くなったよ」

てらいなく褒められた。礼を言おうか迷って、去り際に軽く頭を下げた。

「ありがとうございます」

おーよ、と宍戸さんがガッツポーズを掲げた。
つくづく先輩という言葉の似合う人だ。素直にそう思った。



手の平にスタンプで押されたナンバー62を五指で握りこむ。
実力だ。これが今の。
悔しさはあった。が、まだ息の整わない胸の内には誇らしさもたしかにあった。
去年の俺より間違いなく今の俺は速い。それは当然じゃない。鍛えて磨いた結果だ。
そして来年の俺は今の俺より速くなる。結果を出すために日々を積む。そのための当たり前の努力をする。
毎日が下剋上だ。明日の俺が今日の自分に負けてるようじゃ、あんたらに勝つ日なんざ永久にこないからな。








クールダウンをした後、顔を洗いたくてグラウンドの隅の洗い場に向かうと先客がいた。


「あ、日吉。おつかれー。どうだった順位」
「62位」
「え!すごいじゃん!3年生ずいぶん抜いたんだ!」
「運動部のトップ以外はだいたいな」
「すごい!」
「こっちは現役だからな。引退してる3年相手に威張れることじゃない」
「いやでもすごいってー。そっか、おめでと!お誕生日だし二重にめでたいね!」
「………さっきから疑問だったんだが、どうしてお前が俺の誕生日を知ってるんだ」

お前だけじゃなくて、他にも何人も。中にはこっちが顔も知らない奴でさえ。

「あれ、日吉まだ気づいてないの?」
「は?」
「背中、背中」

笑顔で言われて背中に手をやると、くしゃりと紙の手触りがした。
まさか。
引き剥がして目の前にそれを持ってくると、ルーズリーフに『今日は僕、テニス部新キャプテン日吉若の誕生日です☆ハピバースデイミー!生きてることってすばらしい!下☆剋☆上だぜ!』とでかでかとマジックで書かれていた。

「…………っっっ!!!!!!!!」
「それ、やっぱり部活の先輩とかのイタズラ?」
「向日先輩……っ……!」

やられた。あの時の挨拶だ。何て古典的な……!
紙をぐしゃぐしゃににぎりつぶす。
……………………これをつけてずっと走っていたのか。

「…………死にたい」
「やーだ日吉、笑って笑って!いい先輩じゃーん。生きてることってすばらしい!」
「……………………………よかったな」
「日吉愛されてるなぁー」
「どこが!」

下剋上だ……!卒業までにどんな手をつかってでもあの人たち全員……!

「あ、先輩といえば」
「なんだよ」
「跡部先輩は4位だってさ」
「4位?」
「意外?」
「……いや」
「陸上バスケサッカー野球の元部長たちとほぼ横一列だったみたい。先生から聞いた」
「そうか。……で、お前はいったい何位だったんだ」
「えー遅いよ」
「割ときれいなフォームしてたな。何か体育会系の部活やってるのか」
「うん、陸上長距離」
「通りで。順位は?」
「うーん、1143位」

氷帝の生徒数はだいたい1600。その内男子が1000ちょっと。女子が600ほどのはずだ。

「速いだろそれ」
「いやー男子よりハンデもらってるしねー」
「たいしたハンデじゃなかったろ」
「……でももうちょっといい勝負したかった。抜いてった男子が笑って走ってるの見るとね、体力に差があるのはしかたないけどやっぱ悔しかったな」
「焦るなよ。俺たちにはまだ先がある」

言ってから、あ、これはさっき言われたセリフだと気がついた。ちっ。
けれどは当然そんなことはわからないから神妙な顔でうなずいた。

「そだね」
「ああ」
「あーでも日吉が62位っていうのはやっぱすごいなー!ちょっと見して」

が顔の横で手の平を開いたので、同じように肘を曲げて相手に手の平を開く。
1143と62が向かい合う。

「二桁はやっぱかっこいいなー」
「……一桁のほうが価値がある」
「そう言われると四桁の身の上としてはイラっとくるなぁ」
「事実だろ」
「そうだけど………あ、日吉!」
「?」
「すごい、やっぱりめでたいかも!」
「何が」
「62足すことの1143は?」
「…………1205」
「ご名算!」

パチン、と音をたてての手が俺のナンバーが書かれた手の平を打った。
ハイタッチ? 

「バースデーナンバーだよ日吉。縁起いい!」
「あ……」

改めての手の平の1143と自分の手の平の62を見る。
たしかに、足すことの1205。12月5日。
しかし、

「縁起いいのか?」
「わかんないけど」
「しかもとの合計」
「んじゃラッキーコンビってことで」
「お前と?」
「そーそー。そろばん繋がりのラッキーコンビってことで」
「何でもいいけどな」
「ね、何でもいんだけどね」

へらっとが笑った。
なんでもいいのかよ。

「じゃ、ビンゴ大会でねー」
「ああ」
「あ、そだ、日吉ー」

去りかけたがジャージのポケットから出して見せたのはアメ玉だった。
また、アメ玉だ。

「お前のポケットは駄菓子屋か」
「やだなーアメくらいしか入んないって」
「便利でいいな」
「ほら日吉、」

はアメを四桁のナンバーの書かれた手の平に握りこむと、唐突に振りかぶって投げた。
山なりでなく直線の軌道でアメが飛んでくる。

「! お前、」

顔の真ん前でそれをキャッチする。

「内角高めナイキャッチー!」
「どこが内角だ」
「日吉、前髪長いけどやっぱちゃんとそれ見えてんだねー」
「当たり前だ」
「それ舐めてなよ。今日のは喉アメだから」
「……だから?」

どうした。

「日吉、喉痛いんじゃない? 声風邪っぽい」


は?


「早めに治したほうがいーよ! 日吉、今年からは下剋上される側なんだから。体調悪い時は無理しないでご自愛くださいなキャプテン」
「おい、」
「しょぼくて悪いけどそれ誕生日プレゼントってことで。足すことの1205仲間として、願いましては今年の日吉にいいことたくさん起きるよう祈ってるよ!んじゃっ」

言うだけ言ってが小走りで去っていく。




おどろいた。
なぜばれた。



の背中はもう見えない。
もらった喉アメの包みを切って口に放り込む。
イソジンとハッカがまざったような苦味の後に鼻にぬける爽快感が広がる。


(喉アメだから)

だから?

(声、風邪っぽい)

だから?

(体調悪い時は無理しないで)


だから、なんでお前にばれるんだよ。



「……ご名算」


アメが転がる喉の奥で呟くと殺しきれない咳が出た。






知恵をしぼって

足し引き掛けても

所詮この世は割り切れぬ