願いましては



たしか俺は昨日、就寝前に母親に「計算機どこ?明日学校でつかうんだけど」ときいた。
母親は「今家計簿つけててつかってる。明日の朝あんたのお弁当といっしょにカバンに入れとくわー」と言っていた。

たしかに、俺は言った。「計算機どこ?」
なぜなら俺が欲しかったのは計算機だったので。

しかし、今この手にあるのは俺の求めていた計算機、ではなく、


「日吉、それそろばん?」

いきなり聞こえた女の声にぎょっとして振り向くと、だった。同じクラスの女で、すぐ後ろの席の。

ぎょっとした反動で手の中の物体がチャキッ、と小気味いい音をたてた。そろばんの、目が。

「……見てわかるだろ」

実は俺も今疑っていたところだったのだが。
これはそろばんだ。漢字で書くと算盤。たしかに計算機では、ある。(ある、けど、母さん…!)


「日吉そろばん得意なんだー。うん、なんか似合うよ!」

似合う……?似合うってなんだ。馬鹿にしてるのかは?俺は馬鹿にされているのか?

しかし目の前のの顔は屈託がない。
……自意識過剰か。

「…不得手じゃないが」

別に計算機より早く使える、とか使い勝手がいい、とかそこまでじゃない。そんなこだわり全然ない。
俺は普通に計算機が使いたかったんだ母さん。あのデジタルの。電卓の。簡単なやつ。


「ちょっと手違いがあって」

ほとんど一人言でぼそっと言うとは聞こえたのか聞こえなかったのか(どっちでもいいけどな)首をちょっとかしげた。そして意外なことを言った。


「わたしもそろばんやってたよー。うち、お母さんがそろばん教室やってるんだ。級とかの試験は受けたことないけど、小学校までは毎日生徒さんたちと一緒にパチパチやっててさ」

「……へえ」

「でももう全然さわってないから指動かないだろうな」

たしかにそろばんは一週間触らないとずいぶん指が重くなる。三年もつかっていなければほとんど扱えないだろう。

「せっかく覚えたのにもったいないな」
「だよねぇ。けっこう好きだったんだけどな。キリキリするほど集中して、指を動かすの。精神統一にもよかった気がする」

俺はうなずいた。たしかにそろばんは精神集中には持ってこいだ。
少しでも余計なところに手が触れれば答えがまるで合わなくなるから細心の注意を払いながら速さを競う。
俺は集中しすぎてイライラすることも多いが、そういうときやっぱり答えは合わない。
冷静に対応して正確に体を使う。
これはテニスにもそのまま適応する。

「でもわたし下手だったな。とくに読み上げ算が苦手だった」

読み上げ算は読んで字のごとく、教師が一つずつ読み上げていく数字を耳で聞いて加減算していくものだ。
慣れればたいして難しくない。

「どうして」
「あれ、先生が数字を読み上げるとき、願いましては、って言うでしょ? それ聞くと条件反射で願いごとをつらつら頭で数えちゃって」
「……は?」
「願いましてーはー、チョコ食べたい、みかん食べたい、アイス食べたい、しゃぶしゃぶ食べたい、おせんべい食べたい、大福食べたい……」
「……食べ物ばっかりだな」
「教室がちょうど夕飯前だったんだよね。で、おなかへっててさ……。あ、小学生の時だからね?」
「それで」
「それで、もしその計算があってたら、その願いごとが叶う、って勝手に願かけしてたの」
「せんべいやみかんや大福が食えるのか……よかったな」
「でもいつも集中できなくて間違えてた」
「……残念だな」
「あっ、ちょっ、呆れた顔しないでよー日吉ー!昔の話だってば!」
「願いましては、で願いごとなんて考えたこともなかったな……」
「だから昔の話!」

やだなー!とは笑って頭をかいている。おもしろい奴だ。

数学の教師がガラリと戸を開けて入って来た。
チャイムが鳴って五分以上経っている。ルーズな教師だ。

「遅れて悪かったなー!今日は電卓つかうけどみんな持ってきたかー?忘れてもケイタイはつかっちゃだめだからなー。お前らすーぐメールとかすっからー」

全員の机にはすでに各々大小の計算機が乗っている。
教師の後藤は教室をずらっと見渡して、俺のところで視線を止めた。ああ、やっぱりか。

「日吉ー、気合入ってるなー!懐かしいなーそろばんか!先生も昔やってたぞ」
「そうですか」

気合じゃなくて手違いなんですけどね。

後藤の大声を受けて、クラスのそこここから「そろばんだって」「すげー」と笑い混じりのささやきが聞こえる。くそ。

「お、君澤もそろばんか!このクラスはすごいなー特技もちがいっぱいだな!」

再びの後藤の感心した大声。(特技もちって)
どうやらクラスメイトの君澤もそろばんを持ってきていたらしい。
お前も手違いか……と同情の目を向けると、細い銀縁メガメをかけた君澤が得意気にブリッジを持ち上げていた。

「たいしたことないですよ。僕はこっちのほうが慣れてるので」

そろばんを縦に持って、チャキッと揺らす。

気合か。お前は気合なのか。

「日吉も君澤もすごいな!」

いっしょにしないでくれ。

「じゃー、今日は二人で読み上げ算でもやってもらおうか!そして、間違ってた方の席順から問題当てていくからなー」
「は?」
「僕は問題ありませんよ」
「じゃーいくぞー」

無視か。俺のとまどいは無視なのか。

後藤はジャージのポケットをさぐってぐしゃぐしゃの紙切れを取り出した。

「これ、先生の買い物のレシートなー。スーパー愛川のなー。これ読み上げるぞー」

ジャージで買い物行ってるのかよ。

がんばれ日吉ー、君澤ー、と適当な声が適当に飛ぶ。
ちくしょう。舌打ちして、とりあえずそろばんをかまえる。意地になるほうが面倒だ。

ふとすぐ後ろから、他とは少し調子の違う、「がんばれ」が聞こえた。

一瞬、目だけ動かして後ろを見ると、両手を合わせて目をつぶっている。
数学、苦手なのかは。予習もやってきてないのか。俺から当てられるとまずいんだな。

「いくぞー、願いましてーはー、」

後藤のダミ声。読み上げ算開始の決まり文句。

は、何て言った?
願いごとをつらつら思い浮かべたって?
そんなこと、本当に俺は考えたこともなかった。
せんべいだの、みかんだの、大福だの、そんなこと考えてそろばんの球が自在に動くかよ。


「264円なーりー」

「足すことの562円なーりー」

「足すことの420円なーりー」


しょぼいもんばっか買ってやがる。
三桁の計算じゃあくびが出るぜ。



願いましては、か。
つらつら、よくも浮かぶもんだ。って意外とすごい奴なんじゃないか。



「足すことの684円なーりー」


願いましては。か。

そうだな、願いましては、
テニス部が秋の新人戦で去年より一つでも上へいけますように


「足すことの222円なーりー」


願いましては
もっとテニスが強くなれますように


「足すことの129円なーりー」


願いましては
兄貴たちになんとか今年中に組み手で一泡吹かせられますように


「足すことの72円なーりー」


願いましては
母さんがもうこんなミスをしませんように


願いましては、……願いましては、あと何かあったか。
願いましては……そうだな、ついでだ。願いましては、


「足すことの64,352円では!」


「高!」

君澤の声。
ほんとだよ。スーパー愛川でそんなもん何が売ってんだよ。


「君澤、いくつだー」
「……65,407円」
「日吉はー」
「66,705円」

後藤がちらちらと俺たちを見比べる。
間、もたすなよ。くだらないことで。

「はい日吉ご名算ー拍手ー!」

おおー、とクラスから適当に拍手が上がる。
やめてくれこんなことで。

「日吉、さすが!」

後ろからのはずむ声。

「よかったな。当てられなくて」

振り向かずに言うと、デヘヘ、と笑い声。

「馬鹿にならないもんだな。願いましては、ってやつも」
「え?」
「いや、別に」
「日吉のおかげで命拾いしたよ!ほんと、ありがとー!」

よっ、とかけ声といっしょに視界のすみで手が伸びて、俺の机に小さなアメ玉が乗せられる。

「ささやかですが、お礼です。お納めください!」
「……ほんとに、こんなもんばっか食ってんだな。いつも」
「え?なに?」
「別に」


「じゃー今日は君澤から順に後ろの奴当ててくからなーいいかー」




適当でもついででも何でも、思ってみるものだ。



『願いましては、
が今日の数学で当てられていらない恥をかきませんように。』




この分だと残りの4つの展望も明るそうだ。
俺はアメ玉を制服のポケットにつっこんだ。