「トンボは常に背中に光を受けて飛ぶんだ。だから夜、丸い街灯の周りをバチバチ言わせながら飛んでるのは、街灯の光に向けて背中の羽を打ちつけてるからなんだな」 生物Ⅱの授業で、動植物の生態の講義の派生からそんな話を聞いた。 右斜め前の席の忍足は「難儀な習性やねぇ」と言って芯の出ていないシャーペンをくるりと回した。 後方から「げー痛そう」と向日の声が聞こえた。 私はトンボの顔から遠く離れたあいつのことを思った。 光背反射
放課後うっかり図書室で居眠りをして、下校時刻を大きく過ぎて下駄箱に向かった。 昇降口からまだ少し明るい紺色の空のはしが滲んでのぞいている。 中途半端に眠ったせいで頭はぼんやりしていたが、すっと吹いてくる風はもう秋のもので首から下が一気に目を覚ました。シャツ一枚では少し肌寒い。 下駄箱で上履きの踵に手をかけると、向かいホールををはさんだ保健室の戸が開いていることに気がついた。 何気なく体をずらしてのぞくと、その中に珍しい人がいた。 「あ」 思わず口に出してつぶやくと、保健室の中で一人で処置をしていたその人がこっちを見た。 彼の眉毛がわずかに上がる。 跡部だ。 視線が合ったのは一瞬で、跡部はすぐに目をそらして処置の続きにかかった。 どうやら右手を怪我したらしい。 逆手であれこれいじるのは手間がかかりそうだ。 私は脱ぎかけた上履をそのままに少しの間迷った。 迷って、それから、まぁ、いいか、と上履きを履きなおした。 文句を言われるぐらいは許容しよう。 「おーい」 開けたままだった保健室の戸に手をかけて声を投げると、跡部は眉をしぼって、なんだ、と不機嫌そうな声をだした。 「利き手怪我したみたいだから手伝おうかと思って。下校途中に会ったよしみで」 ずかずか踏み入って跡部の前まで行く。一歩近づくごとに跡部の眉間の皺は濃くなっていった。 「いらねぇよ」 「まあ、でもやってもらったほうが早いよ」 短く言って手を出すと、跡部は少しの間黙って、小さく舌打ちしてからマキロンとガーゼを差し出した。 跡部は昔から弱っているところを人に見られるのを嫌う。極端に、と言ってもいい。 けれど、この場合の時間の短縮と効率の比較。 的確な判断だ、相変わらず。 昔から保健室には消毒液の匂い、それとわずかなほこりっぽさがある。 自宅、ケータイの電話番号、住所にメアドは知っていても、跡部と接点を持ったのは久しぶりのことだ。ましてや直接話すのは。 学校で同じクラスになったこともないし、テニス部とも特に関わりのない私が跡部に対して「相変わらず」などと知った風なことを言えるのは、なんの意外性も面白味もなく、うちのお母さんが跡部のお母さんと昔から親しくしているからだ。 跡部の家はちょっとしたネバーランドっぽい。(もちろんピーターパンの島ではなく歌手の彼のご自宅のほうの) 無駄に広く無駄に華美で無駄に金がかかっている、というのが一庶民の子の私の私見で、これはなんと跡部のお母さんの忌憚のない意見と一致する。 跡部のお母さんは実は下町の人で、跡部のお父さんとはプリティウーマンかくやの恋愛を経て結婚したらしい。(わーお) なので娘時代を共にしたうちのお母さんとは住んでいる家の坪数に関わらず、今でも女学生気分で交友があるのだ。 私も昔はお母さんに連れられて跡部宅で幼い坊ちゃまと鬼ごっこに興じたりしていた。 そう、あのころの私たちは幼すぎた。 幼すぎてあの屋敷で幼児が二人きりで鬼ごっこをする危険性についてはまったく考えもしないで、放浪の末一日半、庭の植え込みで昏睡するハプニングを引き起こしていたりした。(……あのまま死んでたら絶対跡部家の自縛霊になってた…) そういったほほえましい(…か?)交流は私たちが小学校5年になるまで割りと頻繁に続いていた。 それは跡部がテニスに本格的に取り組みはじめたころだった。 そもそも、こどものころから多くの専属家庭教師の先生について習い事をしていた跡部にとってテニスはその中の一つでしかなかった。 わたしもよく覚えているが、跡部がテニスにのめり込むようになったのは、はじめて同い年の子に負けてからだった。 跡部家の跡継ぎとして何事にも期待をかけられていた環境と、こどもながらに自負の高かった跡部は大概の競技や大会において良い成績を収めていた。 生まれもった才能も多分にあったのだろうが、それ以上に彼は努力の人だと思う。(こんなこと言ったら跡部は怒り狂うだろうけど) 氷帝テニス部はこの夏負けた。 クラスのみんなと応援に行ったけど、相手校の名前は忘れた。 跡部の相手はメガネをかけた向こうの部長さんで、なにやら人智を超えた「なんとかゾーン」とかいう必殺技を繰り出していたけれど、跡部自身はその試合に勝った。 エスカレーター式で高校に進学する氷帝では夏がおわっても引退とは名ばかりで、体をなまらせないために部員は夏以前とほぼ変わらず部活に出るらしい。 それにしても跡部が怪我をつくるなんてよほど珍しいことだと思う。 今まで風の噂でもそういう話は聞いたことがなかったし、この間の試合のあと帰るときに、ふと「怪我しないのも選手の実力の内だ」うんぬんとテニス部の、最近短髪になった人に言っているのを耳にしたからそういうイメージがより強くなったのかもしれない。 そういえばそのときの声が少し、殊勝な響きを持っていたことを思い出す。 今回は形だけとはいえ引退をすませたばかりで、後輩の指導に熱でも入っていたのだろうか。 右腕の怪我はテニスコートとの摩擦でできた15センチくらいの擦り傷だった。 傷は浅く、しばらくお風呂に入るときは沁みるだろうけど動かすのに支障はなさそうだった。 跡部は消毒するときも傷をガーゼで押さえるときも別段顔をしかめることはなかった。 「よかったね、浅くて」 処置を終えて、そう言うと跡部は右手の平をグーパーさせて、ああ、と返事した。 「じゃあな」 「じゃあね」 礼がないのはわかっていたので不服はない。 だが、さっさと保健室を出ていく跡部の背中を見て、不意に涙の気配がこみあげてきて自分でもぎょっとした。 「あ、跡部!」 保健室の蛍光灯の潔癖な光を受けた白い背中がふり返る。 無言の顔に特に不快そうな色もないので、思い切った。 「がんばってね、跡部」 跡部は小さく首をひねった。あと一、二年跡部がこどもだったら、きょとんと形容してもいいような顔だった。 しかし今のこの目の前にいる跡部はそういう表現はもう似合わないので、「けげんそうに」から少し警戒を抜いた感じ、というのが一番近いかもしれない。 とにかく跡部は、そのまま「ああ」と低く答えて、保健室から出て行った。 ゆっくりとまばたきをすると目の裏で蛍光灯が赤、青の形のない星になってチカチカと光った。 いつでも背中に歓声やら期待やらを背負っている跡部が、バチバチと見苦しくもがくさまなんか絶対に見たくないと思う。 あんたは一生そのまま努力をし続けてトップにい続けるのがなにより似合うんだ。 だから、常に光を背に受けて飛ぶ、時にはバチバチとうるさく街灯に羽をぶつけて飛ぶあの虫からあいつを連想したなんて、私は一生口にしない。 |