彼女が俺を見ているのに気づいたのはもうずいぶんと以前のことだ。
自意識過剰と言うなかれ。人の気持ちに目ざといのは仕方ない。生まれつきの才能だ。臆病とは言うなかれ。言われなくても知っている。

俺の5メートル後ろを歩いている年下の隣人は、おそらく今足元のマンホールをふんづけて、ついでにスニーカーの靴ひもがしっかり結ばれていることを確認し、もうすぐ顔を上げ、俺の名を呼ぶ。
ひとり言のつもりだったのに、思わず、大声で。








「あっ、雅治くんだ」


ひとり言のつもりで大きな声を出していた。
他に人気のない早朝の路地、声はさえぎるものなく5メートルほど先を行くその人の背中を振り返らせた。


「ピヨ」


鳥の鳴き真似なんだかなんなんだか、昔からの彼の口癖は便利に挨拶めいたニュアンスを含んでいる。


「おはよ!この時間に会うの珍しいね」
「ほーかの」
「高校は朝練休み?」
「おー」
「駅までいっしょに行っていい?」


たすねると、ちろりと目玉の中で黒目だけを器用に動かしてこちらを見やってうなずいた。
その様はまるで物音に敏感な爬虫類のよう…なんて思ったら失礼か。
というか仮にも好きな人に向かっての例えようで爬虫類はないか。
ヘビとか、普通にわたしも苦手だし。
ああでも、ヘビというならこの人が寒いのが苦手なのも道理が合うしぴったりだ。



「なんか」
「え」
「じぃっと見てからに」
「いや、なんでもない。ぼーっとしてた。今日も寒いね!」
「冬は嫌じゃのう」



言って肩を震わせる、割りに雅治くんには防寒の意識が乏しく今朝もブレザーにマフラーをひょいと一巻きしただけの薄着でいる。



「……雅治くん寒いの苦手なのにどうしていつも薄着なの?」
「厚着はテニス部で禁止されとっての」
「え!なんで!?」」
「嘘、嘘。たいぎーだけじゃ」




言って、雅治くんは眠たそうに欠伸を噛み殺した。





雅治くんは中1の時にうちのお隣に越してきた。当時わたしは3つ年下の小学4年。
それから6年弱が過ぎ、雅治くんは高3、わたしは中3と、同じ数だけ年を取った。
いつからなのかは覚えてないけど、気がついたら彼が好きだった。
そのことは多分、わたし自身がその気持ちに気づくより先に雅治くんの方が早く知っているに違いない。


その上でかわすでもなく、蹴飛ばすでもなく人のいい3つ年上の隣人の顔をこなしきっている。
わたしなんていろんな意味で相手にならないのは勝負の前からわかりきっているので、わたしも彼にならって3つ年下の隣人の顔真似をしているという情けない話。


せめてあと3年経ったら…とは実は3年前から思っている話で、つまり3年後も「あと3年」と思ってる進歩のないわたしが容易に想像できる。


だって3年後には雅治くんだってきっかり3年分年を取って、より大人になって、よりかっこよくなってよりモテているに決まっているのだ。
追いつける気がしない。
せめて同い年だったらよかったのに、と叶わないことを思いながら、駅までの道を並んで歩く。

これだけで幸せ、なんて、慎ましいわたし。
なんつって。ただ怖いだけ。保身に必死なあさましいわたし。




「……3年前、雅治くんがわたしの歳のときは何してた?」
「テニス」
「あ、そっか。ずっとやってるもんね、今も」
「いんや、今より必死じゃったな」
「え。今はがんばってないの?」
「いんや」
「えー?」
「そうそう、思い出したわ。の歳は特別やったのー」
「なんで?なにが?」
「友達が病気で倒れての。必死に勝とうとしとったわ」
「……友達のために?」
「泣かせよるじゃろ」



雅治くんは口端だけ持ち上げて笑った。
それだけでわたしは簡単にすべてをさらわれる。我ながら盲目。



「……なんての。青い、青い」
「え?」
「いやなんも。あ、」
「?」
「ええもんめっけた」

制服のポケットに手をつっこんでいた雅治くんは手の平をグーにしてわたしの目の前に持ってきた。



「え、なに」
「じゃんけん、」
「え、」
「ホイ」



かけ声にうながされてホイ、とわたしは思わずパーをだした。雅治くんががグーのままだったから。



「やる」
「え、」


出したままのパーの上にグーの中にいた飴玉が一つころりと落ちてくる。



「あ、え、のど飴……」
「食っとれ」
「あ、ありがと……」
「俺も食っとるし」



言って、自分の舌に乗せた飴玉を一瞬べろりと外気にさらす。


(器用だな……)



思いながら包みをほどいて口に含んで転がす。
キンカンとハッカの匂いが溶け合って、甘い。



飴玉もらって喜ぶなんて5才のこどもか。なんてツッコミながらわたしは何だか涙が出そうになっている。




「飴、ありがと」
「おう」



あーあ。





雅治くんは飴玉を口の中で転がすようにわたしの気持ちをころころと追い立てる。
まったくの無自覚で。無自覚の自覚を承知の上で。
そしていつか溶け細った飴玉をやがて上下の奥歯でカチリと砕く。
寄せられた好意の始末をつける瞬間の判断はいつでも彼のものだ。
それを江戸の昔から惚れた弱みと言うのだそうだ。江戸人も色恋では苦労したんだな。



雅治くんの口の中にある飴玉が解け切る前に奥歯の間で砕かれても、途中で吐き出されたとしても、もしくは不意をついて彼の喉奥に詰まったとしても、わたしが彼を今好きだということは誰にも無駄だと言うことはできない。
なぜならば、解けるまでの甘さを楽しむのが飴の本分だからだ。




「おいしいね」





しばらくしてから雅治くんが、ほーか、と言った。









「……3年前、雅治くんがわたしの歳のときは何してた?」



なんて急にが言い出すものだから、思わず不意をつかれた。



「テニス」
「あ、そっか。ずっとやってるもんね、今も」
「いんや、今より必死じゃったな」
「え。今はがんばってないの?」
「いんや」
「えー?」
「そうそう、思い出したわ。の歳は特別やったのー」
「なんで?なにが?」
「友達が病気で倒れての。必死に勝とうとしとったわ」
「……友達のために?」
「泣かせよるじゃろ」






言いながら、ああ、とうなずく。
3年前の自分。いたのう、あんな奴。

今のと同い年で、今より必死で今よりださかった。いたいた。
懐かしくもない自分の顔が過去の中で文句のある目つきでこっちを見よる。



不意をつかれた勢いで、心がころりと坂を転げる。加速がついて時を下る。



夢想する。

今のと3年前の俺がもし同い年で、隣を歩いていたら。
これが恋に変化することもあっただろうか。



けれど、もしも俺と同い年だったら、この子は決して俺に恋などしなかっただろう。
三年の時差に憧れを透かし見るの目がころころと弾んで笑う。
心の奥を転がって、目の前の女の子が同い年の俺を連れてくる。




あの時。期待しすぎるばかりにそれを恥じて、誰にも見せずにうまく隠したまま一番見つかりにくいところに隠れたまんまのひねくれ者を簡単におびき出す。




そいつは、よう、久しぶり。元気にしとるか、と気のないそぶりで声をかけてくる。
元気にやっとうよ。お前はどうじゃ。たずねると笑われる。
お前には負けんよ。
馬鹿言うな。俺こそお前には負けんよ。
自然と頬がゆるんだ。
悪くないと思った。これは悪くない。
腹の中で空気が弾けるように笑えた。
お前にだけは負けんよ。




3年の時間の向こうにいる自分が、つまらなそうに頭をかく。せいぜい言うてろ。
どーせお前は俺やき、そっちでもスカしとんのじゃろ。恥かく度胸ものうて、適当に引いて笑うて、一目置かれる立場を守って、ブラブラたらたらしよんのじゃろ。




ああ、しよる。
お前とやっぱりよう似とる。
けどそればっかりでもないぞ。




ふーん。ほーか。
ほーじゃ。





にやりと笑われた。
よかったなと言われた気がした。









「……なんての。青い、青い」
「え?」
「いやなんも。あ、」
「?」
「ええもんめっけた」



制服のポケットには毎日飴玉をいくつか仕込んでる。
ほぼ毎日つかわれずに役目を終えるのが彼らの日課で、今朝は忘れるくらい久々の出動だ。
それがなんのためかが知ることはないだろうけど。
知りたかったら当ててみろと鼻で笑いたい気持ちの真裏で、いつまでも当りを引けないこの子がたいそうめんこくて困る。


飴玉をこぶしに握りこんでの顔の前に差し出すと、きょとんと目をまるぅした。
落としたら拾うてやろうか、目玉。



「え、なに」
「じゃんけん、」
「え、」
「ホイ」



はパーをだす。俺がこぶしを握ったグーなので。
もちろん負ける。喜んで譲る。


「やる」
「え、」



手を広げると彼女の手の平に飴玉が落ちた。ナイスキャッチ、というまでもない短い落下距離。



「あ、え、のど飴……」
「食っとれ」
「あ、ありがと……」
「俺も食っとるし」



は素直に飴玉を口に放る。
そんなに素直だと人に殺されるのでいかんと思う。思った後で、どういう意味かと自分につっこむ。別に意味はない。阿呆なだけだ。俺が。5才のこどもじゃあるまいし。飴玉につられてさらわれたりようせん。



「飴、ありがと」
「おう」



生返事してを見ると、なんでか泣きそうになっている。
どしたんじゃお前。
大丈夫、お前はさらわれたりせんき心配いらん。
いや、誰もそんなん声に出して言っちょらん。ばれとらん。知らん。


涙を飲みこむように、の白い喉が細く上下した。



「おいしいね」







……ふと、思う。




もしも同い年に生まれていたら、この子はやはり俺に恋などしないだろう。
と俺に3年の時差があることは、だからきっと幸運なのだろう。


軽く目を伏せ、飴を舌の上で溶かしているは自分の気持ちをとうに俺が知っていることを知っている。
さらには俺がに同じ気持ちを持っていないことも知っている。



けれど、
この隣人を、愛しているのかなとふと思う朝があることを彼女はまだ知らないはずだ。
俺も今知ったので。





「……ほーか」



飴がうまいか。
よかったのぉ。









「……雅治くん?」
「うん?」
「なに笑ってるの?」
「3年前は今もテニスやっちょるなんぞちょっとも思うとらんかったが」
「え、」
「俺って意外に一途じゃのー」



そう言って珍しく屈託ない笑みを見せる雅治くんにわたしの心は簡単に踊る。
……期待するのは、とこっそり胸の内でつぶやく。
期待するのは、馬鹿じゃない。望むだけ望んで結果が得られなくっても、未来の自分に期待するのは決して愚かなことじゃない。
「もしかして」、と「かもしれない」をつないで今日までたどりついたわたしの気持ちを、今のわたしは愛しく思う。



「わたしも!」
「プリ?」
「わたしもけっこう一途だよ!」



雅治くんは一瞬目を丸くして、くるりと笑う。世界を反転させて鮮やかに。



「知っとる」



その笑顔といったら。
確信している。自分のそれが、切り札めいた効力を持っているということに。



「……雅治くんて、ほんと、あれだよね」
「ピヨ?」
「詐欺師だ」



喉奥でかすれる低い笑い声を聞きながら、今日もわたしはこの人の舌先から生まれる言葉の上で簡単に踊る。ころころと単純に、心転がる。







こころころころ