遅くなった帰りの夜道、小走りで歩いていたらふと背後に人の気配がしてぎょっとした。
そのまましばらく歩いているとさらにぎょっとした。背後の人は足音がしなかった。
斜め下気味に振り向くとぼんやりとした足下とサンダルらしきものが見えた。
もう、走って逃げた。
「……で、それが幸村の入院してる病院の前だったって?」
ちゅーちゅーイチゴ牛乳のパックジュースを飲みながらブン太。
「その病院サンダルに幸村って書いてあったの、確かに見たんか?」
焼きそばパンの紅しょうがを器用によけて食べながら仁王。
「マネージャーに会いたかったのでしょうね、幸村くん」
お茶の湯気で雲ったメガネを拭いている柳生。
「そういえば最近、見舞いに行っていなかったな」
つかい終わった箸を懐紙できれいにぬぐいながら柳(懐紙って……)
「幸村……体の出入り自由自在なんだな……」
遠くを見ているジャッカル。
「やばいっスよ!ここまで来るかもしれないスよ、部長の霊魂!」
立ち上がって窓辺に立つ赤也。
「今日の部活は欠席を許可する。幸村に安静にするよう、伝えてくれ」
部室にたまたま活けてあったピンクのバラを花瓶ごと手渡してきた真田。
そこまで言われたらもう、見舞いに行くしかない。
「こ……こんにちは」
恐る恐る個室のドアを開けると幸村はこっちを見て、あれ、と幾分目を丸くした。
「一人?」
「う、うん」
「部活は?真田は何か言わなかったかい?」
「真田は……安静にしていろ、って。あと、これ」
「なんだい、それ。バラ?花瓶ごと?」
「うん、水ごと」
「真田らしいね」
呼吸するように小さく笑って、幸村は受け取った花瓶をベッドの枕元に置いた。
「なにか食べる?リンゴとか、梨とかもらうんだけど中々減らなくて。剥こうか?」
「あ、わたし剥くよ。幸村、よかったら食べて」
「へえ、剥けるんだ?」
「む、剥けるよ」
「まぁ、ケガしても病院だから手当してもらえるけどね」
「リンゴ剥くくらいでケガしないし!」
クスクスと笑う幸村の喉が白くて、見てはいけないものを見てしまった気がして急いで目をそらした。
リンゴ。果物ナイフ。集中しろ、手元に。
「リンゴ、ウサギにしてくれる?」
「あっ」
「……あーあ…………」
「…………幸村がウサギとか言うから……!」
早速手を切った。
「俺のせい?」
言いながらクスクスと白い喉を震わせている。
わたしは血の滲む左手の親指にティッシュをあてがって、でもそんなに深くないのでそのままリンゴの皮を剥いていく。
「あとで絆創膏もらいなよ、ナースセンターで」
「そうする……」
幸村はついと窓の外に目を向けた。ので、わたしも手元に集中することができた。
「今頃みんな部活やってるんだろうね」
「うん、真田がよくやってるよ。やりすぎってくらい。幸村が帰ってくるまでは自分がちゃんと部を守るんだ、って。 ブン太とか仁王とかにはやっぱり手ぇ焼いてるけど」
「あの二人はそれも持ち味だから。押さえつけてプレーでイライラしたら元も子もないしね」
「あ、でも赤也はちょっと調子のってるから帰ってきたらシメてやって。あいつジャッカルいじりすぎ」
「わかった。柳や柳生は?」
「あの二人も変わんないかな。相変わらず勉強も上位十番内キープしてるし。あっ、この間柳生の頭に蝉が止まってすごいパニクってた。殺生はいけません!生け捕りにしてください!て言いながら走ってた。で、みんな逃げながら笑った」
「ははは」
幸村も笑った。
「は?」
「わたし?」
「元気にしてる?」
目の前にいる通りですが。
「元気だよ」
「そう。よかった。はあまり顔を見せないからどうしてるかと思ってた」
部の中で一番見舞いに来た回数が少ないのはわたしだ。
真田にはそれでよく怒られたし、柳生にもそれとなく注意された。
幸村はその理由を多分絶対知ってると思う。ばれてる。
「……ごめん」
「いいよ」
孫でも見るような目で幸村がにこ、と笑う。
幸村には全部ばれてる。
「……幸村は?」
手術も終わって、術後の回復も順調で、全国には間に合うと聞いている。
けど、今ベッドの上の幸村は本当にあと一、二週間でコートに立てるとは思えないくらい白くて細い。
「元気だよ。約束どおり、全国には間に合わせる。あと少しで退院するよ」
「本当に?」
「本当に」
「……うん」
「うん?」
おかしくもないのに首をひねって笑って。白い首に青い血管が浮いて見えて。紛れもない病人。
見たくない。わたしが見たくなかった幸村だ。そして幸村自身、恐らく誰にも見せたくなかったであろう幸村だ。
彼は全国でもトップのテニスプレイヤーだった人で、これからまたテニスプレイヤーに戻る人だ。
全国のトップに。そこにまた戻っていこうとしている人だ。
こんなに細くなった腕で、白くなった首で、前の自分より強くなる自信が本当にあるのだろうか。
聞けるわけがない。聞いたところで幸村はうなずくだけだ。自信がなくてもうなずいて、そのための努力を実行するだけだ。
手術に対する不安とか、リハビリがどれだけ辛いとかそういうことの一切をこぼさなかった、それが幸村のやり方なんだ。うちの部長の、戦い方だ。
「幸村が死ななくてよかった」
切り終えたリンゴをどうにかウサギしようと苦労しながらつぶやいた。
幸村は一瞬弾けたように声を上げて笑った。
「大丈夫。俺は死んでもみんなのそばにいるからね」
正直それはちとコワイ。ので、
「出来るだけ生きてて下さい」
と言った。
幸村はわたしの手から出来上がったばかりの不恰好なウサギと果物ナイフを静かに取り上げて、ゆっくりとした動作で自分の肩口にわたしの頭を引き寄せた。
「じゃあ、出来るだけそうすることにするよ」
生きるのも死ぬのもまるですべて自分の決断でとでも言うような口ぶりをするので、わたしには君が少し神様に見えた。
幸村の肩はすっかり薄くなっていた。けれどきっと、それももう少しの間だけのこと。
小部屋の神様
「そうだ、今日はあまり遅くならない内に帰ったほうがいいよ。昨日みたいな時間に女の子が一人じゃ危ない」
「………(やっぱり)」
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