「ちょっと、あんたちょっと大変よ」 お母さんが声をかけてきたのは夕飯後のおやつに切り分けたパウンドケーキを食べようとした時だった。 「なにお母さん」 お母さんが「ちょっと」と2回も言う時はかなりめんどくさいことが起きた時だ。私は身構える。 この町で過ごす最後の夜くらい穏やかにおやつ食べて健やかに寝たいんだけど。 「岳人くん、家出したんですって」 「は? またお父さんとケンカ?」 岳人が岳人のお父さんとケンカするなんてよくあることで、家出するのもたまにあることでそんなに血相変えるほどの修羅場でもない。 明日は日曜だし、家出ったってどうせ友達の家に泊まって明日の昼過ぎには戻ってくるでしょ……と思ったところで、ああ、と私は肩が重くなる。 明日うちの一家は朝一番でこの町から引っ越すのだ。 早朝なのでと親は遠慮したらしいけど、家族ぐるみで仲の良かった向日一家が見送りをしてくれることになっている。 岳人がそれまでに帰らなければ最後に顔を見ることもなく距離にして数百キロ別れることになる。 「ううん、今日はお父さんとそういうことはなかったそうよ。……、岳人くんとちゃんとお別れできないの、嫌でしょう?」 お母さんはまるで私と実の弟がケンカ別れするのを見てられないとばかりに困った声で言う。 岳人は私の弟じゃないし別にケンカもしてないんだけど。 ただ引っ越しが決まったのを伝えてから今日までろくに話ができてないだけで。 「いつもの友達のところじゃないの?」 「向こうのお母様に連絡したけど今日は来てないって」 「スマホは?」 「出ないみたい」 じゃあもう、 「探してくる」 しかない。 パウンドケーキ置いて立ち上がるとお母さんがコートを持ってきてくれた。準備が早い。 午後8時、12月。あたりはもうとっくに暗く沈んでいる。女子中学生が一人で歩き回るには防犯上よろしくない。 愛犬チャッピー(秋田犬・雄・6才)の首輪とリードを用意すると、チャッピーは呼ばずとも私のもとに来てくれた。 「チャッピー、引っ越す前にお散歩が一回増えちゃったね」 玄関を出て話しかけるとチャッピーはすべて承知しているとばかりに黒い鼻を夜空に向けた。 その方角の真上に月が出ている。満月に少し足りない楕円の月だ。今日はいつもより白く見える。 岳人が家出するなんて別に珍しいことじゃなくて、同じ学校の友達のところに転がり込んでるのだって母親同士はちゃんと連絡とって知ってるし、私も今更何とも思わない。なんならお泊り会楽しそーとちょっと思うくらい。 でも昔、岳人に転がり込める友達ができる前、まだ私たちがもっと子どもだった頃岳人が家を飛び出した時は大人も私も血相変えて心配した。岳人の家の人とうちの一家も全員で町を探し回った。 チャッピーはその頃まだうちに来たばかりの子犬で、私の胸に抱かれながら何が起きているんだろうと人間たちの様子をじっと眺めていた。 結局岳人は町内の公園の宇宙船のような遊具の中にいて、怒り疲れたのか泣き疲れたのか寝入っているところを私とチャッピーが見つけた。というか遊具の脇を通り過ぎようとした時に「ウォン!」とチャッピーが鳴いて知らせてくれたのでほぼチャッピー一人のお手柄だ。 なんて賢いチャッピー。まだ生後何ヶ月かのほんの子犬だったのに。 そんなことがあってから、岳人の家出が保護者公認の下安心して行われるようになるまでチャッピーと私が岳人を見つける役目のようなものを担ってきた。もちろんみんなで探すんだけど、チャッピーの鼻には誰も適わなかったし、チャッピーといつも一緒にいるのは私だったから必然的にそうなった。 中学に入ってしばらくすると例の転がり込める友達ができて岳人の家出にみんなが慌てることもなくなった。 チャッピーと私が岳人捜索に出動するのも3年ぶりくらいだ。 しかしチャッピーの鼻が岳人の匂いを忘れるはずもない。 うちに来てから家族の次に会っている人間の匂いなのだから。 チャッピーの足取りは揺るぎなく町内の公園に向かっている。最初に岳人を見つけた時の公園だ。 まあ、いるならばそこだろう。こんな風に引っ越し直前の幼馴染を呼び出すように家出するのなら、見つけてもらわないと意味がない。 スマホもラインもある時代に、話がしたけりゃ10秒で相手を捕まえることが出来る世界でどうしてこんなに面倒な方法を選ぶんだろう、岳人は。 チャッピーは公園内の宇宙船の遊具の前でぴたりと足を止める。 私は遊具に空いた横穴から顔をつっこんで呼ぶ。 「岳人」 「よう!にチャッピー。はやかったな!」 「チャッピーの鼻をなめんなよ」 「なめてねぇよ。見込んでこそだっての」 「なんでこんな夜に呼び出すのー」 「お前が勝手に来たんだろ?」 「見込んでこそって言ったじゃん」 「まぁな。言ってるな」 岳人は認めて肩を揺らして笑った。 そして寝そべる様に体を収めていた遊具から勢いよく飛び出し、数メートル離れたジャングルジムの中段へと着地した。 「相変わらずめちゃくちゃだな……」 「なーにがめちゃくちゃだ。見事だろうが」 「見事っつーか身軽っつーか」 同意するかのようにワホン、と鳴いてチャッピーが地面に伏せる。 「それで、もう私と話してもいい気になったの」 「ああ、いいぜ。明日になりゃ嫌でも話せなくなっちまうからな。しかたねぇ」 「あーそー」 「よかったな、引っ越す前に俺と話せて」 「そうだねー」 岳人はジャングルジムの上でひょいひょい飛んで地上を見もしない。 月に照らされた岳人の影が私とチャッピーの足元で小鬼のように踊っている。 引っ越すことを伝えてから何で今まで口をきいてくれなかったの、とかその割に別に全然普通じゃん、とかそういうことは聞きたくないし言いたくないし、12月の8時過ぎ、こんなに暗くて寒くて、チャッピーの鼻は黒く光って、白い月の下、ジャングルジムのてっぺんで岳人はずっと宙返りしてる。 じっとしてるとしびれるように足の先からかじかんで感覚がなくなってくる。 帰ろー、って言えばすぐにもあの頂上から地面までひとっとびで降りてくるんだろうな、あの身軽な体は。 でも自分から帰ろうぜとは言わないんだろうな。 そういう奴だから。 だからチャッピーと二人、ずっと岳人の宙返りと、足元で踊るその影を見てる。 岳人に家出した時転がり込める友達ができてよかった。 私だってチャッピーだって、永遠に岳人の捜索隊出来るわけじゃないから。 でもあんたが見つけに来いって言うなら、めちゃめちゃめんどくさくたって、おやつを食べ逃したって、明日の朝4時起きだって、行くからさ。 「あんたはチャッピーの鼻が捕まえられるところで待ってなよ」 「何だ?何か言ったか?」 「言った」 「なんだよ」 「チャッピーは賢い犬だから」 「おう。チャッピーは賢いぜ」 「あんたの匂いは忘れないから。何年離れても、何百キロ離れても、あんたが昔みたいに当てのない家出をしたらきっと見つけ出せるから」 「……ああ」 「その時は待ってなよ」 岳人はいつの間にか飛び跳ねるのをやめ、ジャングルジムの一番上に立ってこちらを見ていた。 そして空中に身を投げ出し、頭上高くにあった月を隠すように伸びあがり、一回転、二回転して地上に着地した。 「待ってるぜ。必ず来いよ、お前ら二人で」 うん、と私は頷き、チャッピーはワフと鳴く。 公園の出口の自販機で岳人はホットウーロン茶を二本買って一つを私によこした。 「チャッピーには明日の朝餞別に犬チュールやるからな」 「え、用意してくれたの」 「当然。あとお前んちにはからあげ」 「からあげ?」 「明日んちの昼飯に持たせたいんだってよ、うちの母親」 「おばさんやさしい……好き……」 「からあげで気持ち持ってかれすぎ」 「明日泣くかもね、うちのお母さんとおばさん」 「かなり仲良かったからな」 「まぁ長い付き合いだから」 「だな」 「帰ったら早く寝なきゃ」 「俺も。あっ」 「ん?」 「越した先でテレビの配線とかケーブルの処理に困ったら言えよ、見てやっから」 「出来んの?」 岳人は親指で自分を差して顎を引く。 「電器屋の息子だぜ」 「そうだった」 |