「チーズー、おーい」
「チーズー!」
「チーズ、出といでやー」

姿は見えないが周囲のそこここから皆の声が聞こえる。
それに応えてワンッ、ワンワンッ、とはしゃぐ犬の鳴き声が響くけど、こっちもやっぱり姿は見えない。
うーん、今の鳴き声の感じからすると追いかけっこを楽しんでるな、チーズ。
前脚を沈め、しっぽを高く上げて皆を遊びに誘うご機嫌なチーズが目に浮かんでつい笑ってしまう。
犬は飼い主に似るというけど、チーズにとって初めて訪れた跡部家の広大な庭でも物怖じせず突っ走っていくのはいかにも宍戸の飼い犬っぽい。

「チーズー、迷わない内に出ておいでー」

私の声も部員たちに届いてるんだろうなぁ、と思っている内、ワンッ、ワンッ!と返事がする。
意外と近くにいるみたいなんだけど、庭が広すぎてどの方向にいるのか判断がつかない。
追いかけっこというより、かくれんぼだな、これは。
ふと視線を上げると視界いっぱいにピンクと言うには淡すぎて、白と言うには艶やかな花びらが無数に集って揺れている。

満開の桜だ。

見渡す限りに桜の木が植えられた広大な庭は、それでも跡部邸のほんの一角だというから驚きだ。
跡部の家には何度か部員たちとお邪魔したことがあるが、桜の季節には初めてだ。
今日は先日中等部の卒業式を終え、休む間もなく自主練に明け暮れていたテニス部元三年を労おうと跡部が花見を兼ねた慰労会を開いてくれたのだ。

一通り桜を見て回った後で庭園に設えたテーブルセットで食事会を、という運びだったのだけど、宍戸と一緒に参加していた愛犬チーズがはしゃいでリードごと飼い主の手を離れ、庭の奥へと走って行ったのが十分ほど前のことだ。

宍戸は「悪ぃ!すぐ捕まえる!」と言い残しその後を追った。
のどかで微笑ましい脱走劇にみんなで笑った。
門扉は閉まっているからチーズが道路に出ていってしまう心配はない。
宍戸に続き、手分けして探すか、と私たちも捜索隊となり散り散りに広大な庭を進んでいる。のだが、行けども行けどもひたすらに満開の桜が続く他は目印になりそうな当てもない。


チーズより人間の方が先に迷子になりそうだな……いざとなればスマホで連絡取れるけど、「迷った!」と跡部に電話したとして自分がどこにいるかわからないのに見つけてもらえるだろうか、と不安がよぎる。

「チーズー、跡部んちのコックさんが犬用ランチつくってくれてるらしいから早く出ておいでー」

呼びかけると、ふと応えるように左手の木陰からガサ、と物音がした。

「チーズ!?」
「あーン?」
「……跡部か」
か。チッ、生き物の気配がしたと思ったんだがな」

木陰から出てきた跡部と顔を合わせ互いに首を振る。

「生き物の気配、間違ってはないけどね」

私も生き物なので。

「チーズを見たか?」
「見てない。鳴き声はけっこう近くでする時もあるんだけど」
「部員どもを手玉にとって走り回ってやがるな」
「楽しそうにね」
「宍戸のやつ、賢い犬を飼ってやがる」

跡部は機嫌良く笑っている。
犬好きなんだな跡部も。

「思う存分走って満足したら戻ってくるかも?」
「それまで付き合うつもりはねえ。腹も減るしな」

たしかに、と私は頷く。
跡部んちのコックさんがつくってくれるランチはもちろん私たちにとっても今日の楽しみの大きな一つだ。
そのために朝ご飯を抜いてきたので、今お昼を少し回った程度だがお腹はかなり減っている。

「ついて来い」

跡部は私の先に立って歩き出す。

「え、手分けした方が早いんじゃないの」
「迷子みてーな顔してたくせに言うじゃねぇの。二重遭難で食事が更に遅くなるのはごめんだ」

おお。不安バレてた。さすが部長。いや元部長。
はははと笑って私は跡部の後ろについていく。

「あんまり広いからさ、実はさっきみんなと別れた場所に戻れるか心配してた」
「仮にさっきの解散場所に戻れたとしても全員移動してるから誰もいねーがな」
「あっ……」

ほんとだ……!?

「…………(マジで迷子だったんじゃねーか)」
「……いやでもそしたらみんな大丈夫かな?集合場所決めてなかったけど」
「いざとなればうちの犬に探させる。お前らの匂いは覚えてるからな」
「あー、そうだ跡部んちも犬飼ってたね。あのきれいな子……。あ、そしたらその子にチーズ探してもらったらいいんじゃない?」
「初対面のうちの犬にビビッてチーズがさらに逃げる可能性もあるだろう。大人しいやつだが、犬同士の相性は会ってみなけりゃわからねーからな。」
「あーなるほど」

以前お邪魔した時に一度会ったことのある跡部の愛犬を思い出す。大きくてきれいな犬だった。たしか名前はマルガレーテちゃん。大人しくていい子だった。
マルガレーテちゃんに探してもらえるなら私も迷子になってもいいかも……と思いかけるが、マルガレーテちゃんにご足労をかけるのも申し訳ないので跡部とここで会えてよかった。


「しかしこの桜、本当にすごいねぇ。改まってお花見なんて中学入ってからしてなかったから感動するよ」
「そうか。そりゃよかったな」
「立派な桜の木ばかりだけど、これ全部跡部のお父さんやおじいさんが植えたの?」
「祖父だ。祖母が桜が好きでこの庭を改装したらしい」
「すごい。愛妻家なんだ、おじいさん」

自分のために庭いっぱいに桜を植えてもらうなんてどんな気分だろう。

「ロマンチストではあるな」
「それでこんなにきれいに咲いてるのかもね。桜もおばあさんのために」
「お前も大概ロマンチストじゃねーの」

は、と跡部が笑った。

「春が私をそうさせるんですよ……」
「気味が悪ぃな」
「おい」
「口も悪ぃな」
「それは跡部に言われたくないわ」

それこそあんたも大概だ。

「でも、こんなに家に素敵な桜があったらお花見し放題でいいね。毎年楽しみでしょう」
「イギリスに住んでた頃はわざわざこの時期に帰国することもあったが、今は別段自分の家で勢い込んで花見もねぇな。祖父母のティータイムに付き合うくらいだ」
「え、そういうもの?家族やおうちで働いてる皆さんとお弁当広げたりしないの」
「両親は海外にいることが多い。家の事を任せてる連中も長く勤めてるからこの景色も今更だろうな」
「そうなの」


特別お花見という行事にしなくても生活の一部になっているということかな。
でもその方が余程特別な桜との関わり方かもしれない。
春先に庭を通るたび、膨らんでいく蕾や一番早く花を咲かせた枝に気づくのはこの家を居場所にする人たちの特権だろう。

「いいお庭だね」

跡部は嘆息し、頷いた。

「そうだな」
「? 自慢の庭じゃないの」
「確かにいい庭だが俺の庭じゃねぇ」
「跡部んちの庭じゃん」
「ああ、俺の家の庭だな」
「? ? ?」
「……鳩が豆鉄砲食らったような、ってのはそういう顔を言うんだろうな」
「いや何言ってんの跡部」
「俺の家の庭だが俺がつくった庭でもつくらせた庭でもねえと言ってる。自分の力で得たわけでもねえのに自慢するほど阿呆じゃねえよ」
「はあ…………」
「…………なんだ、その顔は」
「いや…………だってそりゃ私たちまだ中学生……あ、もうすぐ高校生だけど。未成年だし」

何もかも親がかりと言えばそれまでだ。
でも別に誰かが自分の家のことを胸を張って話したって、それ親の力でしょなんて思わないよ。
普通にすごいなとか、いいなーって思うけど。
まあでも、跡部はそういう、生まれ持った家柄とかより自分自身に寄って立つ力を自負しているんだろう。

「そっか」
「…………何一人で納得顔してやがる」
「えー? 豆鉄砲だのなんだのどんな顔してても跡部は言うことうるさいなー。私のことは気にしないで」
「隣にいりゃ嫌でも目に入る。…………別にお前の顔に注文つける気はねぇから安心しな」
「それはよかった、これでも親からもらった大事な顔なんで」

跡部はちらと私を横目で見、肩をすくめた。

「違いねぇ。目でも耳でも、どこをとってもお前の名前が書いてあるみてぇないいツラだ」
「えっっっ」

私は驚いて立ち止まる。

「…………あーン?何、呆けてやがる」
「いやなんか今褒められた?よね?」
「褒めたら何かおかしいのか」
「私3年間で初めて跡部に褒められたよ!」
「ああ?そうだったか」
「そうだよ!よくわかんないけど、ありがと!」
「…………ああ。そりゃ、どういたしまして」

跡部はぽつんとらしくないことを言って私に向き直る。
それが何だか困っているような顔に見えて、私は吹き出して笑ってしまう。

跡部は私の笑いが収まるのを辛抱強く待っていたが、やがて

「何がそんなにおかしい。いい加減その横隔膜を黙らせろ。宍戸の犬を探すんだろうが」

と舌打ちをした。
それがスイッチだったかのように、はー、と大きく息が抜けて、私はやっと笑い止んだ。
そうだ、チーズを探さなくては。





桜を見い見い、チーズの名前を呼びながら歩いていると、前方に大きな切り株が見えてきた。
絵本の中に出てくるような立派な切り株で、幹があった頃はどんなに立派な枝を広げていただろうと想像させた。
何となく気を引かれて切り株に向かうとそれに気づいた跡部が教えてくれた。

「根を悪くしちまってな。それでも随分持ったんだが、去年どうにもならなくて処置した」
「これも桜だったの?」
「ああ。この家で一番古い桜だと聞いてる」
「おばあさんのためにおじいさんが植えた桜より前からあった木?」
「らしいな。最初はこの一本だけがここにあったらしい」
「年輪がすごい。立派な桜だったんだろうね」
「見事なもんだった。こいつにはガキでも足が届く位置に枝があって、昔よく登って世話になった」
「木登り、跡部もやるんだ」
「4つだか5つだかのガキの頃の話だ」
「へえ」

切り株の脇にかがみ、年輪を広げる断面をそっと撫でる。
陽を受けて温かい。
切られてなお息づく桜の体温のようだ。

「木の上から何が見えた?」

そう聞いたのは変わった答えを期待したわけではない。
小高い丘に建つ跡部の家の、その庭に伸びた大きな木の上からどんな景色を子どもだった跡部が見ていたのか、今の跡部から昔話として聞きたかっただけだ。
だから返った答えには驚いた。

「未来」

え、と跡部を見上げる。
真顔だ。


「………………」
「………………」


沈黙が目でかち合って数秒、跡部が口の端を解いて破顔した。

「バーカ、今笑わないでどうする」
「え」
「さっき散々笑っておいて、読めねぇやつだ」

冗談……いやそりゃそうだけど。
跡部は冗談みたいなことをいつも本気で言うしやる人だから、一瞬何なのかと思った。
未来。
未来ね。
あ、そう。冗談ですね。

「楽しい冗談」

はははと平坦に笑うと、跡部はふんと鼻を鳴らしていつもの不敵な顔に戻った。
ふと、その背後で木陰から急に何かが飛び出してきた。

「あっ」
「ああ?」
「チーズ!」

名前を呼ばれたチーズは機嫌よくしっぽを振りながらこっちへ近づいてくる。

「よーしよし、チーズいい子いい子……おいでー」
「焦るなよ」
「わかってる」

チーズは足取り軽く、より近くへ走ってくる。
よし……!今!
その毛並みに触れそうな距離になったところで抱きとめようとしたが、チーズは寸前で私の腕を交わして踊るようなステップで遠ざかった。
つんのめって膝から地面に転ぶ。

「チ、チーズは!?」
「あそこだ」

跡部が顎で示した10メートル先の木々の間にチーズの笑顔と揺れるしっぽが見える。この一瞬であそこまで……!? あの俊敏な動き、

「チーズが宍戸に見えてきた」
「スタミナがあるのまで似てやがる」
「もうちょっとだったのにー」

土を払って立ち上がる。

「怪我は」
「ないない」

手を振って跡部に答えると同時にざあっと音を立てて風が鳴り、いっせいに花びらが降りてきた。
目に見える世界いっぱいに桜色の小さな舟が流れていくようだ。

「すごい、寝っ転がったら花びらに埋まりそう!」
「埋まりてえのかよ」
「桜の木の下には死体が何とか、的な……なんだっけ」
「坂口安吾」
「それだ。読んだことないけど」
「死ぬにはまだ早いんじゃねーのか」
「死なないよ、あと80年くらいは元気」
「ハッ、長生き結構なことだ」

話している間にも二陣、三陣と風は吹き、花びらは私たちの上に降りてくる。
木登りをした幼い跡部も、桜の中でこんな景色を見ただろうかとふと思う。

「今も木登りすればいいのに、跡部。けっこう絵になるんじゃないの」
「は、冗談。今はこの身の丈から見える景色で十分だ。もう背伸びするほどガキじゃねぇよ」
「未来はもう見なくていいの」

さっきのネタを振るが跡部は堪えた風もなく笑んだ。

「自分の未来なんざとうにわかってる」
「え、どういう意味」
「何が見えようが変わらねぇってことだ」

良かれ悪しかれ、自分の人生ということか。
たしかに跡部ならどんな人生でも敢然と胸を張り堂々と生きるのだろう。
来年も、その翌年もどこでどう過ごしていたとしても跡部らしく春を迎えて送るのだろう。
小さな子どもの足を支えて頂上へ招いた桜の枝は今はもうないし、成長した跡部は木に登らない。
そうして、たとえばあと80年、80回の春を見送って私も年をとる。切り株になった桜のように、いつかはいない人になる。
想像する。
正直今はよくわからない。でも、

「80年くらい先の話だけど、いつか死ぬ時は跡部に看取られたいかも」
「なんだそりゃ、死が二人分かつまでか?ハッ、口説いてるのか?」
「いや跡部を口説くとか無理、荷が重いって」
「殊勝な物言いじゃねーの。らしくもねぇ」
「何となく、死ぬ時跡部がいたら怖くないというか大船に乗った気で往生できるような気がして」
「あーン?お前の往生際は悪そうだがな。ま、元部員のよしみで引き受けてやってもいい。うちの桜の下には埋めねーがな」
「やった。そしたら跡部も長生きしてね」
「俺様の寿命の心配するなんざ百年早ぇ」
「まー跡部300年くらい普通に生きそうだしね」
「当然だ」
「じゃ、よろしく。長生きする楽しみが出来たよ」

花びらが降る中、腕を上げて伸びをする。
適当で簡単な口約束。だけど何だか本当にそうなったらいいなと思えた。



跡部が私を呼ぶ。
伸びをしたまま振り向く。

「安心しな。お前は百才を過ぎても病気一つしねえ婆さんになって天寿をまっとうする」
「え、跡部が言うとなんか本当になる気がするな。ありがとう」
「ああ、何しろ未来を見たからな」

「え」


「…………」
「…………」


バーカ、とさっきみたいに笑うだろうかと待ったけれど跡部は真顔のままでいる。






チーズが見つかったと遠くで声がする。あれは宍戸の声だろうか。


声が上がった方に跡部が目をやった。

「捕まえたらしい。行くか」

「……うん」


踵を返す跡部の背中に桜は無数の花びらを降らせる。
まるでこの庭から育っていった子どもの成長を喜び、終わらない祝福を捧げるように降り続ける。
返事をしたのに動けないまま私はその光景を見ている。
何てきれいな春だろう。







君に桜の降りつもる