最近では月に二度くらい、真田くんの部屋にお邪魔させてもらうようになった。 彼の部屋はいつも綺麗に整頓されていて、ほこり一つ見当たらない。ここで本当に人が寝起きをしているのだろうかと驚く。しかも中学三年の男子が。 何度注意されても一向片付かない私の部屋を見たら別の意味で驚くだろうな……とわかるので、反対に真田くんを私の部屋に招いたことはまだない。その予定もない。 家族に真田くんを何と言って紹介したものか迷うし。 というか、私自身真田くんが私にとって何者であるのかいまいちわかっていない。 二年の時のクラスメイトで、それほど親しかったわけではないけど顔を合わせば挨拶をして、たまに委員会の相談なんかをして、時々友達とテニス部の練習を教室の窓から見学していたくらい。 時に鉄拳制裁が行われると噂される立海テニス部は見ているだけで背筋が伸びるほど厳しくて、真剣で、だからこそ楽しそうでもあって、同い年の男の子があんなにがんばっていてすごいなーと思っていた。 そんな友達と言うのもはばかられる元クラスメイトだ。だったのだが、三年になって別々のクラスになり接点もなくなった今年の六月、図書室で友達の部活が終わるのを待つがてら勉強していた時、真田くんに声をかけられた。 居残って勉学に励むとは見上げた向学心だな、と真田くんらしいかたい言い回しで、それが少し懐かしくてうれしくて、向学心というより暇つぶしだよ、と笑って返した。 実際私は自分の成績にあまり興味がなかったし、勉強自体好きでも嫌いでもなかった。 やりたいことや上達したいことがあるわけじゃないから、何となく目の前にあることをやってるだけ。 真田くんみたいに真剣にやりたいことをやってる人のこと尊敬するよ。 と言うと真田くんは少し黙った。そして沈黙を咀嚼する、といった間を置いた後で言った。 「敬われるに値することなど何もない。これは俺の業といったものだろう」 業。という言葉の強さに面食らっていると真田くんは邪魔をした、と言い残し去って行った。業。意味は知ってるけどつかったことないし、身近でつかってる人を聞いたこともない。 今思えば、あの時、真田くんに「向上心がないとはたるんどる」と言われてもおかしくなかったし、どこかでそう言われたい気持ちもあったのかもしれない。 私は本当にたるんでいるし、でもたるんでいるのが好きだし、出来れば一生楽しくたるんで暮らしたい。 だからこそ自分とまるで違う努力と鍛錬の化身である真田くんを尊敬してるし、ぴしっと言われたかったんだろう。 都合のいい時だけ軽く渇を入れてほしいなんて、失礼だったなと反省している。 と、真田くんが両手に湯飲みを持って部屋へと帰ってきた。 何も言わず、ローテーブルにそれを置く。 客用なのだろう、この群青の小ぶりの湯飲みにも今では愛着がわいた。 六月の図書室でのやりとりから三ヶ月後、二学期が始まってから真田くんに廊下で突然「今度うちへ来ないか」と声をかけられ、え、と驚き、驚きながら「うん」と頷いた自分になお驚いた。 六月以降それが初めての会話だったし、前後の脈絡も、理由も何もなかった。 そうして九月に真田くんの部屋に来て、その後も同様に招かれ十、十一月が過ぎ、十二月になった。 真田くんの部屋で私たちはとりあえず互いに共通するわずかなものである学校の勉強をしたり、それぞれ近況なんかをぼそぼそ話したり、無言のままに時間を過ごしたりする。 とはいえ、元々友達ですらなかったような関係なので会話も弾まないし、私は何をやっているのだろう……部屋にまで上がりこませていただいて……と湯飲みの緑茶の中に見えない茶柱を探すような心持ちになる。 なのに、真田くんに「うちへ来ないか」と声をかけられれば毎回「うん」と頷いてしまう。 私は真田くんが好きなのだろうか? あるいは、真田くんは私を好きなのだろうか? という問いは常に頭の片隅にあるにはあるが、どちらにしてもよくわからない。 部屋に行くくらいだからもちろん嫌いではない。 部屋に呼ぶくらいだから恐らく嫌われてはいない。 けど真田くんはそれらしいふるまいや言動をまったく見せないし、そもそもそんな思春期然とした下心がある人には見えない。 私もそうしてほしいと期待しているわけでもない。……と思う。多分。でももしかしたら少しはそういう期待があって来ているのだろうか? うーん、と悩みながら斜め隣にあぐらをかいて座る真田くんを見ると、真田くんはすぐにこちらの視線に気づいた。 「どうした」 「ううん。お茶、ありがとう」 「ああ」 「真田くんちで飲むお茶いつもおいしいなと思うんだけど、どこで買ってるの?」 「いただきものだ。どこで売っているかはあずかり知らん」 「あ、そうなんだ」 真田くんちならそういう品が多くありそうだ。おうちも大きいし、名家って感じだもんな。 「すまん」 「えっ 全然!いつもごちそうになってしまって。ありがとう」 真田くんは「いや」とわずかに首を振って、それで会話終了となった。 「…………」 「…………」 無言が心地良いとかそういう間柄でもなく沈黙は普通に気詰まりだ。 滞在時間は毎回学校が終わってからの二時間弱ほどだけど、この奇妙な会合は真田くん的にどういう意義があるんだろうと不思議だ。 私とちがって、真田くんは引退したとはいえテニスの自主練や剣道のお稽古、加えて勉強などやりたいことがたくさんあるのではないか。 真田くんの有意義な人生の時間を私が無駄につかってしまっていいのかなぁ。などとぼんやり考えていると不意に顔に影が差しこんだ。 ん?と目を上げると真田くんの手が音もなく私の顔の上あたりに来ていて、反射的に「ひえっ」と悲鳴を上げてしまった。 ビンタされる!と思ったのだ。 しかし身構えたものの衝撃はやってこなかった。 目を開けると、真田くんは右手を私にかざしたまま何とも言えない困った顔をしていた。 「…………前髪にゴミのようなものがついていたのでな」 「えっ」 「とろうとしたのだが…………驚かせてすまない」 「あっ」 そうだったのか……! 「いや、こっちこそごめん!ひえっとか言っちゃって!な、殴られると思っちゃってごめん……!」 「殴る……?」 真田くんはけげんな顔だ。親切が曲解されたのだから当然だ。申し訳ない。 立海テニス部の鉄拳制裁の噂は思っていたより私の意識に根付いていたようだ。 冷静に考えれば真田くんは女子を殴ったりするような人じゃないのに……ごめんよ。 「を殴るわけないだろう」 真田くんは右手を下げ、呟いた。 恥じているようにも、拗ねているようにも聞こえる悄然とした声だった。 「ご……ごめんね」 「いや、驚かせたのは俺の落ち度だ。お前が謝ることはない」 それで会話は終わってしまった。 気まずい。この雰囲気から挽回できる気がしない。 けれど来たばかりで今帰ると言えばますます気まずいし、帰れば次真田くんにこの部屋へ招かれることはないかもしれないと思った。それはさみしい、と初めて思った。 「……真田くん」 「なんだ」 「ずっと不思議だったんだけど、真田くんはどうして私を家に上げてくれるの?」 口ごもるかなと思ったけど真田くんはお茶を一口飲んですぐに答えてくれた。 「大した理由があるわけではない。クラスが分かれてからとは会話をする機会が減ったので、惜しいと思ってな。学校では接点がなかったので、それならばと招いたに過ぎん」 「でももともとそんなに仲がよかったわけじゃなかったよね、私たち」 「そうだな。では終わりにするか」 「えっ」 「お前から切り出されるまでもなく、今日を最後にと思っていたところだ」 「そうなの……!?」 呼ばれなくなったらさみしいと思った直後のお知らせであった。 沈む私に気づかず真田くんは続ける。 「近頃、俺が女学生を家に連れ込んでいると近隣でいかがわしい噂が立っているらしい。年頃のお前があらぬ目で見られることは避けねばならん。俺が配慮を欠いていた。すまなかった」 私は驚く。 年頃のお前、という響きにも驚く。私が年頃なら真田くんも年頃だよ……! というか、そうか、中三で男女が家で遊ぶと今はそんな風に言われてしまうんだっけ……?そうだったっけ? 私達、お茶飲んで勉強して大して弾みもしない近況話をぽつぽつ話していただけだけども……? むしろ噂通りのあれやこれが人目を忍んで行われていた方が立つ瀬がある気がする。健全過ぎて申し訳ない。 「そういうことだ。とは今日限りだな」 真田くんはやや早口に言ってお茶を飲むが、その言い方はどうなのかとちょっと腹が立った。 「別に学校で会って話せばいいじゃない。今日限りなんて嫌な言い方しなくても」 「迷惑ではないのか」 「なんで迷惑なの」 「身に覚えのない噂を立てられてお前の名にいらぬ傷がついただろう」 「傷なんてついてないよ。意味わかんない。もしついたとしても別にお嬢様じゃないんだからそんなの痛くもかゆくもないし」 「だが婦女子たるもの……」 「だって私達やましいことなんてないじゃない。いかがわしい噂なんて言ってる方がいやらしいんじゃないの?」 真田くんはそこで黙った。 そしてわずかに一瞬視線をそらし、再び私の目を見据えた。 「実を言えば、俺の方は身に覚えのない噂ではないのだ」 不埒ですまないとあぐらの膝に両手を乗せ真田くんは頭を下げた。 「えっ」 「すまん」 「え……、いやさっき家に呼ぶのは大した理由じゃないって言ってなかった?」 「大した理由ではない。単なる俺の恋慕の情だ」 「……えっ、えっと、ちょっと待って」 真田くんは頭を下げた姿勢のままで待ってくれている。いや姿勢は全然戻してどうぞだよ真田くん。 「つまり真田くんは、こう何かうまいこと私といい感じになれたらいいな的なあれがあって家に呼んでくれてたってこと?」 「あれとは何だ」 「何、何だろう、思惑?というか」 「ああ、そうだ。下心だ」 はっきり言われてまたひえっと言いそうになる。 なんて堂々とした下心の告白だ。 真田くんに下心なんてあったんだな……と驚くやら感動するやら、私は事の急展開に圧倒される。 「じゃあ、そんな、勝手に謝ったりしないで私たちちゃんと付き合おうよ」 「何!?」 「え!?ダメ!?」 「どういうつもりだ」 「ちゃんとお付き合いをするつもりだよ。なんでそんな怖い顔してるの!?」 「流されるな!婦女子たるもの男子に思いを告げられたとて簡単に身を預けてはいかん!」 「どういうこと!?別に簡単にじゃないよ、私たちけっこう長い付き合いじゃん去年はクラスメイトだったし!」 「だがお前は俺のことを異性として意識していたわけではあるまい」 いい加減なことを言うな!とばかりの真田くんの剣幕に、たしかにな!と自分でも思うけど、でもよくない!?もうよくない?こんなよくわからない気詰まりな時間をそれでも3ヶ月以上過ごしてきて、さっき今日限りって言われてさみしかったってことは、もうそれ、私真田くんのこと好きなんじゃない? 「好きだと思う!」 「……?」 「私も真田くんのこと好きだと思う!」 「何を……!」 真田くんは顔をそむけ、明らかに動揺している。 「真田くんのことが好き。私たちの不埒な噂、もう本当にしてしまおう!」 畳みかけると真田くんは苦虫を噛み潰したような顔をして私に向き直った。 「言葉を慎め……!」 「……まぁ不埒うんぬんはあれだけど。私たちまだ中学生だし。健全にお付き合いしよう」 言ってて、なんでこんなに私からばっかお付き合いしてしてって言ってるんだっけ?と冷静にもなってくる。 私と真田くんはいつの間にか至近距離でぎゃーぎゃーと言い合っていて顔が近い。 真田くんの眉間の皺は今日も深いが、彼の正義感の表れのような眉とその下の目は美しい。この目が一生曇ることなく美しくあってほしいなとふと願う。 真田くんは私を見下ろし、静かに息を吸い込むと、 「怯えないでくれ」 と自分の方が怯えているような声で言った。 え、もしかしてキスでもすんのかなと思ったけど、真田くんは私の顔の上に右手をかざし、前髪についたゴミのようなものを今度こそ確実に取り、それを拳に握りしめた。(捨てて) 「……この距離感は健全の内に入るだろうか」 「え、どうだろう。誰かが見たらそうは思わないかも」 「そうか。だが、責任はとる」 いやそんな、大げさな。 真剣に言う真田くんに気が抜けて、それでもうれしくて、私は笑ってしまう。 |