コーラを飲んでたらいきなり甲斐くんに
「お前暴力ってどう思う?」
ときかれた。台風のあとの、よく晴れた昼休みのことだ。
含んだばかりのコーラを2メートルくらい先まで茶色い霧にした。
あ、虹。きれい。
賢
者
の 愚
か
「おまっ、汚ねーな!」
「見て、甲斐くん虹よ」
「ああ?本当だ。きれいだなー。コーラで虹ってできるんだなー」
「最低」
「ハ?虹きれーだろ」
「暴力、最低」
「うっ……急に話戻すなよー」
甲斐くんは口を尖らせてバツが悪そうに少し身を引いた。
「というか、3ヶ月ぶりぐらいに話しかけてくるのに、よう、とか久しぶり、とか前置き一つなくいきなり暴力ってどう思う?とか聞いてこないでよ。びっくりして虹を作ってしまったわ」
「あ、びっくりしたのか」
「なんだと思ったの」
「新しい芸でも身に付けたのかと思った」
「コーラを噴いて虹をつくる芸を獲得してわたしはどこへ行こうと言うのだろう……」
「新入生歓迎会のかくし芸、何やるか知念と悩んでたろ」
「甲斐くん、真顔で聞いてるけどそれ4月の話。わたしがマネージャーだった頃の話。今7月」
「そうだよなぁ。もう3ヶ月も経ってんのか。なんか昨日のことみたいだな」
昨日ことみたいだな、なんて一人言みたいに言うので何だか胸がクッとなった。
わたしはこの3ヶ月、放課後の時間を潰すのにえらい忙しかったよ甲斐くん。
暇って埋めようとすると埋まんないものだね。
退部するとクラスの違う甲斐くんと話すきっかけは簡単になくなった。
まあ、ちょっと気まずかったし。
そう思ってたのはどうやらわたしの方だけだったようだけど。
「もうすぐ全国だね」
「おお。東京いって、暴れてくるさー」
にこってしてるけど、君さぁ。
「……悩んでるんでしょ」
「え」
「暴力」
自分からいきなり本題切り出してきたくせに、こっちから水を向けると甲斐くんは口ごもった。
「……わたしでよかったら、話聞くけど」
言いながら後ろめたい。力になるふりして、わたしは彼が今立っている場所から逃げたんだ。
逃げたくせに頼られると嬉しいなんて、卑怯なものだ。
甲斐くんは一度目を伏せてから、フー、と力を抜いて笑った。
「……サンキュ。お前以外に話せる奴、いなくってよー」
その時すでに5時間目の予鈴が鳴っていたので、わたしたちはテニスコート脇のベンチに向かった。
部室の陰に隠れて職員室からは死角になっているので、マネージャーやってた時はたまにここに来てサボっていた。
そして大体いつも先客で平古場か甲斐くんがいた。(木手くんは基本マジメ)
この色のさめた緑のコートを間近に見るのも久しぶりだ。なのに全然そんな気がしなくて困った。
必死に暇を潰してきた3ヵ月間が最初からなかったみたいにふっと消えたような気がした。
そんなわけはないのに。
わたしの3ヶ月がたとえ消えても、甲斐くんの3ヶ月は決して消えないのに。
「話をきく」とは言ったものの、甲斐くんはここに来て何もしゃべらない。
甲斐くんが話したいことはわかっている。だからわたしも何も言えない。
すべてはさっき言われた一言目、「暴力ってどう思う?」だ。それだけ。
それだけのことでわたしは1年からマネージャーしていたテニス部を辞めた。
3年の4月になって新しい顧問がついて、そのやり方についていけなくてキレて辞めた。
「こんな部活やってられません。ありえない、体罰でしょそれ」なんて啖呵きって辞めた。
逃げたんだ。わたしは。
言ったことは間違ってたとは思わない。
けど、みんなを置いて逃げたんだ。逃げたかったら逃げた。逃げられたから逃げたんだ。
わたしより逃げたくてもみんなは逃げなかった。
中学でテニスをやりたいんなら、近所にクラブチームもないここじゃ部活をやるしかない。
理不尽な暴言を受けて、暴力を受けて、暴力を使ってでも。
木手くんは逆にそれを逆手に取ってるみたいだけど、平古場はすごいふてくされて今だに反抗してるらしい。
わたしはそれを噂で聞いて安心する。そしてごめんと謝りたくなる。いっしょに戦えなくてごめん。一人だけ逃げてごめん。
そして甲斐くんは、
「悪いな、なんか。話きいてもらいに来たのに、黙っちまって」
甲斐くんは、監督の言うことに従っている。
「ううん、いいよ」
監督と木手くんと平古場でかたよった部活内のバランスを保つためにそうしている。
そうだとは言わないけどわかる。
平古場は頭を押さえつけて言うことを聞かせようったって無理な奴だ。
顧問にしたらさぞうるさい存在だろう。
木手くんが本当は何を考えてるかはわからないけど、今顧問と足並みを揃えてるなら平古場を抑制する立場に回るしかない。
4月の時点で部内は空中分解寸前だった。
ついていけなくてわたしは逃げた。
甲斐くんは、木手くんをフォローしながら平古場をできるだけ自由にしてやるために、自分で選んで一番汚いクジを引いた。
多分、悩みながら、嫌がりながら、そのクジを引き続けてる。
平古場はそれを知ろうとしないから知らない。
木手くんはそれを最初から知っている。
わたしは知っていて逃げた。
暴力なんて、どんな事情があったって暴力でしかないのに。君はそれを知っているのに。最低だと、聞くまでも言うまでもなく知っているのに。
「甲斐くんは」
馬鹿だ。
「んー?」
「賢いね」
ついていた頬杖をガクッと外して「どこが!」と笑う君は、逃げもせず、泣きもせず、優しいままで、賢いままでいるのだろうか。つらいままで。
「そんで優しいね」
「おいおい、何だよ、なんのサービス?」
「ごめんね」
「なにが」
何も欠けないようにと努力する君が、いつか笑ったまま賢いまま自分だけをすり減らしてしまうんじゃないかって、心配だけしている。
心配だけして、
「なにもしなくてごめん」
唇の裏肉を噛むと鉄くさい匂いでいっぱいになった。
ここで血を流しても、なにも彼の力にはなれないのに。
自分を責めて自己満足の安堵を少し得るだけなのに。
「ごめん」
叩くみたいに頭を撫でて、「なにが」と言って笑ってくれる。
優しい賢い強い君の選んだその役回りを、一早く逃げたわたしは愚かと呼ぶことなんて出来ない。
「ごめんね」
「だからなーにが!」
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