雷のそばで






舌打ちの音を覚えている。

「マネージャーだぁ? 他人の世話焼いて何が楽しいんだ」

その後に続いた苛ついた声も。
言われて返す言葉がなかったことも、覚えている。

今も亜久津に答える言葉を見つけられずにいる。





テニス部のマネになったのは1年の時同じクラスだった南の一言だった。

さんまだ部活決めてないの?じゃ、もし他に興味のある部活がなかったらテニス部のマネージャーになってくれないか?……って、急に図々しいよな、ごめん」

まだそんなに話してもいないクラスメイトで、当時私の名字をさん付けで呼んでいた1年生の南はそう言って照れたように笑った。
特に入りたい部活もなかったし、その時の南の笑った感じや、人をほっとさせる雰囲気に思わず、うん、いいよ、と答えていた。
え、ほんとに!とこっちがびっくりするくらい喜んでくれた南はそれから1年半後テニス部の部長になった。





千石は都大会後、部からいなくなった亜久津と何かやりとりをしたらしい。
詳しくは聞けなかったけど、「亜久津はテニスはやめないよ」といつもの飄々とした顔で言っていた。
テニスは、ってことは、テニス部はやめるんだなと言外に言いたいことは伝わった。







放課後の教室、私たちは机に広げた部誌の原稿をそれぞれ眺めて同じ様な顔をしていた。

「コメント、亜久津のだけないんだよね」
「亜久津ねぇ」
「できればほしいけどな」

千石と南は顔を見合わせる。
現3年にとっては最後の部誌だ。それぞれ3年間の思い出や後輩に向けての言葉を載せるのが慣例になっている。
たった2か月とはいえ部員だった亜久津の欄だけがきれいに空白になっているのは目を引いた。

「千石、コメントもらえない?」
「いやー一応聞いてはみるけどさぁ?」
「壇くんに聞いてもらうわけにはいかないしね……」

後輩に残すメッセージを本人に「ください!」とは言わせられない。
でも壇くんのためにこそ亜久津のコメントがほしいと思う。

「あの二人は直接話して伝えてることもあるだろうし、わざわざ部誌に載せることもないかもしれないけど……文章で言葉を残すのもいいんじゃないかなーと思うんだよね」
「俺も同意見だよ」
「何度でも読み返せるしな」

千石と南は頷き合う。

「そもそも亜久津、最近学校来てるの?」

都大会後、亜久津は部から姿を消したけど夏休みが終わってからは校内でも目立つ長身を見かけない。

「千石知ってるか?」
「どうなんだろうねぇ」

千石は答えになってないことを言って首をひねっている。

「ま、元気にはしてるんじゃない?」

直後、空からものすごい音がして雷が落ちた。
私たちは3人揃って窓の外を見る。
スプレーで着色したような変に明るい紫色の空に遠く近く何本も稲光が走っていて少しぞっとする。

「これは当分帰れそうにないねぇ」

千石は明るい声で見通しの暗いことを言う。

、ご家族に連絡してあるか?」
「うん、仕事終わったら迎えに行くから学校で待っててって」

今日は夜から雷が発生すると予報が出ていた。
夜からならば少し居残っても大丈夫だろうと高を括って部誌の原稿づくりをし、暗くなる前にそろそろ帰ろうかという段になって先を取って雷が落ち始めた。次いで大雨も。
天気予報を受けて念のため部活全般が休みになっていたからほとんどの生徒は既に下校している。
見回りの先生から「お前たちまだいたのか。何のために部活休みにしたんだよ。天気が落ち着くまで危ないから勝手に帰るなよ」とお小言と待機指示をもらったのがさっきのことだ。


「間が悪いよねー俺たち」


千石はそう言いながら満更でもなさそうに窓の外を見ている。


都大会敗退後、形式上は引退した3年だけどその後も部に頻繁に顔を出しては後輩の練習を見たり、自主練に精を出しているので南も千石も忙しい。
部活が休みの時でもないと時間を取れないので、今日少しだけ部誌のことを詰めようかと誰ともなく自然に集まったのだけど、先生が何のために部活を休みにしたのだと言うのはごもっともだ。
しまったと思うけど遅い。

「千石、持ち前のラッキーはどうしたの」
「俺のラッキーではどうにもならないくらいのアンラッキーくんがこの中にいたりして」
「俺を見るな」

けっこう本気で嫌そうに南は千石の視線を手で払った。

「じょーだんじょーだん。ま、永遠に帰れないわけじゃなし、のんびりしよーぜ南、ちゃん」
「部活の奴らが帰れてたのはよかったな」

南は部活グループのラインで全員の帰宅を確認して頷いた。
話している内にも雨足は強まって、雷の音はより深く低くなっていく。世界を飲み込まんばかりの巨大な生き物が腹を空かせてうなっているようだ。

「この世の終わりみたいだなぁ」
「縁起でもないこと言うな千石」
「じょーだんだって南。あ、ちゃん雷平気な人?」
「平気な方だけど、さすがにこれはちょっと不穏な気持ちになってくるね」
「怖い?」
「なんかそわそわはする」
「怖かったらいつでも俺に抱きついてくれていいからね」
「大丈夫です」

いつもの千石の軽口にいつものように返す。敬語やめてよーと千石は笑う。
お前なあ、と南もいつもの呆れ顔だ。
千石は初めて会った時からずっとこんな感じだ。誰にでもそうだ。
それやめればもっと普通にモテると思うのになぜか自分でもったいないことをしている。

「あれ、誰か来たよ」

窓の外、眼下の校庭を見た千石が不意に言った。

「来るわけないだろ、こんな天気で」
「いやしかもチャリで来てる」
「自転車で!?」

南が窓辺に立つ。私もそれにならう。
赤いママチャリで校庭の真ん中に乗り付けて、昇降口に走っていく山吹中の制服を着た生徒がたしかに見えた。

「亜久津じゃないか!」
「ほんとだ……」

亜久津だった。久しぶりに見た。
この大雨と雷の中をママチャリで何をしに来たんだ亜久津……。

「亜久津ってほんと面白いよね」

千石が笑い含みの声で言う。
何が誰か来たよ、だ。
一目で誰かわかっていたくせに。







私たちは誰ともなしに教室を出、昇降口へ小走りに向かう。
亜久津は下駄箱を上がったところで全身から雫を落として立っていた。ずぶ濡れだ。なぜこんな時に学校へ来たのか。なぜ傘をささないのか。しかもチャリで、と疑問はつきないがすべてが「亜久津だから」で済んでしまいそうな気もする。

「亜久津、大丈夫?」
「うわっびしょ濡れじゃん」
「風邪引くぞ」

南は教室を出るときに持ってきてたらしいタオルを亜久津に差し出す。(用意がいい……)

「うるせえ!」

と言いながらも亜久津はそれを受け取って乱暴に自分の頭を拭く。なんか野生のイヌ科の生き物みたいだ……。

「こんな中何しに学校来たの」

千石が私たちの疑問を代表して聞くと亜久津は露骨に苦い顔を見せた。

「……ババアがスマホを忘れやがった」
「スマホ?」
「昨日進路のことだとかでジジイに呼び出された時に置いて帰ってきやがったらしい」
「あらま、そら大変だ」
「取りに来てあげたのか。いいとこあるな、亜久津」
「うるせぇ!」

私は以前何度か部活関係で会った亜久津のかわいいお母さんを思い出す。
一度やったことがあるけどスマホを忘れるとすごい焦るし困るよね。
お母さんもご不安なことだろう。

「お母さんが伴じいと話したの部室?それとも進路指導室?」
「知らねぇ」
「(聞いとけよ)……職員室に届けられてるかもしれないからとりあえず行ってみる?なかったら部室と進路指導室の鍵借りて探してみよ」
「ああ?てめーらにゃ関係ねぇだろーが」
「テニス部に関係あるならあるでしょ」
「今のは亜久津語的に自分の身内のことで手を借りるのは悪いよって言ってるんだと思うな俺は」
「そうだな、よし職員室に行ってみよう」

うんうん、と千石と南と連れ立って私たちは職員室へ向かう。その後ろから少し遅れて水のしたたる足音がついてくる。







職員室にはスマホの忘れ物は届いていなかった。ので、先生に事情を話して部室と進路指導室の鍵を借りて廊下で待つ三人のもとへ戻る。

「雨風で部室の屋根飛ぶかもしれないから探したら長居しないですぐ校舎に戻れって」
「だってさ、亜久津ー」
「…………」
「今の沈黙は亜久津語的にはありがとうってことだと思うよ俺は」
「勝手に話してんじゃねぇ!大体なんでてめーが率先してんだ」
「あっ……ほんとだ。なんでだろ」
「部室の鍵管理いつもがしてくれてたからな」
「習慣だね」
「習慣怖いわ」

話しながら一瞬屋外に出て、屋根伝いに部室へ向かう。
横殴りの雨に身を縮め、息を止めて四人隊列を組むようにドアにたどりつき中へ入る。
久しぶりの部室だが、懐かしいというほどにはまだ日が経っていない。
それぞれ雨粒を払いながら部屋の中にスマホがないか視線で探す。

窓際に机とソファが据えてあり、部関係の来客があった時はここで対応することもままあった。 そのあたりを確認するがスマホは見当たらない。

「亜久津、電話かけてみなよ」

室内にあればすぐに呼び出し音がするはずだ。

亜久津は自分のスマホを取り出しコールするが、部室は無音のままだった。

「あ、お母さん消音の設定にしてるとかは?」

亜久津は答えない。ということは多分そういう習慣はないのだろう。

「ここにはないみたいだな」
「じゃ、進路指導室かな」

進路指導室は3階だ。

「それか移動中に落としたって可能性もあるかもだね」
「スマホ落としたら結構でかい音がするぞ。気がつくんじゃないか?」
「…………」

千石と南の会話に亜久津は一瞬何か言いたげな様子だったが、黙ったままでいた。
亜久津のお母さんを思い出す。スマホを落としても気づかないおっとりとした人のようにも思える。

「となると手分けして校内探した方がいいよね。亜久津、よかったらお母さんの電話番号教えてくれない?」
「あ?なんでだ」
「みんなでかけながら探したら呼び出し音鳴って探しやすいから」
「…………」

亜久津は黙ったまま横顔になるほど……という表情をのせて自分のスマホを操作した。が、途中ではっと目を見開いて

「だからてめーらには関係ねーだろーが」

と自分の立ち位置を思い出してしまった。
難儀な亜久津だ。

「一人で校内探すんじゃ大変だぞ。手伝うよ」
「そうだぞ亜久津。情けは人のためならず、災い転じて福となす、禍福は糾える縄の如しってね。手を貸すよ」
「かまうんじゃねぇ」

こういう時、一言そうだな頼むわと言えれば亜久津も周囲も大分楽なのでは思うけど、その人らしさっていうのは多分こういうところにあるんだろう。
まあ結局南と千石が建設的に話を進めるんだろうなとやりとりを見ていたら、はっとあることを思いついた。
らしさを逆手にとろう。

「亜久津、探すの手伝うよ!そのかわり見つけたら頼みがあるんだけど」
「ああ?」
「聞いてくれる?」
「頼み事ってのはなんだ」
「一、 二行部誌に文章書いてほしい」
「あ?」
「スマホ見して」

亜久津の手の中のスマホにはさっきまで操作してたお母さんの番号が表示されている。
それを素早く自分のスマホに打ち込み、
「じゃ、お願いね!とりあえず進路指導室見てくるから校内よろしく!」
と私はその場を後にする。
おい!と亜久津の声が追いかけてくるが、頬を思い切り張るような雷の音がそれをかき消した。

かなり一方的な取り付けだけど、ああいう言い方をして実際私たちがお母さんのスマホを見つけられれば亜久津は多分部誌のコメントを書いてくれる気がする。
人に貸しをつくるのが嫌な奴だし、それに亜久津は何であれ頼まれ事を素直に承知するのがひどく苦手だから、そういう形をつくった方がしょーがねーなという体で引き受けてくれるかも!と突発的に考えたのだ。
それにこう言えばこちらも魂胆あってのこと、純粋な親切ではないと示せてスマホ探しの協力も却ってスムーズになるのでは。

なんとかの浅知恵かもしれないが、走り出してしまったんだしやってみよう。







その後、千石から「俺たちも電話番号聞いて探してるよー」とラインが入った。
千石のことだから何か上手いこと言って後に続いてくれたんだろう。

亜久津のお母さんの電話番号にかけながら3階の進路指導室まで来たが、今のところどこからも呼び出し音は聞こえない。

扉から向かって正面に大きく切り取られた窓があり、二つの長机とパイプ椅子が六脚、その他はスチール製の本棚に学校関係の資料が並ぶ進路指導室を二回り、三回りして慎重に探すがスマホの置き忘れは見当たらなかった。

亜久津のお母さんのスマホはどこへ消えてしまったのか。

窓の外で警戒を促すよう明滅する稲光を時折視界に入れながら、さっきより間隔が短くなってきた落雷の音を聞く。
室内を照らす蛍光灯の白々しさと毒々しくも妙に明るい紫の空の対比で今が何時かわからなくなりそうだ。


、見つかったか?」

背後からの南の声に振り返る。

「ううん」
「こっちもだ。一応部室からここまでのルート往復しながら電話かけたんだが。廊下や階段にスマホが落ちてれば目立つから誰か拾って届けてそうなもんなんだけどなぁ」
「……誰か持って帰っちゃったりしてないよね……」
「それは少し心配だったんだけどな。山吹中生徒の良心を信じたい」
「だね。あ、でもこれだけ鳴らしてどこからも音がしないってことは、もしかして亜久津のお母さんのスマホ電源落ちてるとか」
「あ」
「……だったら最初から鳴らないわけだよね」
「だな」

南と二人、思わず肩を落とす。
やっぱり私の浅知恵だったか。

「でもそうと決まったわけでもない。とりあえずやってみて損はないよ、この方法」

名付けてコール&レスポンス作戦、と南は人差し指を立てる。
レスポンスは今のところ返ってきてないけど、盛り立てようとしてくれる気持ちがありがたい。

南も進路指導室の中をゆっくりと周って確かめ、「ないな」と窓の前にやってきた。
ちょうどその時今までにない轟音を立てて雷が落ちた。
二人で思わず、おお、と身をすくめる。

「すごいな」
「ほんとに」

千石じゃないが、世界が終わる時っていうのはこんな風だろうかと一瞬よぎる。

「さっきの、策士だったな」

だしぬけに南が言った。

「何が?」
「亜久津に部誌のコメントの約束取り付けたやつ」
「あー……。いや、一方的だし反故にされても仕方ない。弱みにつけこんだ感あるし。どっちにしても探すしね」
「反故にはしないと思うぞ。それにああ言った方が亜久津も折れて書きやすいし、スマホ探すのも協力しやすいと思ったんだろ」
「ばれてた」

はははと力なく笑う。この分じゃ千石にもバレバレで恥ずかしいな。

「まあな。でも本当は、頼めば亜久津は案外普通に書いてくれる気がするんだけどな。もそう思ってるんじゃないか?」
「心底書くのが嫌ってわけではないんじゃないかなー、とは思ってるよ。でも亜久津って、書いて、おういいぜ、って引き受ける自分がすごい嫌いそう?許せない?みたいなイメージあるから」
「だから一計案じた?」
「ていうほどのあれじゃないけど」
「お前もけっこう気づかいするやつだからな」
「いや全然。それは南でしょ」
「俺こそ全然だよ」
「南が全然だったら人類皆全然以下で立つ瀬がないからやめてよ」

南は大きな声で笑った。
それであたりの空気がぱっと明るくなった。

「……最初から南が言ったみたいにちゃんとお願いしたらよかったかな」
「まぁ、亜久津もわかってるんじゃないか。がああいう言い方したってことは何か考えがあるんだろうって」
「…………そうかな」
「短期間でも仲間だったじゃないか、俺たち山吹中テニス部」

なんだか青春ドラマのセリフのようだが南が言うと自然に胸に言葉が落ちた。
俺たち山吹中テニス部。

「亜久津も私も山吹中テニス部の仲間、か」
「当たり前だろ。おい、まさか今更俺たちを見捨てる気か?」
「いや、仲間になれてよかったなと思って」
「何だよ、どうした?」
「何か今、引退とか卒業とかの実感が急に来た」
「今?」
「今。なんでだろ」
「ああ、でもあるよな、そういうの。今日は天気もこんなだし、最後の部誌の話もしたし。そしたら亜久津が現れるし」
「亜久津、元気そうでよかった」
「な、あいつ、ほんとよかったよ」
「テニス辞めないって千石から聞いたけど」
「ああ。あれだけ才能がある奴だから、本人が望めばきっとどこまでだって行けると思う」

南は自分のことのようにうれしそうに言った。

「亜久津は良い部員に恵まれたよね。2か月しかいなかったけど」

心底思って私は言う。
南はそれには頷かず、真っ直ぐこちらに向き直った。


「なに?」
「仲間になれてよかったなんてさびしいこと言うなよ。お前は最初からずっと仲間だよ」

真剣にそう言ってくれる南の顔に、入学して同じクラスになったばかりでまだそれほど話していなかった頃の南が一瞬重なった。
あの時南は私をさん付けで呼んでたし、私も南を君付けで呼んでいた。
仲間にしてくれたのは、南だ。

「……うん」



「そう、しかもただの仲間じゃあない。大事な仲間、だろ南」

スパァン!とやかましく扉をスライドさせて現れた千石がよく通る声で言った。
千石はなんか、今来そうだなと思ってる時いつも来る。思ってない時もよく来るけど。

「千石!いっ……いつから聞いてたんだよ」
「えー?南が何かかっこいいこと言ってたあたりから?」
「どこだよ!」
「どこかな〜」

ハハハ、と千石の声が軽く響く。
雷も大雨も1人避けて歩いていけそうな男だなとその軽妙さに内心本気で感服する。







ひとまず再び下駄箱前の廊下に全員合流し、見つからないねえ、と言い合っているとスマホの呼び出し音が鳴った。
亜久津だ。
私たちに背を向け、数歩距離を取って亜久津は電話に出る。

もう一度部室からみんなで探してみるか、という南の提案に頷いた時、「あ!?」と亜久津の大声が響いた。
ぎょっとして長身の後ろ姿を見ると、わなわなと肩のあたりが震えている。

「……ああ、わかった。じゃあな」

言葉少なに電話を切るが、亜久津は背を向けたまましばらく動かない。

「亜久津ー?どした?」
「何かあったか?」
「……ババァが、スマホが見つかったとよ」
「え!」
「電源が切れたまま家のソファの隙間に入りこんでただと……ふざけやがって……!」

あらーおうちにあったのかー、と千石は笑う。
でも見つかってよかったな、と南は安堵する。
亜久津は振り向き、気まずそうに私たちを睨む。(睨むなよ)

「見つかってよかったけど亜久津もまだ帰らない方がいいよ。雷すごいから」

私は意図的に亜久津から目を切って昇降口から覗く空を指す。

「今日中に帰れなかったりして」
「親が迎えに来るだろ」
「俺一回学校に泊まってみたかったんだよねー」
「だから、親が来るだろ」
「未成年はつまんないよね」
「未成年じゃなかったら今ここにいないだろ」
「南はいつも正しいことを言うねぇ。疲れない?」
「……たまに」
「おーい認めちゃうのかよ南ぃ。いいじゃん、そんじゃたまには南もはめ外そうぜー」

千石が南の肩を揉み、やめろよとそれを南が避ける。
バリエーションはあれどいつもの風景をぼうっと眺めていると、

「おい」

いつの間にか横に来ていた亜久津が私を見下ろしていた。背、ほんとに高いな亜久津。威圧感あるから実際より高く見えるのかもだけど。

「うん?」
「世話かけたな」
「……全然。勝手にやったことだし」

事実、亜久津は私たちに何一つ頼まなかった。
こっちには打算もあったことだし亜久津が恩に着る理由はない。

亜久津は濡れた制服のポケットに両手をつっこみ私の横に立っている。

「あー亜久津、ちゃんにだけお礼言っちゃって、やーらしー」

俺たちだってがんばったよな南、と千石が余計なことを言って亜久津が「うるせぇ!」と凄む。 お前たちずっと同じようなやりとりしてるよな、と南は疲れたように笑う。


亜久津のお母さんのスマホが無事見つかったので、コメントを取り付ける言い訳もなくなった。
南が言ったように普通に頼めば亜久津は書いてくれるだろうか?

千石たちがわやわやと話してる横で私は頭の中でそのシュミレーションをしてみる。
想定の中で何度試しても亜久津は素直に「ああ」と言ってはくれないが、不承不承、くそめんどくせぇがしょうがねぇと言わんばかりの渋面で差し出したペンを受け取る姿はイメージできた。 後で言ってみよう。どうせ雷が止むまですることもないのだし。


そう思ってる間に雷がまた落ちる。
音を立てて空を割って、あんなに光って、鋭く走って落ちてくる。


「今のは近かったんじゃない?」
「被害が出ないといいけどな」
「やってられねぇ、俺は帰る」
「待て待て亜久津、待てば海路の日和ありって言うだろ?ここまで待ったのに今出て行って自分を危険にさらすことないって」
「そうだぞ。あ、腹がへったなら部室にカップ麺あるけど食うか?」
「いらねぇ」
「カップ麺の備蓄何があったっけ。俺ペヤング食べたいよ南」
「あるんじゃないか?」
「引退してるけど勝手に食べちゃっていいかな?」
「非常時だし、改めて差し入れすれば問題ないだろ」
ちゃんは何食べる?」
「カップ麺取って職員室でお湯もらって一旦教室戻るか」

と一気に食欲に話が傾く中、

「いつまでここにいろってんだ!」

と亜久津が誰にともなく怒鳴った。
大雨と落雷に取り囲まれた分厚い壁の中でも諦観も追従もせず亜久津は一向変わらず亜久津でいる。亜久津でいられていいなぁとちょっと思う。
亜久津にとっては学校に来たことからして不本意続きなのだろうから苛々するのも仕方ないか。


……で、カップ麺はどうしましょうね、
という宙ぶらりんの空気が落ちかけた時、


「まぁ、こんなのは今だけのことだよ」


千石が何かを慈しむように、愉快気に言った。
いつもと同じ軽妙な声だがしんと耳に残った。
たしかに、こんな雷の中望んでもいないのに四人で過ごす時間は今だけのことだろう。
亜久津も南も私も耳の中で千石の声を繰り返している様な間が空いた。


雷がまた落ちる。
亜久津が舌打ちをする。

その小さな破裂音でふと思い出す。
「マネージャーだぁ? 他人の世話焼いて何が楽しいんだ」
その後に続いた苛ついた声も。

返す言葉は今もない。
何が楽しいのか?よくわからない。二年半やってわからなかったのだから、結局言葉に出来るこれという答えはなかったんだろう。
でも、

「亜久津」

呼ぶと亜久津は、ああ?と振り向いた。
千石が言った言葉をもう一度耳の中で繰り返し、私は亜久津を見上げた。

「私は山吹中テニス部、楽しかったよ。何が楽しいのか最後までよくわからなかったけど、楽しかった」

会話の脈絡を無視して言ったので亜久津は当然当惑するかと思った。春先に言った一言を覚えているとも思えない。
何言ってやがるてめぇ、で唾を吐いて終わるだろうと思っていたのに、亜久津はひたと私を見た。
表情の読めない亜久津の目がこれだけまっすぐ私を見たのは初めてのことだった。

「そうかよ」

言って、わずかに体を揺らしたのでひょっとして笑ったのだろうかと勘違いしそうになる。

「楽しかったよなぁ、山吹中テニス部」

うんうん、と千石が言い、

「だな。楽しかったな」

と南が言った。


ふと、数年後、私たちが雷のそばでただ過ぎるのを待つしかない時間に居合わせたことを思い出して千石なら「ラッキーだったよね」と言うだろうかと考えた。
「何がラッキーだふざけんな」と亜久津は怒鳴り、南は「すごい雷だったよなぁ」と頷く。
そんな来るかどうかもわからない未来を思ったら笑えた。あまりにも鮮明に、見てきたかのように想像できるから。
今だけだと思った時間は、望めば案外簡単に続くのかもと勘違いでも楽観でも信じたくなった。


「うんうん、これぞ中学生活のハッピーエンドだな」
「まだ卒業してないぞ」
「そして物語は続く!」
「高等部にな」
「そうそう。な、亜久津」

千石にごく自然に話を振られた亜久津は一瞬眉を顰めたがフン、と顎をそらして否定も肯定もしなかった。

も」

南が当たり前のように私の名前を呼ぶ。

「高等部でもよろしくな」

……ってだからまだ気が早いけどなー、と言ってから照れる南に千石が
「一人だけちゃんによろしくしちゃってー」
と冷やかして
「いや全員の名前呼ぶだろここは」「俺がよろしくしたかったのに良いとことっちゃってさ」「お前もすればいいだろ」「そうだね、ちゃんよろしくー!」「うるせぇ!」

いつものやりとりをする面々にこちらこそよろしく、と言う前に、また雷が落ちた。