8月も8時を回ると夏でもさすがに空は真っ暗だ。 校門前の街灯には光につられて小さな羽虫がいくつも集まっている。 そんな時分、同級生の女子、かつ部活のマネージャーが校庭の片隅で池にはまっていたら、まあ、こう言うだろうな、ということを彼は予想通り口にした。 8割の無表情に「呆れ」と「面倒くさい」を1割ずつ加えたお決まりの顔で、ため息まじりに 「…………お前、何してんねん」 はい、 「……鍵を、探してます」 もうかれこれ3時間弱。 「……一応聞いとくけど、部室のやな?」 「うっ……はい」 「ほんでなんで池さらってんねや」 「もう道とか部室は探し尽くしたんで……うっかりここに落としたんじゃないかと考えまして……」 錦鯉が優雅に泳ぐこの池は校門からテニス部部室への間にあるので可能性としてはなきに等しいけれどもなくはなくもなく、 「アホ。ないわ」 「……ですよね」 「おい」 財前は肩にかけたラケットバッグをごそごそやってタオルを放って寄こしてくれた。 「えっ」 「上って足拭け」 「え……」 「なんや。それつかってへんやつやから安心し」 「いやそんなん別に心配してませんけど……」 「なんや。はよ言いや」 「すいません!鍵をいっしょに探して下さいませんか!」 頭を下げると財前はたったの一言。 「アホ。はなからそのつもりや」 「あっ、ありがとーございます財前!」 そしてため息。 「頭下げんでええからさっさと池上がれ。錦鯉もびっくりしとるわ」 「はい!」 「あと敬語やめ。気色悪い」 「へーい」 「…………」 「あっすません!じゃなかったゴメン!」 「とっとと上がり。このうすのろ間抜け」 「うすのろ間抜け…!(ひい!)」 ■ 池から上って借りたタオルで足を拭いて、とりあえず財前に事の次第を説明するためわたしたちは部室に戻った。 「ほんで、なんでそもそもこんな時間まで残ってたん?」 「えーと…………明日、3年生の引退式でしょ。だから先輩たちのロッカーとか、きれいにしよーと思って磨いてたんだ」 「ほお。ええ心がけやな」 「でしょ!デヘヘヘヘ」 「ほんで気づいたら鍵がなかったと」 「うん。焦った」 「ほんまええ心がけやなぁ」 「すいません……」 「で、えらいこっちゃと3時間も探してた、と」 「うん」 「職員室には行ったか」 「え?なんで?」 「3時間前なら多分監督まだおったやろ。監督に言うて管理庫からスペア出して今日のとこはそれで閉めたらええんちゃうんか」 「……あ!」 「……………」 「いやとりあえず鍵見つけなくちゃと思ってそれだけで……思いつかなかった」 「…………………ほう」 「でも、だって大事な鍵だから、どっち道失くしたまま帰れないよ!」 「でももだっても言い訳やな」 「だって大事なんだもん!」 「俺に言うな。ほんで大事なら失くすな」 「うっ…」 「しかも今日もらったばっかりやろ、鍵」 「はい………」 「そんで失くすってお前、どんだけやねん」 「ですよね……」 財前の声は淡々としていて責める棘はあまりない。けれど破壊力は抜群だ。 辛辣な正論だ。いや正論だから辛辣だ。 ああ、正しいことを言われると胸が痛い。 テニス部部室の鍵は代々引退式の前日に先輩マネから後輩マネに手渡されるのが慣例になっている。 毎年全国大会を終えて八月末にある登校日の翌日が引退式になるので、登校日、つまり今日わたしも先輩マネから鈍く銀色に光る鍵を受け取ったばかりだった。 そして失くした。あっという間に。 「あああ…………」 部室の長机に頭を押し付ける。自分が駄目すぎる。一片の同情の余地もなく完璧なる駄マネ。 先輩マネからきれいな緑色の封筒に入れて渡してもらった鍵。 いっしょに入っていた手紙には「新しい部長を助けて、部員のみんなを支えてあげてください。大変だと思うけどがんばってね!でも無理はしないで、3年にできることがあったら何でも言ってください。またちょいちょい顔出しにいくのでその時はよろしく!」とメッセージがあって、うれしくて何度も繰り返し暗記するほど読んだ。 ありがたくて、さみしくて、ちょっと泣いた。 なのにその鍵をあっという間にわたしは…………あああああ。 「あ、もしもし、財前す。今ちょっと部室の鍵がのうなって、探してたんすけど、ハイ。施錠…………ハイ。スマセン、待ってます。ほな後で」 一人のはずの財前の話し声に顔を上げると、財前は携帯の通話を切って二つ折りにしているところだった。パコン、と軽い音。 「監督。すぐ来るて」 「え、電話したの?」 「とりあえず今日はそれでええやろ」 「でも鍵……!」 「また明日探したらええやろ。土台、こんな暗い中で3時間探して見つからんかったもん今更見つかるかい」 「……………」 「監督来ても強情して残る言うんやったら好きにし。俺は知らん」 淡々と言って、財前は自分のバッグから本を一冊取り出して読み始めた。 そういえば……… 「財前は何でこんな時間まで残ってたの?」 「何でもええやろ」 「……もしかして」 「どうせ外れるから言うな」 「うっかり教室で寝坊とか?」 「ありえん」 「じゃ、図書室で宿題でもしてたとか?」 「宿題? お前まだやってへんのか」 「わたし宿題は9月になってからやるのがパターンで」 「…は?」 「毎年提出の3日に間に合うようにやる」 「2日間でか」 「うん」 「わかった。普段からそんなんしとるから鍵失くすんやなお前は」 「うっ……」 財前の正論の矢は寸分違わずわたしの胸の中心を射る。 「その通りです……」 「せやから敬語やめぇや。気味悪い」 「で、なんでこんな時間まで残ってたの?」 「なんでもええやろ」 「だって普通部活でもなきゃこんな時間まで学校に残る理由がないじゃんさー」 「お前も大概しつこいな。なんや先輩らに似てきたんちゃうんか」 「そりゃあんだけいっしょにいたら、少しは似る」 「(似るんかい)」 「財前だって、テニス部入ってかなりとっつきやすくなったよね」 「ああ?」 「去年も同じクラスだったけど、他の人から見たら随分雰囲気変わったと思うよ。わたしはもう部活で慣れちゃったからわかんないけどさ」 「……不本意や」 「またまた。そんなこと言っちゃって!そんでけっこう最近モテだしてんじゃん!」 「知らん」 「ねぇねぇ、そんで、なんでこんな時間まで残ってたの?」 「お前ほんっまにしつこいな。なんや、謙也先輩や一氏先輩でも憑依してんちゃうか」 「憑依って!」 思わず財前の口からでたその言葉に驚いて笑った。 そのすぐ後で財前が口にした二人の先輩たちの名前ががらんとした部室に響いたことに寂しくなった。 この間までこの部室の主だった先輩たちが自分の巣のようにここに戻ってくることはもうない。 遊びにくることはあるかもしれないけど、彼らにとってこれからここは文字通り古巣になるんだろう。 にぎやかで、強くって、優しくて、大好きだった。 明日はあの人たちの引退式だ。 「……おい」 「……………」 「何泣いてん、急に」 「……うっ、だってなんかさびしくなってきちゃったよ…………明日がこなきゃいいのに……」 「お前アホか。今更や」 「だけどさー」 「勝っても負けても引退だけはどうにもならん。どうにもならんことガタガタ言いなや。うっとい」 「だけどさー………だって、本当にさびしいよ、明日から」 言ってもしようがないことはわかっていたから今まで誰にも言ったことはなかった。 けど、同じく残されてテニス部の最高学年になる財前にはつい感傷の口が緩んだ。 財前はさびしいとは言わなかった。 その代わりに、がらんとした部室を見回して一言。 「ピッカピカやな」 「……は?」 「ロッカー」 「あ、ああ…………うん、磨いたから」 「ようやったんやな。ほんまにピカピカしとるわ。明日先輩らも気づくやろ」 「喜んでくれるかな」 「そら喜ぶんちゃうん。自分で掃除する手間はぶけて」 「そこかい」 「泣くかもな。金色先輩や謙也先輩あたりはモロに。一氏先輩は強がって我慢して、小石川さんは隠れてこっそり」 「銀先輩は?」 「ロッカーに拝みだす」 「ありえる! じゃ白石先輩は?」 一瞬ちらりと財前と視線があってお互いにやりと笑い合う。 そして重なる、 「「エクスタシー!」」 「はははは!だよね、言うよね!」 「言うやろ」 「ロッカーきれいでエクスタシーてわけわかんないけどね」 「あの人はそういう人やねん」 「なのにあんなに強いんだもんねぇ」 「ほんま、反則や」 財前のついたため息と言葉には単語以上の意味があった。ように思えた。 反則や。 2年から部長としてテニス部を背骨で支えてきた白石先輩はその実力も人柄もまさに完璧、パーフェクトな部長だった。 その人の跡を継ぐ財前にとってはまさに反則めいた存在感なのかもしれない。 ピカピカのロッカーを頬杖をついて見る財前の横顔を見ていたら、気づいた。 財前はわたしと同じく残されたテニス部最高学年、なんて思ったけど、それは間違っていた。 財前とわたしは違う。 重圧が違う。 「さみしーさみしー言うてても埒あかんやろ」 「……うん」 「それに、んなこと言うてる暇ないで。3年の先輩らのことなんぞ、すぐ思い出す間ぁもないよーにしたるわ」 つまらなさそうに言って、珍しく財前は閉じた口元に笑みらしき曲線を浮かべた。 慣れない表情。笑って人の背筋を冷たくさせる中二男子もこの日本にそう多くはいないだろう。 「……なにそれどーいう意味……」 「期待してるわ。マネージャー」 「え、ちょ、嫌な予感しかしないんですけど!」 「せいぜい気張って働きや」 絶対こきつかうつもりだよこの人……! 「こっこっこ、」 「ああ?(ニワトリ?)」 「こっちだって、期待してますからね、財前新部長!」 思えばこの時はじめて、わたしは財前のことを部長と呼んだ。 そして恐らく、財前がはじめて部長と呼ばれたのもこの時のはず。 わたしたちにとって白石先輩の名前の後に尊敬と信頼を持って呼んでいたその呼称。役目。責任の所在を担うポジションの代替わりを口にして、耳にして、わたしたちはこの時はじめて実感した。 直後、財前はほんの一瞬、目を丸くした。 そして、見間違いかもしれないがごく小さく息を飲んだ。 「財前部長」 呼びなれない呼称に慣れるように舌を動かす。ざいぜんぶちょう。濁点がいやに多い。 代が替わって、人が替わって、名前が替わって、終わって、はじまる。 そうやって繰り返されて、受け継がれてきたものが今わたしたちと共にいる。その中にはもちろん、大好きなあの人たちの背中がある。 「財前部長、頼りにしてますよ」 茶化す気は毛頭ない。マネージャーの、同級生の、心底本音だ。頼むよ本当。うちには、下をひっぱっていく人はもうあんたしかいないんだからさ。 黒い目とまっすぐ視線がかち合った。鉱物みたいに硬く光る目だ。 財前は顎を引いて、きっかりとうなずいた。 「忙しくなるで。覚悟しとけや」 やっぱりさすがの財前だ。 うれしくなってうなずいた。 「うん!」 「で、鍵やけどな」 「うん!」 「さっきからお前のほうからチャリチャリチャリチャリ聞こえんのは気のせいか」 「えっ」 「ポッケん中」 言われて急いでスカートのポケットに手をつっこんだ。つめたい感触。ぎさぎざの凹凸。 こ れ は …… 「出し」 「えっ いやそのこれは……これはですね」 「出しや」 「なんていうかですね、その、そう。過失。過失という、ちょっと残念な、結果」 「ええから出せ」 トーンの変わらない財前の声が逆に怖いです。白石先輩助けて! ヒーローの代名詞のように胸中前部長を呼んでももちろんその姿はない。 わたしは手の中の冷たいものを財前に目の前に差し出した。今、自首する犯人の気持ちがよくわかる。 「鍵やんな」 「……そうも、見えますね」 「ほう、それ以外に何に見えるん?」 「…………………………この部室の鍵ですね」 「アホ。自分で振ってんならボケろや」 「……ハイ、すません」 そのまま絞られるかと思ったが、財前は意外にもそこで怒りの言葉を切り上げ、 「まぁ、見つかったんならえーわ。帰るで」 「えっ」 「……何や」 「いやあの、えーと、その、ごめんなさいでした!」 「ええわもう」 「時間取らせて本当にすみませんでした!」 「ええて」 「財前……!」 思わず両手を合わせて拝みたくなるわたしに財前はひらひらと手を振った。 「めんどいし」 「(やっぱり!?)」 「それに、マネのミスは部員のミスや。つまり言うたら俺のミスや」 「え」 「なんて、言うと思うたか」 「思い……ません……」 しおしおと頭を下げてせめてもの謝意を伝える……。 垂れた頭のその上で白けた顔した財前が見える。見えないけど、わかる。 「顔上げ」 「………」 「女に頭下げさすん好かんわ。上げ」 そう言われて上げた顔で見た財前はいつも通りの無表情ではなかった。 だけど無表情より怖かった。 「この、」 怒りと許容が感情の最下層でぶつかりあって、彼の口元で笑みになる。 そこから出てくる言葉にはもう見当がつく。 そうともわたしは、 「うすのろ間抜け」 おっしゃる通り。 「すいませんほんとすいません」 「あとひゃっぺん言われても足らん」 ■ 財前が携帯でオサムちゃんに再び連絡すると、どの道もう近くまで車で来てるから家まで送ってったるわ、とのことらしくわたしたちは校門でオサムちゃんの到着を待つことにした。 部室の電気を消してドアを閉める。 わたしたちが来年この部屋を巣立っていく時はどんな思いがあるんだろう。 今、先輩たちは何を思って引退式の前夜を過ごしているんだろう。 鍵を閉めて、先輩のマネージャーからもらった緑の封筒に仕舞った。 ごめんなさい。もう2度となくしません、と胸の内で呟いてすでに校門に立つ財前の方へ向かった。 ふと、ある予感がした。 財前はまた「外れるから言うな」と言うだろうけど。 財前がこんな時間まで学校に残っていたのは部室に用があったからじゃないだろうか。 部室を出たり入ったりのわたしが帰るのをずっと待っていたのではないだろうか。 それがいつまで待ってもウロウロチョロチョロ、そうかと思えばいきなり池にはまり出すし、お前は一体何やってんねん、と。 ピッカピカやな、という財前の声が耳の中でよみがえる。 磨いたロッカーにすぐに気がついたのは、自分がやろうと思っていたことがすでに成されていたからでは? なんて言ったら、正解でも不正解でもこの人は面白くなさそうな顔で「ふん」と鼻を鳴らすだけだろうけど。 「なに笑っとんねん」 「べっつにー」 「気色悪いやっちゃ」 「笑顔は人生のパスポートってこないだ小春先輩が言ってたよ」 「そら手軽でええな」 「しかもタダだよ」 「逆にありがたみがないわ」 「『愛は無償で分け与えるもんなんよ☆』だって」 「押し売りや。頼まれたっていらん」 財前といつもの軽口を叩きながらオサムちゃんのオンボロセダンを待つ。 夏の夜に風はない。 月は半かけで白く潤んでいる。 秋がもうはじまろうとしている。 「あ、あれオサムちゃんの車じゃない?」 「せやな。あのボロさ、間違いない」 財前が数歩進んで白いオンボロ車に手を振って合図する。 その背中でラケットバッグがゆらりと傾いだので咄嗟に手をそえて支えた。ラケット以外に何が入っているんだか、やたらと重い。 「おう、悪い」 「うん」 「……なんや、もう平気やぞ。手ぇ離し」 「……うん」 「なんやねん」 困惑声の財前に曖昧にうなずいて手を離した。 バッグは重かった。触ってみるまでわたしはそれを知らなかった。 覚えておこうと思った。 財前の背負ってるものは目に見えるバッグに限らず、想像するより多分ずっと重いということ。 四天宝寺テニス部部長の肩書がどれだけ重いかなんて、背負ったその人にしかわからない。傍で見て、支えることはできるけどその重さを代わってやることは誰にもできない。 だけど財前、それをやるのはあんたしかいないから。 「がんばれ」 当人に聞こえないように細心の注意を払って呟いた。のに、 「お前もな」 ………地獄耳。 こちらを振り返らずに言った財前はきっとほぼ無表情でつまらなそうに白けた顔をしているに違いない。けれどもしかしたら口の端を引いて、ほんの少しは笑っていたかもしれない。 なにしろ不敵の財前だから。 |