下り階段でうしろから走ってきた男子にぶつかって、おっと、と手すりをつかみ、セーフ、と思った瞬間、上からなぜかサッカーボールが落ちてきた。ので、もう諦めて転んだ。
一番強く打ったはずの尻はさすが、脂肪に守られているだけあってじんとしびれるだけで済んだ。ああ恥ずかしい、やれやれ、と立ち上がろうとしたらもう一度転んだ。

「…?」

足首に力が入らない。らしい。


「グキった?」


通りがかりの知らない男子生徒が心配半分、笑い半分で横を降りていく。


「グキった………」


遠くなる知らない背中をぼんやり見送りながら一人でわたしはうなずいた。
一階廊下の水飲み場、曇った銀色シンクの足下まで転がったサッカーボールを落とした誰かが拾いに来ないのはどうしてだ。


謝ってよ。
痛い。

 

 

 

 

 

 

しばらく痛みをやり過ごし、片足でひょこひょこと壁に手をつきながら保健室まで行くと、いつもの先生の姿がない。


「せんせーいませんかー?」

下校時間で生徒もいない。
ベッドの毛布が上から人型にくぼんでいるのはさっきまで誰かが寝転んで漫画でも読んでいた後か。まさか先生?


見ると机の上に「ちょっと出ています」とメモ書きがあった。
ちょっと、てくせものだ。ちょっとのつもりで「随分」にも「ずっと」にもなる。

部活でよく保健室のお世話になっているので、湿布なんかの在り処はわかっている。
授業中ならまだしも(さぼれるから…)、そろそろ部活がはじまるので勝手にチャッチャとやらせていただこう。


靴下を脱いで、イスに足を乗せるとひねった箇所がすでにカマキリの卵みたいに腫れている。
うわぁ、嫌だな。長引きそう。

湿布、湿布、と座ったまま不精で引き出しに手を伸ばした。そのときガラリと音がした。

 

「すみません、先生はいらっしゃいますか」
「…………先生は、ちょっと留守みたいです」

 

入ってきた人物とおかしな格好で目が合ってしまった。スカートで右足だけ体育座りにしていたのでパンツが見えないよう角度を微調整した。


「お留守ですか」


そう言って弱ったように眉を寄せる人は左腕に血がしたたる擦り傷をつくっていた。
そして、その両手でぶら下げるように抱えているのは、

 

「……ネコ?」

 

ネコ だよな。
茶トラのその子は仔猫を卒業したばかりの若ネコといったところか。
濃い黄の両目が大人しそうにこっちを見ている。オスだ。

 

「はい、ネコですね」

てすよね。

「ネコ……どうかしたんですか」
「怪我をしていたのを見つけたので、応急ですが処置をと思いまして」
「ネコ怪我してるんですか?」
「ええ、右後ろ脚を」
「ああ、……そうですね」

どこかで木にでも引っ掛けたらしい。短い毛足にさっと短く朱が走っている。


「……でも、あなたの左腕のほうが痛そうですけど」


ネコにひっかかれたキズではない。捕まえようとしたときにでも転んだのかな、と首をひねった。

ネコを両手にぶらんと掲げたその人は、口の端を少し広げて首を振った。いいえ、そんなことありませんよ。 そうですか? ええ大したものではありません。

目顔で会話のできる人だ。
なんか品があるな。

 

「先生がいらっしゃらないんでしたら、待たせていただくしかないようですね」


そう言って穏やかに弱った顔で所在なさ気に立ったままでいる。
ネコは大時計の吊り下げ鐘のようにぶら下げられている。特に文句もないようだ。

わたしは彼の左腕をつたって今にも床に落ちそうな無数の血の筋を見て、彼が誰だか不意に思い出した。


「……先生いつになるかわからないんで、自分でやってあげたらいいんじゃないですか?消毒薬とかある場所、わたしわかるので教えます」


彼は相変わらず穏やかなまま、パッと顔を明るくした。


「それは助かります。お世話になってもよろしいですか?」


この話し方。物腰。
彼はテニス部の紳士だ。
名前は、ええと、まだ思い出せないけど。

 

 

消毒薬、脱脂綿のある場所を教えて、ガーゼは自分でも必要だったので片足裸足のまま跳ねて引き出しへ向かう。

紳士にも何枚か渡すと、彼はわたしの足首に目を落とし、ああ、と眉をひそめた。


「ひどい。きちんとかかりつけのお医者へ診ていただいたほうがよろしいですよ」


たしかに、さっきまでカマキリの卵だったのが今ではニワトリの卵になっている。
昆虫から一気に鳥類だ。進化を千年単位でワープした。
片足でひょこと跳ねるたび、さっきはツキツキとかわい気のあった痛覚の擬音が、ヅィキシ、ヅィキシになっている。聞いたことないなこの擬音。(擬音だけど)
まぁ、率直にとても痛い。


紳士の手から離れて診療マットに降り立ったネコは、人の手を離れ心細いのか、足に地を感じて落ち着いたのか、ニャンと一声鳴いた。

紳士は実に手際よく処置をした。ネコは野良とも思えないほど静かにされるままだ。

 

「このこ、誰か知り合いの飼い猫?」
「いいえ、恐らくは野良でしょう」
「おとなしいねぇ」
「ええ。聞き分けのいい子ですね」


わたしはすっかり敬語が抜けていた。
一応誰だかわかったし。
けど紳士の言葉遣いは変わらない。

紳士は知人とか友人とかそうでないとか、まったく関係なく敬語で話す人だということや独特の雰囲気から紳士とあだ名されていて、たまに廊下で肩なんかがぶつかった女子が「失礼」と言われて、一瞬けげんな顔をしていたりする。
肩どころか体ごとぶつかっても一言もない男子がほとんどの生活環境で、「失礼」などと言われたらちょっと自分を見失いもする。異国か?くらいは思う。(彼はどこで紳士道を学んだんだろう)

そんなわけで、わたしは紳士を知っているけど、紳士がわたしを知らなくても無理はない。というか当然だ。この学校ときたらとにかく人が多いし、わたしはごく普通の剣道部のマネージャーだ。

 

「さ、これでよいでしょう」


つい自分の処置を忘れて紳士の手際に見惚れていた。
彼は手当てのおわったネコを保健室から裏庭に出る戸から出してやった。
ネコは振り返ってこちらを見てもう一度ニャンと鳴いた、ということもなく、外に出された瞬間、だっと走り出して物陰に消えた。


「さすが野良……」


大人しくても野性。


「動物は礼を言わないのがいいですね」
「え?」
「え、」

一瞬こっちを向いた紳士がきょとんとした。メガネで表情はよく見えないけど、空気が、きょとん。そして、少し照れくさそうに、


「すみません、一人言です」
「紳士って一人言も敬語なんだね」
「紳士…」
「あ、」

面と向かってあだ名で呼んでしまった。

「ご、ごめんなさい。友達でもないのに」


紳士は首を振った。いいえ、お気になさらず。どう呼んで下さってもかまいませんよ。 本当に?嫌じゃない? 本当に。嫌ではありません。


「……紳士、自分のケガ手当てしたほうがいいよ。血、落ちてるし」
「ああ、本当ですね。忘れていました」
「絶対ネコより痛いと思う…」
「そんなことありませんよ」
「ていうか、紳士、それテニス部のユニフォームだよね?部活中にネコの治療とかして……副部長さんに怒られたりしない?」


テニス部副部長の名前はわたしもさすがに知っている。真田くんだ。
わたしがマネージャーをしている剣道部の部員たちは体育の授業で軒並み彼に倒されていた。
剣道部が剣道でテニス部に負けるなんてありえん、と言うと彼らはそろって「あの目は人殺しの目だ」と言って悔しがるでもなく怯えていた。

他にも試合で負けたら鉄拳制裁とか、彼の拳には殴りダコがあるとか、学校の書類に判子の変わりに血印で持ってくるとか、黒い噂は耐えない。


「大丈夫ですよ。部活にはわたし自身の怪我の手当てでこちらへ来ていることになっていますから」
「いやそれ事実だよね」

ポタポタとたれる血にティッシュをあてがって、紳士はそれには答えず息だけで笑った。


あ、と思った。
なんかピンときた。けれどたずねてもいいものか迷った。
答えないということは言いたくないということで、そのために適当なごまかしをしないというのは、はじめてまともに会話を交わしたようなわたしに対してもこの紳士が誠実である、ということだ。(それでこそ紳士と言うべきか)

わたしは彼の誠実に答えるために誠実に沈黙を守るべきだった。
でなければ曖昧な笑みかあいづちを返すべきだったのだろう。
平たく言うと空気を読むべきだった。

結論から言うと、わたしは空気は読んだもののそれを無視した。
誠実よりも、首をもたげた可能性と好奇心を優先させてしまった。


「……もしかして、ネコがケガしてるのに気づいて、でもそれだけじゃ部活ぬけられないから、わざと自分でケガしたの?」


瞬間、紳士の顔が硬くなった。
わたしは背筋が少し震えた。
出すぎた。

 

気を悪くしたとしても声を荒げるという人ではない(と思っている)けど、このまま無言でいられたら気まずい。
いやちがう。それより、親しくもない他人の踏むべきでないラインを半ば以上踏むべきでないとわかっていたのに踏みつけにしたことが申し訳ない。恥ずかしい。頬の内側をそっと噛んで失態を恨む。


「うちの副部長には、内緒にしてくださいね」

紳士は顔を上げた。静かな笑顔。雨が降っても飛沫を上げない水たまりみたいだな、なんて一瞬思って、なんだその例え、と自分で呆れた。

「……それは、ええ、もちろん」
「すみません」
「わたしこそ、ごめんなさい」

何を言っているんですか、あなたが謝罪されることなんてないのですよ、と彼の笑顔が言う。

わたしはほっとしながら、何か引き攣れたような違和感がしていた。これでいいのかなぁ。よくわからない。
だからわかることだけ口にした。


「紳士は、優しいね」


普通、ちらっと見た野良ネコがケガしていたらここまでするだろうか。よほどのケガじゃないかぎり、しない。わたしなら。
わたしがさっきこけたとき通りすがった男子は声かけてくれたけど半笑いだったし、でもそれも別にあの男子がひどい子なわけじゃない。普通だろう。
サッカーボール落とした奴が謝りにこなかったのはちょっとひどいけど、まぁ、条件反射で「やべ!」って逃げたんだろう。気持ちはわかる。普通の範疇。


紳士は優しい。優しい人だ。
だけど、文字通りかすり傷の野良ネコのために、自分の腕をこんなにするなんていうのは、どうなんだろう。スポーツやる人の体なのに。
もしこれがうちの部員だったらわたしは怒る。(まぁ、うちの部に真田くんはいないので、普通に理由を言えば10分そこら抜けるくらい問題ないんだけど)

この優しさは、普通の範疇 ではない?
でも、優しさは優しさだ。普通も異常あったもんだろうか?


「わたしは優しくしようとしてこういったことをしているわけではないのです」


うんうん考え込んでいたわたしに紳士がふと言った。
強く吹いた風にコートがめくれて一瞬裏地が見える、というような、そんな風だった。

紳士は診療マットに座って傷口を消毒しはじめた。手伝いを申し出るまでもなく、器用によくやる。
わたしはその向いの丸イスに腰を下ろした。


「……それが本当の善行なんじゃないかしら」
「いいえ。しようと思ってするほうが真っ当だと思います。わたしは……それがよいことだと、思えないのです。やるべきものと認識して、行動し、処理してしまう。わたしにとってその行動に意思はなく、……そう、作業なのです」


紳士はこちらを見ない。
彼の真っ赤な血が脱脂綿に吸われて朱に染まっていく。
わたしも彼もその色を見ていた。


「作業じゃいけないの?結果として困ってる人が助かるんならどっちでもいいと思うけど」
「結果から見れば特に問題はないでしょう。ただ、どうにも後ろめたくて。わたしはお礼を言われることをしたわけではないし、言われる価値に値しません。落ち着かないのです。どうも、騙しているようで」


そんなことないよ、とゆるゆると条件反射で言おうとした自分の口をあわてて止めた。
そんなことがあるのかないのか、わたしは知らない。 彼は生まれたときから十五年自分を知っている。

同情を引き出したいわけでも、自嘲を晒したいわけでもない、ただ淡々とした事実を、たまたま言葉にする機会で言葉にしただけで、たまたまそこにわたしが居合わせた、という感じがした。

 

息のつまるような沈黙、ではなかった。
黙っているなら黙っているのが普通だし、話すならそれが普通。なんでも、別に。どっちでも。変な空気だ。
この人の、すべてを肯定しているような手放しの許容はなんなんだろう。

 

沈黙がはじまる前の紳士のセリフを思い返して、その抑揚、スピードをできるだけ正確に耳の中でリピートした。
そして言った。

 


「あなたが言うなら、そうなんでしょう」

 

紳士は拭って拭っても浮き上がる血の筋から目を切ってこっちを見た。
その顔はほっとしているように見えた。
この人は、罰を受けるのを待っているようだ。と思った。
罪人でもないのに。


もしかしたら、彼は自分以外はすべて許容するかわり、自分を許容する行為を放棄したのかもしれない。
それとも逆だろうか。自分を許容することができないから、それ以外をすべて許すのだろうか。


そこまで思って、猛然と自己嫌悪の揺り返しがきた。
馬鹿げている。
ふとした思いつきで人の心を計るなんて。
また、わたしは、浅ましい。

頬の内側を強く噛んだ。


紳士が音をたてずに笑った。ありがとうございますと、言っているようだった、と解釈するのは、傲慢、だろうか。

 

 

 

 

 

まだ止まらない血をそのままに、紳士は時計を見て「ではそろそろ、」と腰を上げた。血、大丈夫? ええ、もうほとんど問題ありません。 包帯は? そんな大層なものは、いりませんよ。

自分が落とした床の上の血をちゃんとふき取って紳士があっさり行こうとするのが少し寂しかった。
だから思ってもいなかったことを口にした。


「紳士、わたしのケガの手当ては手伝ってくれないの」

紳士は、また一瞬きょとん、として、それからこどものカードゲームにつきあってやる大人のように、おや、といたずらっぽく笑った。


「手伝いませんよ。手伝ったらあなたは礼を言うでしょう」
「言わないわよ。だって困ってる人を助けるのは当たり前でしょう」
「見たところあなたはそれほど困っているようには見えませんが」
「ええ、実はそれほど困っていません。さすがに背中を怪我したのなら紳士のお力を借りないわけにはいきませんが、何しろ足です。いつの間にかテニスボールのように腫れ上がっている足ですが、とにかく足です。手の届く範疇の事ですわ」


紳士はプッと吹き出した。「その、口の利かれ様」

「紳士に合わせて淑女然としてみたんだけど。これ、しゃべるの難しいね」
「慣れればどうということはありませんよ」
「慣れるほど邁進するつもりはございませんわ」
「大丈夫、本当の淑女というのはどんな口をきいても、何をしていても淑女然としているものです」
「わたし本当の淑女?」
「残念ながら、まだそれには及ばぬようですね」
「そのようですね。やはり生涯を修行の場としてせいぜい精進いたします」
「そうなさいませ」


紳士というよりそれじゃ執事だよ。

「いつか、背中を怪我したとき紳士に手伝ってもらうのが楽しみだわ。そのときはどうか居合わせてね」
「ご自分でうまく手当てできぬ折はいつでも呼んでくださってかまいません。が、背中はいけません」
「どうして?」
「淑女は肌を無闇と人目にさらすものではありませんので」
「わたしまだ淑女じゃないから大丈夫だよ」
「女性は生まれついての淑女ですよ」
「さっきと言ってることちがうよ」
「そうですね」
「……いつかまた保健室で会ったら、足と背中以外だったら手当てよろしくね」


しつこく言うと、紳士は笑ってからしかつめらしく口元を引き締めた。


「ええ、またの機会に」
「またの好機に、ぜひ」
「ぜひ。そのときまでお大事に、さん」


わたしはぽかんとする。やられた気分になる。紳士はもう笑ってる。 知ってたんだ、名前。 ええ、知っていましたよ。 なんだ。わたしだって、途中から思い出してましたよ。 そうですか。 そうですよ、「や」

彼の名の最初の発音に口を開くと紳士はそっと唇の前に人差し指を立てた。 クスリと笑って。




それではこれにて。

 

 

 

 

クスリと笑って出て行く彼の足下は茨か棘の茂る道にわたしには見える。
けれどその茨もその棘も、彼が種を撒き水をやり育てた呵責だ。
その愛しい生き物にどうかかれめ取られることがないように、と今だけわたしは彼の未来を祈る。
片足裸足で、その足は醜く腫れて、まるきり淑女じゃないけれど淑女のように胸に手を重ね。

 

 

 

ご武運を、紳士。