目の前で落ち着きなくおかっぱを揺らす向日が何か突然よくわからないことを口にした。 「は?」 「だーかーらー侑士だよ。あいつマジ聞いてねーよなー!親父さんだけ転勤して侑士は跡部ンちでも住めばいいんじゃんか。あっコレすげいい考えじゃね?」 「いやえっとちょっと待って、」 「跡部ンちなら侑士1人食わせるくらいわけねぇって!まぁでも跡部のことだからただ飯食いってことはまずないよな。靴磨き…鞄持ち…いや、あいつんち馬飼ってっからたてがみ梳かす役とかやらされるぜ絶対!で、多分最初は馬小屋とかで寝泊りさせられたりして……ププッ、だせー侑士!」 「いやだせー、じゃなくて」 「馬くせー侑士!うけるぜ!」 「くせーじゃなくて。うけるでもなくって」 今、君はなんつった? ヒュルリラ、と君が 昼休みに購買でたまたまぶつかった向日に話をされてからの授業は何も頭に入らなかった。ということはなく、いつも通りだった。 いつも通り一問もわからなかった。数学は苦手だ。多分生まれつきだ。三角形の定理を習ったときこんなものがこの先の人生でどれだけ役に立つんだと心密かに絶望した。しかし役には立つ。テストで点が取れるようになるし、授業中当てられて、隣の隣の席のメガネから小さな声で「35度」と答えをこっそり教えてもらわずに済むからだ。 やっとくもんだね三角形の定理。 「わかりません」とわたしは言った。座ってよし、と言われた。榊先生みたいな言い方はやめてほしい。 35度なんてクソ喰らえだ。平熱以下だ。この低体温野郎。 腰を下ろすときメガネ越しであろう視線を感じた。 無視してやろうと思って、無視をした。 その後で少し、ごめんと思った。 くそ。 授業がおわって、ホームルームがおわって、いつも通り部活の時間になる。 クラス内から「じゃーな」「またねー」なんて声がして、だんだん人が少なくなって、鞄を持って、忍足と廊下に出る。 今日も寒いね死ぬ、自分それ毎日言うてるな、だって毎日寒いし!、毎日死んでたら大変やろ、毎日生き返るから大丈夫、なんやホラーやな、なんてだらだらしゃべりながら部室に行く。途中で向日や宍戸と会えばいっしょに行く。跡部とはめったに会わない。鍵を預かる部長は部員の誰より早く部室へ向かう。 だけど今日は、ホームルーム終了の起立礼がおわった直後、ダッシュで教室を飛び出した。 まだ誰もいない廊下をまっすぐ走る。階段は三段ごとに飛び越える。こないだうっかり買ったワンサイズ上の上履きがパカパカ言っている。知るか。パカパカ言ってろ。 踊り場に着地したとき男子生徒の鞄に顔からぶつかった。 「あーン?」 やべ。跡部だ。 「?何やってんだてめぇは」 「う、運動……」 「ああ?」 やべ。眉毛寄ってるよ部長。 「いや、あ、たまには部長より先に部室開けとこっかなって!跡部、いつも一番で偉いね!跡部もやっぱりホームルームおわってすぐ走ってんの?」 跡部の眉毛が更に寄る。(アワワワめんどくせぇー)(しかしきれいな眉毛だな) 「偉くねぇ。当たり前だ。そんで走ってもねぇ。こんなとこで走って部活以外でケガしたら阿呆だろうが」 「ですよね……すんませんした。ケガないすか部長」 「お前にぶつかってケガするほど間抜けじゃねぇ。つか、部長て呼ぶな。気持ち悪ぃ」 「はーい。あ、でも今日は鍵、わたし開けるよ。たまには跡部ゆっくり来なよ」 「……どういう風の吹き回しか知らねぇが、マネージャーが仕事したいって言うのを止める理由はねぇな」 「(跡部は言い回しがほんと長いよなー)うん、じゃ行ってくるね」 「おう」 一歩、二歩走り出してふと思いついて振り返った。 「跡部、」 「ああ?」 「忍足が中学卒業したら転校するって知ってた?」 「…………」 「向日が知ってて跡部が知らないわけないか。じゃ、あとでね!」 「!」 止まるのが面倒で走りながら、なにー、と振り向いた。 走るんじゃねぇ、と跡部が怒鳴った。 跡部が投げられた疑問に沈黙で返すなんて、はじめて見た。 あんまり見るもんじゃないな。なんか怖い。あの部長にも予想がつかないことあったんだと思い知る。当たり前なのにそんなの。まだ中学生なのに。わたしたち。 角を曲がれば職員室。鍵をかりて部室に行く。部室で皆に会う。練習がはじまる。 とりあえずここまでは大丈夫。忍足と話さずにすむ。 角を曲がってまだ走る。職員室の前でワンサイズ大きい上履きが飛んだ。わたしはなんかステテン、という感じに転んだ。 強打した右ひざの皿が赤い。転んだのなんて久しぶりだ。 跡部に見られなくてよかったと、心底思った。 部活中も忍足を避けてたら跡部に「ちょっとこい」てコートわきに呼び出された。 吐く息が白い。みんな動き回ってるけど、赤くなった膝子増が寒々しい。 全国大会が終わって3年が名目上引退したのに2月になっても部活に出続けているのは、高等部でテニスを続けるのに体をなまらせないための氷帝テニス部代々の慣習だ。 長太郎は嬉しそうだけど、日吉あたりはけっこう露骨に「目の上のタンコブですよ」「て俺は思ってますよ」みたいな態度を取る。つまり引退前と変わらない。 二人は正反対に見えるけど、実はけっこう似てるんじゃないかとたまに思う。 とか、日吉に言ったら多分すごい目で見られそうだけど、なつくのとつっかかるのって人を必要とする点で同じさみしがり、なのではなかろうか。 とにかくどっちもかわいい後輩だ。 この2人のどっちかが多分次の部長になるんだろうなー。日吉もだいぶ伸びてきたしなー。そんでどっちかが部長になって、残ったもう一人と樺地が副部長になるんじゃないかな。 「……おい、聞いてんのか」 「っえ」 「……てめぇ。いい度胸してるな」 「やめてごめんそんな人でも殺してきたような目でにらまないで。わたしが悪かったです」 「…………わかってんだろうが。ガキみてぇにわかりやすい無視してんじゃねぇ」 「え、誰を?」 「わかってて聞くんじゃねぇ」 「………………無視されたのわたしじゃん」 「ああ?」 「なんでみんな知ってたのにわたしだけ知らなかったわけ?なんでわたしだけ向日からみんなもうとっくに聞いてる前提の話で聞かされなきゃなんなかったのよ。無視されてんの、わたしでしょ」 「てめぇ何でそんな怒ると早口になるんだよ聞き取りづれぇ」 「ジジィ耳」 跡部は今、たった今、人でも殺してきたような目でギロリとにらんだ。眉毛も寄ってる。(やっぱりキレーな眉毛だ) 「……とにかく、聞きたいことがあったら忍足に直接聞け。露骨に差別してんじゃねぇぞ。部活の空気考えろ。わかったか」 「…………」 「、返事は」 「………………………………………(ウンコ跡部)」 「……いい返事だ。忍足!!練習上がれ。と修理に出してたラケット二十本取ってこい!」 「え!」 すぐそばのシングルスコートでジローくんと打ち合ってた忍足が急に大声で呼ばれたもんだからポカンとしている。 跡部はあごでとっとと来いと合図して、わたしを見もせず 「誰がウンコだクソ野郎」 歯軋りしながらおっしゃった。 部長といえど一生徒にあそこまで権力を持たせるのはどうかと思う。 あと、死ねブルジョワ!とちょっと思う。 それと跡部もやっぱりウンコって言うんだなって意外に思う。 いつもなら、思うだけじゃなく「ねー」「なー意外やわー」なんて話してるんだろうけど、今は思うだけだ。 わたしたちは並んでたらたら歩きながら、さっきから無言でいる。 忍足はちらちらこっち見てくる。いいかげんキモイので7回目で「なに」と声だけ投げた。 「 、あんな…………あー、転校のことやけど。黙ってたんは、悪かったと思っとる。ほんま、堪忍してや。別に、だけ無視したとか……ほんまそんなんちゃうから」 さっき跡部と話してたの聞こえたのか。 思わず舌打ちしたら忍足の顔がちょっと強ばった。しまった。けどちょっとざまあみろだ。ああでも、 「……無視されたって、本気で思ってるわけじゃないけどさ。なんでわたしにだけ教えてくれなかったの?みんなにはいつ話したの」 「うん、みんなには先週の火曜くらいやな。跡部には高等部のテニス関係のことで言わなあかんかったし……ほんでみんなにも。はそん時……」 「わたしはその時、委員会で遅れてたね」 「……そうやった」 それが理由になることだろうか。 それに、そんな重大発表があったらその日は部活終わりも忍足の話題で持ちきりになりそうなのに、わたしが遅れて合流してからもみんな「転校」なんて一言も漏らさなかった。 それはもう、わざとだ。 「……なんで口止めしてたの」 向日の今日のあれはうっかり口を滑らしたのか、さすがにもうわたしも知っていると思ったのか。 だって今日は金曜だ。先週の火曜って、遠すぎ。日にち経ちすぎ。 向日なら素でうっかりも充分ありえるけど。 「…………には、なんや言い辛うて。出来たら、出来るだけ言わんですんだらええって思っとった」 「なんでよ」 忍足は前見て歩いてる。だるそうに丸めた猫背でたらたら。 横から喉仏が上下するのが見えた。咳こむように忍足が笑った。 「とおんの楽しかったし、出来るだけ普通でいたかったんよ。同じクラスやしな」 「……そんなの」 「ほんま、勝手ですまんかった思ってる。この通り、堪忍してや」 胸の前で両手を合わせて忍足は頭を下げた。 そうか、ドッキリじゃないのか、とやっとわたしは「忍足は転校する」、と脳の中に書き込んだ。なんだ。本当なのか。 「……お父さん転勤って、なんで?お父さんお医者さんじゃなかった?」 「やーそれが、オトン大学病院勤めててな。派閥争いに負けよったんよ!支持してたほうのセンセが院長選挙に負けてん。リアル白い巨塔やわ。忍足センセの総回診とかあんねんで。いやないけど。オトン、もー新院長に目の仇にされて、最初は香港に飛ばされるっちゅー話やってんで!香港て!通貨なんなん!ウォン?元?ドル?」 「返還したから元じゃない?」 「それを土下座して回避してな、やっぱり土下座は文化やね、偉大やね、ほなら北海道で勘弁したるわーちゅーて。わーよかったわ北海道なら通貨変わらへんわーちゅーて。これでも落とし所やねん北海道」 「時差もないしね」 「そやねん!」 少し笑ってやると忍足は安心したようににこりとした。 「北海道なんだ転校先……北海道といえば……どさんこ……?」 「どさんこ侑ちゃんやわ。札幌てどんなとこなんやろか想像もでけんわ侑ちゃん……寒死にしたらどないしよう。東京もん言うていじめられたらどないしよう。いや元々は西の生まれやけども。伊達メガネなんか割ったるわ言われたらどないしよう。先に自分で割っていったほうがええかしら。これが僕の気持ちです仲良うしたって下さいて。どうかしら。なぁ」 コフコフコフ。忍足の笑い声はくぐもっていて咳こんでいるよう。ひどく耳障り。 「そうね、メガネは先に割っていくより目の前で叩き割ったほうが誠意が伝わるかもしれないわね。そしてレンズのなくなったフレームをかけて、曇りなき眼で見定める!て言ったら印象上がるかも」 「ほんまにそう思とる?なぁ。なぁなぁ。ほんなら試してみよかなぁ」 コフコフコフ。 適当に上の空で喋りながら、忍足の笑い声を聞きながら、北海道札幌に引っ越した忍足を想像していた。 多分転校先でも忍足はうまくやる。だらだらと日々を過ごして、いつの間にか土地に馴染んでラーメン食べて「やっぱりご当地やんな!札幌ラーメンうま!」季節のイベントにも「楽し!雪祭り楽し!」なんつってはしゃいで、うさんくさい関西弁のくせにずっと前からそこにいたように。 ここでそうだったように。 「?どしたん急に止まって」 ここが居場所だったのに。 向こうに行ってもこっちがなかったことになるわけじゃないし、切り捨てられるわけじゃない。 こっちもあっちも、忍足の居場所になるだけだ。一分の一が2つで二分の二になる。 でも約分したら結局一分の一で過去になった今は現在になる未来に勝てやしない。 忍足に言ったら「数学できんくせに例え話に数字持ち出すんやないよ」と笑って呆れられそうだ。けど。 きっと一年後同じ季節に、そういえば、なんて思い出されるのだろう、わたしたちは。 くそ。 どうしてこんなに寂しくなるんだろう。たかが忍足なのに。 「 ? 腹でも痛なった?」 猫背をさらにかがめて顔を覗き込んでくる。メガネのレンズが西日の光をチカリと弾く。 少し心配そうに目を細めて、でも深刻になりすぎないよう、いつでもおどける準備を用意している心配性。 この男が「氷帝」の「テニス部」から出て行く。ということは。 共同体を抜け出て、二度と忍足のことを「わたしたち」とは呼べなくなる。 いっしょに練習して、試合して、反省会して、帰りにアイス食べて焼き芋食べて、合宿して、宿題写して、掃除して……そういうことをもう二度といっしょにすることがなくなるということだ。 完璧に。急に。一切が。 転校してここを出たら、次会うとき忍足は部外者だ。 「わたしたち」の中にいた忍足はどこにもいなくなる。それ以外の忍足なんて知らないのに。他人の中にいる忍足なんて、忍足に見えない。そんなのは、 「、マジでどないしたん、気持ち悪いん?」 「ここからいなくなるならもう会いたくない」 「へ?」 「転校したら忍足にはもう会いたくない」 「……」 「メールとか電話も嫌だしどっかの試合会場でもし会っても話したくない。もう嫌だ」 「……なんそれ。どゆことやの。顔も見たないって、随分ひどない?」 ちょっと笑いながら言ってるけど、忍足が怒ったのがわかった。 「氷帝のテニス部じゃない忍足なんて知らないし、知りたくない。会ってももう同じじゃないのに、同じようになんてしゃべれない。しゃべりたくない」 「……学校変わったらもう他人て?びっくりするわ。なんなん、まだ怒っとんの?」 「もう怒ってない」 「ほんなら、他に俺なんかお前の気ぃ悪くすることしたか?さっぱりわからんわ」 忍足が近づいてきた。嫌だ。思いっきりひっぱたいてやりたい。 「わかんなくていい。もういい」 近づいた分後ろに下がると、忍足が中途半端に伸ばした手をゆっくり引っ込めた。 「……なんでそんなんいけずばっか言うの。どこにいたって俺は俺やし、氷帝におったことも変わらんやん。そんなん、氷帝テニス部じゃなくなったらもう会いにくるなて……」 引っ込めた手にぐっと力をこめたのがわかった。骨ばった拳に筋が浮かんだから。 あの拳の中の手に今までどれだけマメができてつぶれたのか。これからどれだけまたそれを繰り返すのか。 あの手で殴られたら痛いんだろうな。ああさっきから手ばかり見てる。顔が見れないから。嫌だ、わたし。気持ち悪い。 「……言っとくけど、より俺の方がずっと寂しいんやで。全部ここに置いていかなあかんのに。好きで出て行くわけちゃうわ。俺かてここにいたいわ。けど、しゃあないやろ。親の都合や。嫌かってほんまに跡部んち住むわけいかんやろ。馬のたてがみ梳かして馬小屋に住むのもなんや楽しそうやけど、道理が通らんやろ。しゃあないわ。せやのに、なんでそんなに怒られなあかんの。そんで、なんで泣くん。泣きたいのは俺の方やわ」 「泣いてない」 「泣いとるわ」 「泣いてるのは忍足でしょ」 「俺かてちょびかし泣いてるけどお前のが泣いとるわぼけ。つか、俺お前に泣かされてんねんぞ。お前のせいや、 」 「忍足、泣いてるの、キモイ」 「知るか。キモガれや」 ずっ、と鼻をすすって忍足は背を向けて歩き出した。 踵の靴底が磨り減ったローファーが視界から出て行く。 ついて行かなきゃと思ったけれど、足に力がうまく入らない。 いきなり顔に柔らかいものが投げつけられた。ハンカチだった。 「汚いで拭いとけ。顔面」 チーンと思い切り鼻水をかんだ。 「……どこのお姫さんやほんま」 呆れ返った低い声がして、手を掴まれた。そのまま引かれて縦並びで歩く。 忍足の手は骨に直に触っているように冷たい。肉が薄い。多分幸も薄い。マメだらけで硬い。その手の平が小刻みに震えていた。ああ。本当だ。忍足は、寂しいんだ。くそ。それならどうして、もっと寂しそうにしててくれないんだ。くそ。ああ、もう。こんなに、こんなに寂しいくせに。 涙と鼻水をずるずるとハンカチで拭きながら、「傷つけてごめん」と謝った。 コフコフコフ、と喉のなる音がした。 「あんな、」 「ほんまはな、転校すんのしゃあないてわかってんねんけどな」 「にだけはしゃあないて言われたなくて、黙っとったんよ」 「岳人にまで口止めしてな。やっぱしあいつから漏れたけど。まあ、それもしゃあないわ。岳人やもんな」 「せやから謝らんでええよ」 「ちっと嬉しかったわ」 笑っているのかと思ったら、ほんとに咳き込んでいた。コフコフ、と忍足が涙をこらえている。 わたしはマメだらけの硬い手の平に爪を立てた。 「忍足、」 「ん?」 「卒業式の日に、告ってきたり、しないで、ね」 「あほ。告るんなら今告っとるわ」 忍足の手はまだ震えていた。 |