「若、ちょっと手伝って」


家に帰るなり母さんに言われた。 何事かと思う間もなく台所で山積みになっている梅の実を見て、ああ、と把握する。
梅仕事だ。もうそんな時期か。


「忙しいので」


しれっと逃げられるかと思ったが、


「若も飲むでしょ、梅ジュース」


自家製のシロップを割ってつくった梅ジュースは美味い。炭酸で割るのも乙だ。梅には疲労回復成分も豊富だし、これから暑くなるばかりの季節には重宝する。
毎年六月の初めに仕込み、夏の真ん中には飲み切ってしまう。


「……飲む」
「なら手伝って」


そう言われると従う他ない。

手伝うが、兄はどうなのだという目つきをしていたのを母は読み取り、「お兄ちゃんは梅取ってきたから。若は洗ってヘタをとってちょうだい」と言った。
脚立を立てて庭の木から実をもぐより実からヘタをとる方が格段に楽だ。

わかったよと荷物を置いて、流しの前に立つ母さんの横に並んだ。


山になった梅の実を母さんがボウルに空け、まずザッとため洗いをする。仕上げに流水で流し、眼前のザルに寄越す。俺は清潔なさらしで実を拭き、奥のザルに移す。

黙々とそれぞれにその工程を繰り返す。
思考の入る余地のない単純作業に集中しているというのでも、散漫になっているのでもない、意識の空白が脳に広がっていく感覚を覚えて、それが存外面白い。
世界には梅の実と自分の手だけがあり、手の中の果実を傷つけず水気を拭き上げるためだけに自分が存在しているような錯覚だ。

やり始めて、ああ、去年も同じことをして同じことを思っていたなと思い出す。
ただ手を動かし、水を拭きとる。
繰り返す内、梅の懐かしいような甘い匂いが台所にこぼれて家中に広がっていく。



水を拭いた梅のヘタを竹串で取り、ガラス瓶に氷砂糖と交互に詰め、発酵止めに米酢を回しかけ、最後にパッキンをしっかり締めて蓋をする。
やってることは単純だが量が量なので終えるとそれなりに達成感があった。


「おつかれさま。ありがとね。若は仕事が丁寧だから助かるわ」


母さんに言われ、梅拭いたりヘタ取るだけに丁寧とかあるか?と思ったが、礼を言われて悪い気はしない。


「三週間もすれば飲み頃かな。たくさん作ったから小瓶に分けて誰かお友達にあげたら?」
「梅のシロップなんてわざわざ分けるほど特別なものでもないだろ」
「まあ、そうだけど。でも特別じゃなくても若これ好きじゃない。自分が好きなものをあげたい相手とかいないの?」


今時そんなのは自己満って言われてむしろ嫌がられるんだよ母さん。
と言おうとしたが、多分母さんにはわからないだろう。
適当に首を傾げて、二階の自室に上がることにする。
大体、中二の男が自家製の梅シロップを誰かにお裾分けするなんてかなり高いハードルだ。それを跳ぶには渡す相手とかなり親密な距離が要るんじゃないか?

まあ、うちのシロップでつくる梅ジュースはひいき目なしにかなり美味いから、こういう手仕事の食べ物が嫌いでない人間、かつ、あまり深い意味を考えずに単純に美味しい、うれしいと喜んでくれる人間がいれば、渡してやるのもやぶさかではないが。



…………。


階段を上りながら考える内、具体的な相手が浮かんでしまって気が重くなった。
いや、自分自身に白状すればそも具体的な相手が先に浮かんだ前提での条件づけだった。


「…………」


先輩は好きだろうか、梅のシロップ割り。
自室のベッドに腰を下ろし逡巡する。
聞いてみるかとスマホを取るが、連絡用アプリを立ち上げる前に手が止まった。
聞いてみて、好きだと言ったら俺は渡すのだろうか。


自分の好きなものを相手も好きになってくれたら、おそらくうれしいと思う。
この家の庭で生り、手をかけ、寝かせたものが喜ばれたならきっとささやかな誇らしささえ感じるだろう。


……なんだこの感情。

別にそれを誰に気取られたわけでもないのに気恥ずかしい。
いや違うのだと無暗に言い訳したくなる据わりの悪さに舌打ちする。そもそも何も違わないし自分以外に自分を糾弾する者もいないのに。


手渡す場面を他の先輩たちに見られたら、とか、みんなももらってるの?と先輩に聞かれたら、と都合の良くない想定が次々に浮んでくる。
別に、やましいことをしているわけじゃなし、考えすぎなのか? 自意識過剰なのだろうか。


……本当に先輩に渡すならあの人たちにも渡す方が安全だろうか、と3年レギュラーの面々に配ることを考える。
…………まあ、そう迷惑がられることもないだろう。と思う。自家製を茶化すような品性に欠ける人たちではない。
なら、そうだな、渡してみるか。
宍戸さんあたりはけっこう気に入りそうでもあるしな、梅ジュース。


決めてしまうと途端に気が楽になった。
いつだったか、向日さんが家で揚げたからあげを大量に持ってきて皆で食べたこともあるし、跡部さんが庭の木からとれた栗を箱一杯部室に置いて「欲しいやつは好きなだけ持っていけ」と張り紙をしたこともある。(からあげはうまかったし、栗は持ち帰って栗ご飯にしてもらった。うまかった)
部活への差し入れという形なら、別に何でもない普通のことだ。


スマホは手の中でスリープに入って暗く沈んでいる。


シロップが完成するのはこれから約三週間後だ。
何も今焦って連絡することもない。
渡す当日に持っていって気負いなく「よければ」と差し出せばいい。
苦手な人もいるかもしれない。嫌いでない人だけ受け取ってくれたらいい。
欲を言うなら、先輩が美味いと言ってくれるといい。
あの人は大概のものは何でも美味いと言って食ったり飲んだりしているが。
本当にその他のことは何も考えず、勘ぐらず、ただ味を気に入ってくれたらいい。


自分が好きなものをあげたい人とかいないの?
と言った母さんに、大分遅れて、まあ、いる。それなりに。と胸の内で返事をした。





日吉の梅仕事