階下に下りて行くとキッチンに明かりが点いているので少し驚いた。


「せーちにーちゃん?」


呼ぶと、人影は振り向いた。


、どうした。眠れないのかい」
「うん、ちょっと……。なんだか目が冴えて」
「明日、起きるのがつらくなるぞ」
「うん……。せーちにーちゃんは?」


せーちにーちゃんはコンロに小鍋を沸かしているところだった。


「俺も最近あまり寝つきがよくなくてね。不眠にはホットミルクが効くって柳が言うものだから、試しに。も飲むかい」


うん、ほしい、と返事をすると、小鍋に牛乳を足し、せーちにーちゃんはキッチンの小さな明かりの届かないソファに腰を下ろした。


四月といっても夜はまだ冷える。
ヒーターをつけようかと思うけれど、家族みんなが寝静まっている中でははばかられた。


わたしは肩にかけてきたストールをきつく巻きつける。



明日は立海大付属高校の入学式だ。
この冬、無事受験に受かったわたしと内部進学が既に決まっていたせーちにーちゃんはそろって新一年生になる。
そして、この春休みから三年間、立海に通う間、わたしはこの幸村の家に居候させてもらうことになった。

当初は寮に入る予定だったのに、母の「幸村の家おっきいし部屋あまってるし、何よりみんな歓迎してくれてんだからいーじゃなーい!」の一言に押し切られてしまった形になる……。

たしかに、幸村のおじさんもおばさんも優しいし、せーちにーちゃんの妹、なっちゃんも懐いてくれて喜んでくれている……のだけれども……。



正直気が重かった。
お正月に学校見学で泊まりにきた時のあのやりとりで、せーちにーちゃんとの空気はなんともお かしなことになってしまっていた。

他の人のいる前では普通に振る舞えるけど、二人になると何をどう話しても互いに核心に触れるような、というか触れてしまいたくなるというか、すべてなかったことにしてしまいたくなるような。
もうこれはわたしの一方的な気づまりでしかないのかもしれないけど。
せーちにーちゃんは本当はもうあの時話したことなんて異次元の彼方のダンボールに詰めて記憶から削除しているのかもしれないけど。


けど。
……けど、だ。


わたしは相変わらずこの人のことが好きなのだ。


これ以上、一歩も前にも後にも進めなくても、煮詰まりすぎて元あったものが何であったか判別のつかないけし炭になってしまったとしても、今のところこの「好き」は「好き」のまま処理する宛てが見つかりそうもない。



(せーちにーちゃんに彼女ができたら、もういいやってなるかなあ……)




「は?」




不意に暗がりのソファから声が響いた。せーちにーちゃんだ。


「え?」
「……一人言っていうのは、一人で言うものだと、俺は思っているんだけどね」
「わたしもそう思うけど」
「それじゃ俺は、耳が悪くなったかな。それとも寝つけないと思っていたけど今一瞬実は眠っていて夢でも見ていたのかもしれないね。俺に彼女ができたらなんだって?」
「えっ………………(な に そ の 聞 き 方 ! こわい!)……いや……あれ? わたし、今の声に出てた?」
「わからない。よくわからない」

暗がりの中でもせーちにーちゃんがかぶりを振っているのがわかった。

こわい。(ごめんなさい)

「ご……ごめんなさい……」
「ドラマとかじゃよくあるけどね。こういうの。まさか本当に思ったことを気づかないまま垂れ流す人がいるとは。いっそ実はお前が懐深く隠し持っていたあざとさ?からのわざと?の演出の方がまだ気が治まるというものだね」
「ご…………!ごめんなさい……(ヒイイ)」


せーちにーちゃんのいつにない早口が恐ろしい。

わずかな間の後、短いため息とソファに沈みこむ柔らかい音がした。

「馬鹿の相手は疲れるよ」



(一人言返し……!?)


せーちにーちゃんはご立腹だ。当たり前だ。
わたしが逆に今「に彼氏ができたらもういいかなあってなるかもね」と言われていたら、ショックだしつらい。
申し訳ない。

ちなみにこれは弁解でなく説明だけれど、「せーちにーちゃんに彼女ができたら、もういいやってなるかなあ……。」はその文脈の前に「なるわけないけど」とついて、本文をはさんで後ろには「絶対無理」、で一段落終了、みたいなそういうあれだから……!
潔くせーちにーちゃんの幸せを祝いたいけど、多分できない自分アーメンみたいなそういう……!



て、今この全部を言いたい……!けどもう空気が重すぎて……!



結局、そのままわたしたちはどちらも氷鬼でもしてるみたいにぴくりとも動かなくなってしまった。
コンロの上で鍋が煮立っている音だけが場違いに薄暗いキッチンに響いて……、ってあれ。


「せーちにーちゃん、牛乳沸いてるよ!(多分けっこう前から!)」
「牛の乳なんて沸かしておけばいいんだよ」
「う……牛の乳……!いやたしかにそうなんだけど……、の、飲もうよ……せっかくだから……」


食器棚から二人分のカップを取って、ホットになりすぎたミルクを注いで、自分のカップを左手、せーちにーちゃんのカップを右手に持って、ソファへ近づく。


「はい……。熱いから気をつけてね」


差し出したカップをせーちにーちゃんは取ろうとしない。


「……えっと…………さっきはごめんね」


「今、話しかけるな」


せーちにーちゃんは片手で顔を覆って、もう片手でしっしと弁当からこぼれるお米を狙う鳩を追い払うように手を振る。


これは……簡潔にして明確、その上完璧な拒絶だ。
これは、もう、今言うしかない。
今言ってもかなり弁解ぽいけど、後回しにしたらそれこそ信じてもらえなくなる!



「あの……えーと、ちなみにこれは弁解でなく説明だけれど、さっきの、「せーちにーちゃんに彼女ができたら、もういいやってなるかなあ……。」はその文脈の前に「なるわけないけど」とついて、本文をはさんで後ろには「絶対無理」、で一段落終了、みたいなそういうあれで……潔くせーちにーちゃんの幸せを祝いたいけど、多分できない自分アーメンみたいなそういうことだから……!うおっ」


うおっ、てなんだ、うおって思ったら、それはせーちにーちゃんにいきなり抱きつかれて驚いた自分の反射的な声だった。



「………うおっ、て……」
「……いや、びっくりした……ので」
「色気も何もあったもんじゃないね、お前は」
「いやその……本当に突然だったので……」
「あーあ……」



せーちにーちゃんがわたしの肩口でため息をつく。
彼の腕はわたしの首周りにゆるく巻きついている。

残念ながらわたしの両腕はカップを二つ持ったきりなので、せーちにーちゃんを抱きしめ返すことはできないんだけど、これは……



「これは…………」
「なに」
「わりと、夢にまで見たパターン、かも」
「……は?」
「…………だって、いいじゃん。夢くらい、見ます。わたしも。女子なので……」
「……お前ね……」


せーちにーちゃんの声は呆れて掠れて、うんと細いため息のようだった。

「俺は、お前にだけはこんなことはしたくなかったよ」


そうかな、と思ったのでそう言った。そうかな。


「わたしはけっこうこういうの悪くないと思うけど」
「…………」
「もっと素直に言うと、断然いいよ。大オッケーだよ、せーちにーちゃん」

せーちにーちゃんは、

「この世で一番の大馬鹿を見つけてしまった」

わたしの耳元でうんざりとささやいた。


「……せーちにーちゃんはとりあえず、努力しなくても手に入るものがあるってこと、そろそろ知ってもいいんじゃないの」
「……お前のくせに、一丁前の口をきくもんだね」


せーちにーちゃんはズッ、と鼻をすすりながら、いつも通りの尊大な態度を崩さない。
けどわたしにはわかるのだ。

ああ、これを言ったらきっとこの人のプライドにとても障るのだろうけど。
だめだ、わたしは言ってしまう。
しかも、少し笑ってさえいる。
だってせーちにーちゃんは今、なんだか五つか六つのこどものようだ。


「ねえ、なにも、泣かなくてもいいんだよ。こんなことで」

「…………お前が今俺を笑ったこと、墓場に入っても忘れないでいるよ」


それは怖い。
そしてかなり、うれしい。


「せーちにーちゃん、ミルク冷めるよ」
「にーちゃんてもう呼ぶな。お前とは一滴も血なんてつながってないんだからね」


せーちにーちゃんの腕はまだ解かれない。
体を離したら、泣いた顔が見えてしまうからだろう。


わたしは思わず、また笑ってしまった。


両手の中で冷めていくミルクがなければ、わたしもこの人を抱きしめられるのにと思うと少し残念だったけど、彼の体はあたたかく、健康で、慕わしく、もうそれだけでよかった。充分だ。 充分だった。




ミルククラウン