落ち込むと蓮二に会いたくなるのはいつものことだ。 「おっぱい触られた」 と言うと蓮二はいきなりうんざりした顔をした。 こんな時間に呼び出して第一声がそれか、と言いたいのだ。 目を伏せたままで、表情があまり変わらなくてもわかる。 蓮二の疲労感ただいま増量中、と頭のどこかで冷静なわたしが解説する。あー、疲れてる、これは疲れてますね。なにしろ部活帰りですからね、柳選手。 そして寒いしね。 一月の末ですからね。もうそろそろ夜十時を回りますしね。そら顔見たそうそう「おっぱい」言われたらうんざりもしますよね。 「一体何の報告だ」 「被害報告」 けげんそうに眉をひそめ、痴漢か、と問う蓮二に首を振って答える。 「彼氏に。あ、もう彼氏じゃない別れた」 二秒後、蓮二は、ああ、とうなずいた。たったこれだけの言葉で事情を汲んだらしい。 「劣情を催した恋人に性的接触を図られ、拒否の意を示したらふられた、ということか」 と いうことだ。友よ。 「察しが早くて助かります」 「お前の恋人が手の平を返す早さには負けるがな」 「元・恋人ね」 低い声で訂正すると蓮二は嘆息した。外気に触れたそれにすぐに白く色がつく。 「それで、どうしてほしい」 してほしいことはいつも決まってる。 「乗せてください」 蓮二が再度嘆息する。白く色づくそれには、今度はわずかに笑みの気配が滲んでいた。 「ああ、わかった」 こういう時、落ち込んでいる時、決まってわたしは町内を一周、蓮二の自転車の後ろに乗せて回ってもらう。 小学五年の時、蓮二が近所に越してきて友達になって以来いつのまにかパターン化していたこの慣習に、久々に今日は頼りたい。 蓮二の自転車はママチャリだ。 もっとかっこいいの、たとえばクロスバイクとか乗らないの、といつか聞いたら「前にカゴがないと買い物がしづらい」と言っていた。主婦か。 蓮二にクロスバイク乗られるとわたしも後ろに乗っけてもらえなくなるから助かるんだけどね。 「乗ったか?」 「乗った、よー」 黒いママチャリの荷台に後ろ向きにまたがりながら答えると、蓮二はゆっくりペダルを漕いで進みだした。 わたしの背に蓮二の広い、まっすぐ伸びた背中が合わさる。この人の背筋はわたしと違っていつでもピンと伸びている。 進行方向をさかさまに、わたしに見える景色が流れて行く。 これが好き。 わたしは座ってるだけなのに、どこかに吸いこまれていくみたい。 「ちゃんとつかんでいるか」 耳の上から降ってくる蓮二の声。 つかんでるよー、と言いながら、荷台の端っこを握り直す。 「いつだったか、お前を落としたことがあったな。あの時は胆が冷えた」 懐かしい話をする。 「あったねー。小学校の卒業式の日だったよね」 「あの日もお前は落ち込んでいたな」 「そう。卒業するのさびしくてさー」 当時わたしは飼育委員をしていた。 友達とはこれからも会えるが、卒業してしまえば毎日面倒を見ていたウサギのセーラやエルザと縁が切れてしまう。あれはさびしかった。 「人の背中でメソメソしつこく泣いていたかと思ったら、急にペダルが軽くなって」 「そう。涙をふくんで手を離してたら、落ちたの」 「落ちてさらに泣くかと思ったら」 「びっくりして泣きやんだ」 蓮二と小さく笑いあう。 「後に残る傷ができなくてよかった」 「まあ、消えない傷なんて実はけっこう他でつくってたりするからね。あの時できてても別に気にすることないよ」 「そういうわけにもいくまい」 「別に、深窓の令嬢てわけじゃないんだからさ」 蓮二は言葉を返さなかった。 けど考えは譲っていない。 この人は小さなことでも意見を競わせることをあまり好まないから、こういう時声をそひめるけれど、黙ったままで、笑ったままで、頑として「そういうわけにはいくまい」、なのだ。 女子たるもの、というわけだ。 律儀だなあ。 武士道なんだか騎士道なんだか茶道なんだか知らないけどさ。 柳蓮二は礼を重んじ、道を知る。 齢十五にして、老成しすぎてやしないかい、蓮二。とわたしは余計なお世話でたまに気にかかる。 「ねぇ。蓮二もムラッとすることってある?」 だしぬけにたずねた。 それでも蓮二の繰るママチャリはわずかも軌道を揺らさない。 「唐突だな」 「今ふと気になった。なんか、そーゆー……」 「今日お前の恋人が催したような?」 「元・恋人ね」 低い声で再びの訂正。 蓮二はすぐにはしゃべらなかった。 わたしは蓮二の背中に体をあずけ、空を見る。 冬の夜空は冴えて遠く、天井に無数に穴が空いたみたいな星がちらちら、きらきら、点滅でこちらに合図するように瞬いている。 思わず、点滅につられてわたしはまばたきをする。 「なかったらどうする」 なかったら? 蓮二がムラっとすることがなかったら。 「…………心配になる」 健全な男子としてそれでいいのか。世の中悟りすぎてはいないか蓮二、とわたしは気を揉むかもしれない。 「あったらどうする?」 あったら。 蓮二がムラっとすることがあったら。 では安心するかと問われたら。 「…………………………………わかんない」 そんな蓮二会ったこともないし、これからも会わないだろう。 想像もできない。 できないが、いつか蓮二にも好きな人ができて、その人の胸を触りたいと思って、そうする時が必ずくるだろう。 でもわたしにはそういう蓮二は、見えない。 だから、 「…………わかんないなぁ」 ふいに自転車が止まった。 振り向くと蓮二が首をひねってわたしを見ていた。 「今している、と言ったらどうする?」 不敵めいた言葉と裏腹に、ひどく穏やかに蓮二が口元で笑んだ。 わたしはゆっくり瞬いた。 どうする。と問われても。 「わかんない」 「そうか」 「……でも、今蓮二に胸を触られても、少しも怖くない、かなあ」 考え考えに言葉を継ぐと、蓮二は眉を寄せた。 「少しは怖がったほうがいいぞ」 そして、また自転車を漕ぎだした。 わたしは連二に背中をあずけ、真上の夜空に目を向ける。 ゆっくりゆっくり蓮二のママチャリは町内を一周して、もうすぐうちの家の前についてしまう。 蓮二はいつまでわたしのこの落ち込んだ時の慣習に付き合ってくれるだろう。 彼女ができたら、もう無理だな。 その前に、高校にいったらきっともっとテニスで忙しくなるから、絶対無理だ。 蓮二は夏で名目上引退したのに、こんな時間まで残って自主連するくらいテニスをがんばっている。 「そんなにテニス好き?」 蓮二はそれには答えなかった。 ただ、沈黙の内にやわらかな肯定が滲んでいた。 好きなんだろう。蓮二はテニスが心から。 わたしが元恋人を好きだと思っていたよりも、もっとずっと、強く強く、好きなんだろう。 いつか、蓮二のテニスが「好き」、に肩を並べられるくらいの「好き」がわたしにも見つかるだろうか。 ピンとのびた連二の背中に自分の背をまっすぐ沿わせて、夜気を吸いこむ。 間もなく自転車はスピードを緩め、蓮二の靴が路面に接地する。 その時まで、星の瞬きをあと何度数えられるだろう。 |