6時間目の理科でビーカーを割った。謙也が。 普段なら「ぎゃー!」と飛びのいてすまん!の嵐でほうきとちり取りでジャカジャカ音をたててあっという間に掃除するはずなのに。 「…あ、悪い」 ぼーっとした顔で、のさのさガラスの欠片を素手で拾おうとするので慌ててその手を叩いて止めた。 「テニス!」 選手が手に怪我したらどうする、と、勢い、思ったより高い音が出て自分でけっこうおののいた。 言ってる自分が叩いて痛めたらどーする。(女子の平手でどうかするほどやわな手してないだろうけど) 当の謙也はさすがに目を丸くして、元ビーカー、今こまごなガラスから手をひっこめた。 「すまん」 いやそれはこっちのセリフ。 「ごめん」 謝り返すと謙也はちょっと首をひねってみせた。なにがや。 いや、手。叩いて。 指さすと、ああ、と赤くなった手の平をぶらぶらと揺らした。 そこでチャイムが鳴って、謙也とわたしは理科室掃除を命じられた。 まさかの連帯責任……!(ノー!)いやいや、ではなくて、先生も謙也がいつにもなくぼーっとしてるのを見てとったんだろう。 廊下に出て行くクラスメイトたちの中にこっちに向かって軽く手を上げている男子生徒がいた。 白石だ。笑っている。 「怪我、気ぃつけやー」 「あ、白石も手伝ってよー」 「そんなに人いらんやろ」 「元部長なのに」 「がんばりや元マネージャー」 軽やかに笑って白石の背中はドアの向こうへ消えていった。ちぇ。 ま、たしかにこれくらいの掃除に3人もいらないけどね。 「そんじゃチャッチャと片付けますか!」 「おう。すまんなぁ、お前まで残らしてしもて」 「なーに元選手と元マネージャーのよしみですよ。手叩いちゃったしね。あれごめん。痛くなかった?」 「あんなん別に。気にするよなことちゃうわ。止めてくれて助かった」 「ならよかったけど」 「引退しても世話かけるなぁ」 「まあ殊勝なお言葉」 「おーきに」 「どんまい」 なんて適当に話しながら、二人で割れたガラスを片づける。ものの数分でおわった。 「さて、ホームルーム行きますかー」 「ああ」 「…ってなぜイスに座る」 「あー」 「なぜ机につっぷす」 「……」 「はい」 「お前一人で戻っとけ」 「はい?」 「えーから」 「えー。なんですか急に」 「なんでもえーから」 机の上で組まれた両腕に顔をうずめて、それきり謙也は動かない。 ……どうした忍足謙也。 11月のおわりだからといって冬眠する気か忍足謙也。 窓から見えるグラウンドではもうサッカー部の面々がちらほらと準備をはじめている。 ホームルームが終わるにはまだ早いのにどういうわけだろう。 ストレッチをはじめた彼らを見るともなしに眺めながら手近なイスを引き寄せてとりあえず腰かけた。 理科室って寒いから早く帰りたいんだけどなぁ。 「…はっ」 気がつくと窓の外は真っ暗だった。 グラウンドにはストレッチをしているサッカー部員が…ってあれデジャヴ!? 反射的に時計を見ると授業終了から2時間が経っていた。 てことはあれは部活終わりの柔軟か……? 「わ!うそ、寝た?寝てた?ひー…寒い……!」 震えながら辺りを見回すと片肘ついた謙也と目が合った。 「……よう」 「……やあ」 「お前……こんなかったい机でよお2時間も眠れんなあ……」 器用なこっちゃ、と呆れ顔。 おい! 「起・こ・せ!起こしてお願いだから!」 「無理や実は俺も今起きた」 「じゃ人のこと言えないじゃん!」 「な」 「な、じゃないよもうわたしたちほんとアホだー……!」 「ほんまや」 「かかか帰ろう!寒い!てかホームルームさぼっちゃったね、まあいいけどけホームルームくらい……」 急いでイスを机の下に押し込んで、理科室の引き戸に手をかける。 当然後ろに続いているものと思って振り返ると、謙也はまだ同じ姿勢でぼけっとしていた。 「……忍足さーん忍足謙也さーん」 「……………」 「いっこきいていいすか。何で帰んないんですか」 「………………」 「……謙也さーん……?」 「…………………」 「(無視かよ)…もー帰るよー?」 返事がない。ただの屍のようだ。 なんなんだこの頑なな「待て」の姿勢は。忠犬か。ハチか。 「……なに、後輩の子でも告白に呼び出したけど来てくれなくて待ちぼうけしてる最中?」 「……ちゃう」 「あ、じゃあ後輩の女の子に呼び出されたけど実はからかわれただけで、自分でももうそれに気づいてるけど認めたくなくって待ちぼうけしてる最中?」 「どっちにしても振られとる!どんだけ待ちぼうけ好きやねん俺!ちゃうわ!」 大声出す気力が出てきたか。やっとらしくなってきた。 「じゃーなに。もうほんと帰ろ!寒いし!もう外暗いし!それともなんか帰りたくないわけでもあんの?」 「そんな理由あらへんけど、帰ってもすることない」 「え、余裕だね。勉強は。わたしたちたしか受験まであと」 「あーあーあーあーあー!言うな!」 謙也は急に両耳を塞いでまた机につっぷした。 おいおいおいおい。まだ帰んないつもりかよ。 「てか帰ってすることもないって……」 「………言うな」 「今更でしょ」 「(言いよった)」 「夏が終わって何ヶ月経つと思ってんのよー」 「……三月きっかし」 「いや律儀に数えなくてもいいけどさ……なんで今更そんな落ち込んでんの」 「なんでやろ。秋はそーいう季節やねんな」 「え。似合わないこと真顔で言うのよそうよ」 「お前も真顔でつっこむのやめーや」 「もーいったいどーしたの!」 先に進まない会話が面倒になって謙也の丸まった背中をバシンと叩いた。 なにすんねん!と上った声は右から左にもう一発。 いった!とそり返るリアクションはつっこまれ慣れた彼の愛すべき関西気質だ。(だってそんなに強く叩いてない) それにしても。 引退してからみんながみんな空白の時間にほっぽり出されて、違和感やらものさみしさやら後悔やらを相手に何とか足並みを合わせてきた頃だと思っていたのに。 一見切り替えが早そうに見える謙也がグズグズと置いてきた居場所と時間に駄々をこねるのは意外だ。 「よし」 「あ?」 「話してごらん、そしてわたしの胸で泣くといい」 「はあ?」 「謙也がガタガタ悩んでるのなんて似合わないって。ほらほらとっとと吐き出してそんでさっさと元気になろう?」 「……お前早く帰りたいだけやろ」 「当たり前だろ」 「(即 答!)ハ、そんなうっすい胸で泣けるかい。いったっ!」 「ほら早く話そう?」 「お前殴るん早すぎ!なんや今の反射速度!」 「左を制す者は世界を制す」 「今のがジャブっちゅー威力か!ったく、人叩いて謝ったかと思えば今度はふんぞり返ってなんやねん!」 「女子のおふざけパンチで何を言う」 「おふざ……よう言うわ」 「おしたりけんやのおーはおーげさのおー」 「アホ忍足謙也のおーは男前のおーや」 「ははは面白いこと言うなぁ。さすが忍足さん」 「おい今のはひとっつもボケてへんからな」 「あははは」 「ハハハ」 お互い白けた目を交わして笑う。 なんなんだこのグダグダな空気。 部活の練習後、疲れ果てて帰る準備をするのも億劫で、無意味に馬鹿話をして時間を潰していたころみたいだ。 それを懐かしいと思ったら今がさみしいことになってしまう。 わたしたちはまだ何も失くしていないのに。 油断すると足を取られそうになる感傷が邪魔だ。そういうのは春になってから、いざという時になってからでいいんだって。 どうせ卒業のその時がくればわたしたちは全員泣くんだから。実際に涙を流すかどうかは別にして。 謙也の背中に自分の背中を合わせてのしかかる。 「重!」と漏れた低い声は聞かないフリだ。 ぎゅうぎゅうと体重をかけ続けていると、重みに負けたのかついに謙也がぽろりと胸につまった言葉を吐いた。(拷問か) 「こんなん言うても詮ないけどな」 「うん?」 なに、とうながすと謙也はぐいと背中を伸ばしてわたしを押し返しながら声を続けた。 「最後、財前にもうちょいましな試合さしたかったわ」 「ダブルスで?」 「おう」 「自分と組んで?」 「おう」 「…………そうか」 「そんなん自分であの試合降りた時からない話やってわかっとんねんけどな。そんでも最後に見したりたかったわ」 「かっこいい俺を後輩に?」 「茶化すな」 「ごめん」 「財前な」 「うん」 「あいつは中途半端に何でも人よりこなすからな。器用やけど損や。必死になり方がわかっとらん。なり振り構わんでやればもっと上に行けんのに賢いから中々ようでけん。だれかが言うても素直に聞く奴ちゃうし、そもそもこんなん言葉で説明されてわかるもんでもないしな」 「そうだねー…」 「せやから同じコートん中で見るんがいっちゃんええと前から思っててんけどな」 「必死でみっともない姿を?」 「おー」 「ほー」 「ま、冷静に考えて手塚に勝てる見込みはごっつい薄いけどな。せめて一矢報ってみせる……て、せやから今しても詮ない話やけど」 「なんだ。それってやっぱりかっこいい俺を見せるってことじゃん」 「お前何聞いててん。勝てん奴との試合のどこがかっこええっちゅーねん」 「かっこいいですよ」 「は?」 「謙也じゃなかったらうっかり惚れそうなくらいかっこいい」 「ちょお待て俺やなかったらて何や」 肩越しに振り返ってじろりとこちらを見る謙也に笑って返して、預けていた背中から体を起こす。 わずかな時間でも互いの体温でぬくまっていたのであたりが急に嘘寒く感じた。 寒くて当然か。 秋ももう終わるのだから。 「帰るか」 謙也が立ち上がった。 「その言葉待ってました」 「教室いって荷物取ってこんとな」 「あ、そうだった。もー鍵閉まってるかも。一回職員室いかないとね」 面倒くさー、と言いながら廊下へ出ると、ちょうど目の前の壁に二人分の鞄とコートがちょこんと行儀よく立てかけて置いてあった。 わたしのものと謙也のものだ。 「え、なにこれ」 「あいつほんまに親切やな」 「え」 「こんなんすんのあいつしかおらんやろ」 「え、あ、白石!?えー なんで!」 「俺らが寝てる間に持ってきてくれたんちゃうん。知らんけど」 「え!やさしい……てかどうせなら起こしてくれれば……!いやでもやさしい……!」 「あいつの親切はいつもどっかそーやねん。なんかどっか抜けてんねや」 白石の不思議な親切に微妙に首をかしげつつも心から感謝しながらコートを着る。 6時を回って窓の外はもうとっくに暗い。 下校時刻も過ぎた廊下は人の気配も絶えて、蛍光灯の明かりだけが白々しい。 そんな中を下駄箱で並んで靴を履き替えたりなんかしていると、まるで部活帰りの男子を待っていっしょに帰るカップルみたいだな、とちらと思った。 そんな甘酸っぱい経験はついに中学ですることはなかったわけだけど。 「でも楽しかったから、いっか」 「なんの話や」 「部活の話」 「あ?」 「楽しかったなー、って」 「……せやな。ほんま楽しかったな」 「でさ、財前くんだけど」 「……おー」 「大丈夫だよ財前くんなら。白石や上がいなくなってあがかなきゃどーしようもなくなるのはこれからだから。嫌でも必死になるしかないって」 さっき話を聞いて少し考えて、素直に思ったことをそう言うと謙也はひゅっと眉をしぼった。 「そう言われるとなんや不憫に聞こえんな」 「過っ保護ー」 「親の心子知らずってな」 「あの子はたくましいから。必死になって頑張って、きっとすっごく強くなるって」 「おう。せやな」 「だから心配ないよおとーさん」 「おとーさんはないやろ」 「そんで今よりもっとかっこよくなってモテモテにもなる」 「それはどーでもええ」 「うらやましい?」 「どーでもええて。後輩妬むほど心せまないわ」 「うらやましい?」 「うらやましくないっちゅーねん!」 「大丈夫大丈夫、謙也もかっこいいって」 「おうこら棒読み気ぃつけ。それむっちゃえぐるぞ人の心の内角」 校庭に出るとサッカー部員たちがボールの片付けをしていた。 自分で気づいているのかいないのか、謙也はそれをぼーっと目で追っている。 その背中が晩秋の空の藍色に滲んで、まあ、しみったれちゃって。 らしくもない。 同じ部活で2年半過ごしたといっても選手とマネージャーはやはり違うと思うのはこういう時だ。 勝てばうれしい、負ければ悔しい。その気持ちは同じだけれど、コートの中と外で分かたれるものはたしかにあるのだ。 「謙也」 「あー」 今日はなんだかこればっかりだなと思いながら、平手で背中を叩いた。 「いった!おっま、何すんねんほんまさっきっからバシンバシン!」 「謙也なんて、ほら、犬なんだから」 「…は?」 「もう、何も考えないでばーーーーーーーーっと走ってきたら?すっきりするよ?」 「お前、ほんまに人のこと犬やと思てるやろ……」 謙也がうんざりと肩を落とした。 「犬ってさんぽに行けないとストレスたまっちゃって大変なんだよ」 「心配せんでも毎日朝走っとるわ」 「あ、やっぱ走ってるんだ」 「犬やからな」 自分で言って遠い目をする。 そうよね犬だもんね、と相槌を打つと隣で低いうなり声。 これ以上なくくだらない会話をだらだらと続けてわたしたちは校門へ向かう。 こんなにつまらない会話なのに、どうしてこんなに楽しいんだろう。 謙也もそう思ってるといいな、とちょっと思った。 「なぁ」 「うん?」 「さっきの話やけどな」 謙也が足を止めた。 「さっきの何」 合わせてわたしも立ち止まる。 見ると、らしくもなく神妙な顔をつくっている。 今日の謙也は「らしくもない」ばっかりだ。 「うらやましいっちゅう話」 「ああ、モテモテ財前くんが妬ましい話」 「せやからうらやましくも妬ましくもないっちゅーねん」 「ええー」 「ええーちゃうわ。お前人のことどとーいう目で見とんねん」 「謙也ってモテたい人じゃなかったっけ」 「モテたい。めっさモテたい」 「ほらー」 「お前に」 「は?」 「俺はお前にだけモテればそれでええねん。他にたくさんはいらん」 「…………………え」 「……わかったか」 「え、わかんない」 「アホ、わかっとけ」 苦いものでも噛んだような顔でそっぽを向いた謙也の顔はこの暗がりの中で見ても少し赤くなって……る? うん? 赤い? あ、うん、赤い。 「え、…………つまり……………………要約すると謙也さんはわたしを好きでいらっしゃるということですか」 「………せや、かいつまんで言うと謙也さんはさんが好きやっちゃう話や」 「……あ、はい、そうですか…………わかりました」 「おう」 「……って、ええ!!!!!???」 「おっそ!驚くんおっそ!」 「いやだって、えええ初耳!」 「当たり前や。初めて言うたんや」 「えええええ」 「たまげたか」 「死ぬほど驚いた」 「死なん程度で収めとけ」 頭をかいて、謙也は力のない動作でまた歩き出す。 「ほな帰るで」 わたしもつられて横を歩く。 すぐそばでブラブラとゆれる謙也の手が犬のしっぽのようだなとふと思った。思ったと同時にそれを掴んでいた。 「うおっ」 つぶれた豆の上にさらに豆をつくり、またつぶし、を繰り返した手の平は硬く、少しかさついていた。そしてあたたかかった。でもしっぽじゃなかった。そして謙也はやはり犬ではなかった。 当たり前だ。 「なんや藪から棒に…」 「いや深い意味はないんだけど」 「ないんかい!」 「わたしは今とても混乱している」 「なんやその説明文」 「謙也」 「な、なんや」 名前を呼んだものの何を言いたいのかわからない。 言葉の代わりに手を強く握ると謙也は最初は遠慮がちに、次第にじょじょに力をこめて握り返してきた。 「先輩」 かわいい後輩の声がしたのはその時だった。 わたしたちは手を離すのも忘れて振り向いた。 「財前!」 「財前くん!」 そこにいたのはまぎれもなくさっきまでの会話の中心だった財前くんだった。 「う、噂をすれば影…!」 「はぁ?」 「なっ、どうした財前、今帰りか!奇遇やなー」 ハハハ!と大げさに笑って謙也がわたしの手を離した。 それを見て財前くんの眉が微妙に寄せられる。 「先輩ら、今帰りすか」 「い、いろいろあって!掃除とか居眠りとかそんな感じの!」 「へえ」 「ぶ、部活はもうおわったの?」 「はあ、おわったはおわったんすけど、鍵が見当たらんくて」 「鍵?部室の?」 「なくしたんか?」 「俺やなくて、マネが。おかげで閉められん」 親指で背後の部室を指さす財前くんは渋い顔だ。 「落としちゃったのかな」 「あいつ、これで二回目すわ。ほんまに学習せん」 「で、マネージャーはどこにおるん?」 「部室ん中ひっくり返してます」 「おう、そしたら手伝ったるわ」 「ええんすか?」 「当ったり前やろ。俺は鍵さがすんめっちゃ得意やねんぞ!任しとき」 「鍵さがすんに得意も下手もあるんすか」 「も昔よくやったからな。そんたびみんなで走り回ってようさがしたもんや。なぁ」 話を振られてうなずいた。事実だ。 「うちのマネは代々そんなんばっかりすか」 「しゃーない、宿命や」 財前くんと謙也は妙な仲間意識でため息をつく。おい。 「ま、謙也は本当に鍵さがすの上手だったけどね」 「せやろ!」 「何しろ犬だから。探し物は得意」 なるほど、とうなずく財前くんに謙也が「納得すな!」と吠え立てた。 「なによーさっき自分でも犬って言ったじゃないよー」 「うっさいまぜっ返すな!」 「じゃ、先輩らこのへん頼みます。俺向こう見てくるんで」 「はーい」 「あ、それと」 「おう」 「まだ6時過ぎで、しかも学校すから」 「だからなんや」 「盛るん早いすわ。なんぼ犬いうても」 財前くんは表情一つ変えずに言い残し、暗がりの中に消えていった。 「は……はー!?なんっやねんあいつ……ちょお待てや財前!!!!!」 謙也の声が校庭に響き渡った。 遠吠えのようだった。 「やっぱり犬だ」 「ああ!?何笑っとんねん!」 |