君の名は






夜、珍しくバネから電話がかかってきたと思ったら、これまた珍しく神妙な声で「サエが別の高校に行くかもしれない」と言った。

「別の高校?」
「俺らが受験したとこじゃないとこ」
「私立?」
「つーか、東京。テニスで誘われてたんだと。推薦は蹴ったけどそれからもしつこく声かけられて、明日一般でそっちを受けにいくらしい。筆記と実技と面接で二泊三日の受験ツアーだとよ」
「…詳しいねバネ」
「さっき聞いたんだよ!あいつ、え、言ってなかったっけ、とか言うんだぜ。きいてねーよ!って」
「へえ……」
「なんか水くせーよなぁ……ずっとつるんでてそんなことも知らねーとは情けなくなったぜ」
「そうか……」
「そっちの高校に行くかどーかは受かってから決めるんだと」
「へえ」
「…で、お前どーすんだ?」
「え、なにが」
「サエのこと」
「わたしが?」

どうする、って何をどう、と言うと、バネはお前も大概水くせぇよな、と言ってさっさと電話を切った。

一方的な奴め。

切られた電話を持ったままアドレス帳のさ行を開いた。
一番はじめに出てくるその名前をじっと見ているとだんだん眉間に力が入った。
通話ボタンを一度押して、呼び出しが始まる前にすぐ切った。やめた。
佐伯と電話するのって苦手だ。
あの耳ざわりのいい声で、穏当な言葉で何か言われたら適当にうなずいて適当に納得してしまいそうだから苦手だ。

佐伯が東京。改めて考えれば行ってもおかしくない。というか、テニスで上を目指すならいい選択だ。
地元を出て、仲間と離れてテニスに勤しむ、か。

不自然じゃないけど違和感がある。
佐伯って、そうだったっけ。
でも、そうでないとしたらどうだったっけ。佐伯ってどうなんだっけ。
佐伯虎次郎。
さ行の一番はじめに出てくるその名前を見ていると、やっぱり眉間に力が入った。





朝はいつも佐伯に会う。示し合わせたわけでも待ち合わせをしてるわけでもない。家が近いから大体同じ時間に通学路で落ち合うのが自然だった。
おはよー、と言い合って、適当にだらだら喋ってそんなに長くもない学校までの道を歩いた。

いないのが寂しいわけじゃないけれど、いつも自然だったことが急になくなると不自然だ。
今ごろ佐伯は東京の学校に向かってるんだろうか。

不自然がずっと続けばやがて不自然が自然になるんだろうな、と思いながら歩いた。
どのくらいの時間でその境は変わるんだろう。時間じゃないのかな。じゃあ何かな。

二メートルくらい前の電柱に白い犬がおしっこをひっかけていた。

どこの犬だろう、と口に出して言っていた。言ってから、あ、一人言を言ってしまった、と気づいた。
一人言を言うつもりじゃなかったのだけど。

犬が振り向いた。クリクリと黒い目。懐こそう。
ジロー、タロー、ケースケ、と適当に呼んでみたけど犬はそのままテテテと走っていってしまった。

振られた。


次の日の朝もその犬と会った。タクロー、ジョン、エリック、と呼んでみたけれど鼻もひっかけられなかった。

次の日の朝もその犬と会った。いったいどこの迷い犬だろう。また電柱におしっこひっかけていた。
セバスチャン、ユウイチロウ、コロ、と呼んでみたけれど首をかしげもしなかった。最後にコジロー、と呼ぶとダッシュで逃げていった。

保健所に捕まらないといいのだけど。



次の日の朝は佐伯に会った。
一瞬ぎくりとしたわたしに気づく様子もなく、「あ、おはよ」と手をあげるうさんくさいいつもの笑顔。きらきらと無駄にまぶしい。

「おはよ。東京受験どうだった?
「あ、知ってたんだ? バネ?」
「うん、バネ」
「そっか。うん、いい学校だった。多分、さ来週くらいに引っ越すと思う」
「は?」
、寮生活ってどんなだと思う? 同室の奴と仲良くやれるかな。俺今までずっとみんなとつるんでたからさ、意外と新しい人間関係に緊張しそう」
「人見知りってガラじゃないでしょ。じゃなくて、なに、引っ越しって、なに?」
「え? あ、受かってたらね。でも俺受かってると思う」

なにその自信。つーか、えーと。えーと。

「え、佐伯、高校別のとこ行くの」
「そうだよ」

何を今さら、という顔をしてけろりと佐伯が笑った。

「はじめて聞いたよ」
「え、バネから聞いたんでしょ?」
「東京の高校受験したとは聞いたけど行くことに決めたとは知らなかったよ」
「そうだっけ」
「そうだよ!」
「あれ、びっくりしてる?」
「びっくりしてるよ!」
「ハハ、本当に? ちょっとうれしいかも」
「……」
「え、俺がいなくて残念?」
「……」
「うーん、はやまったかなぁ、俺」
「……なんで違う高校行くの?」
「ん、熱心に誘ってくれたしね。チャンスなのかなーとも思った。し、」
「し?」
にもフラれたし」
「ん?」
「うん?」
「わたし、佐伯をふったんだ」
「ふったじゃないか」

やだなぁ、なんて笑ってる佐伯はかすかに痛みを堪えているようで。え、なにそれ。

「わたし、いつ佐伯をふったの?」
「ほら、年明けですぐ、道端で会ったとき告白したでしょ」
「……え?」

思わず立ち止まって考える。まったく記憶にない。
振った記憶はおろか、年明けに告白された記憶がない。
去年いっしょに帰ってるとき「好きです」と言われたことならあるが。未来から来ていたらしい佐伯に。


「……佐伯、なんて言ったの?」
「もう言えない」
「……またなんかよくわからない、気づかないような言葉で言ったんでしょう」
「うーん、そうかも」
「そんで勝手にフラれたとか…そんで高校別とか……人のせいにしないでよ」
「うん、まぁ、たしかに、そうなんだけど。でも俺、ずっとにはフラれ続けてるでしょ。年明けの時以外にもずっと」
「……佐伯ってよくわかんないからさ……半分以上冗談かと思ってた。いつも」
「俺シャイだから」
「……」
「そんな目で見るなって」

肩をすくめて、歩き出す。
横を通り過ぎざま軽く頭をこづかれた。

「気持ちだけは本当だったんだけどね。口がそれをそのまま出すことを許さなかったんだな。おお、罪深き口」
「……わたし佐伯をふったのか」
「お、惜しいことしたと思ってる?」
「いや、佐伯、本当にわたしのこと好きだったんだと思って不思議に思ってる」
「今更だなぁ。何度もそう言ったのに」
「そうなんだけど。そうなんだけど…………」

はたと立ち止まる。
佐伯には何度も好きと言われた。
けれど、わたしが佐伯に対してそのことについて答えを返したことはなかった。
何も言わないまま、答えさえ用意しないままここまできた。
もしかしてそれは、

「……わたし、不誠実だった?」
「ん、何が?」
「……佐伯が言ってくれたことに対して何にも言わずにきたでしょう」

佐伯は眉を寄せてなに言ってんの、と笑った。

「俺は言いたいことを言ってただけだよ。あ、それともに何か答えてくれって言ったことあったっけ」
「……ない、と、思う」
「だよな。よかった」
「よかった?」
を不誠実にせずにすんで」

軽く笑う。
佐伯はたしかにわたしに付き合ってほしい、と言ったことは一度もない。二人でどこかへ行こうと言われたこともない。

「俺は別にと付き合いたいとか、まあ思うだけなら思ってたけど、それを叶えようと思ったことはないよ。だからそういうことは言わなかった。ただ好きだなと思ったときにそう言ってきた。だからが不誠実だったことなんて一秒もないよ」
「……どうして付き合おうって言わなかったの?」

好意をかさにきたセリフに聞こえて居心地が悪いが、もう気になったのでそのまま聞いた。
佐伯の言葉はいつも素直で率直だったけど、その分どこにどう整理をつけて納めたものかいつでも判断に迷った。
具体的な望みを口にしないから、具体的にどう受け取ったものか困っていた。

んー、と佐伯の笑い含みの馴染みの声。

のことが好きだったよ。それは本当。付き合いたいと思ったことも本当。でも、俺がいつまでのこと好きなのかわからなかったから」
「は?」
「わからないだろ、先のことは。俺がいつまでのこと好きでいられるのか。俺はいつまでも好きでいたいけどさ」
「……はぁ」
「だからもうちょっと自信が持てるまで、そういう具体的にを巻きこむことを口にするのはやめようと思ってね。もし付き合ってすぐ好きじゃなくなったら迷惑をかけるだろ」
「……はぁ」
「だから言わなかった。まぁ、今言っても望みないのわかってたしね」
「……じゃ、さっきふられたって言ったのは?」

肩を軽くすくめた佐伯がよろめいた。わざとなのか、実際石ころにでもつまづいたのか。

「まぁ、ふられたはふられたで事実。俺がを好きなとき、いつでもは俺のこと好きじゃなかったからね」
「もっとわかりやすく言ってくれればちゃんと考えたのに。わたし本当にいつも、いっつも七割は冗談だと思ってたよ」
「残り三割は?」
「気まぐれ」
「十割伝わってないじゃんそれ。駄目じゃん俺。うわー」
「……まぁ、未来から来たとか言われてもな……」
「ハハハ……でもちゃんと考えられなくてよかったよ。ちゃんと考えてほしいときは、またちゃんと言うからさ」
「……ちゃんと」
「うん、ちゃんと」

ひらりと振り返って、

「言うから。そのときまた考えて」
「……うん」
「うん」

うなずいて佐伯が笑った。この男はいつも笑っている。クセのようだけどクセじゃない。クセで笑うようなそんなかわいい男じゃない。


「佐伯とは春から会わなくなるんだね」
「そうだな」
「そうかぁ……」
「寂しい?」
「そりゃ寂しいよ」
「そっか? ハハ、意外」
「……寂しいよ」

だってずっといっしょだったでしょう、とは言えなかった。これまでずっといっしょでも、これからもずっといっしょなんてあり得ないことはわかってた。

わたしは佐伯といるのが自然でそのままの時間をそのまま過ごしてきた。
そのままが楽しかった。だからそれ以外のどんな関係や存在になるかなんて、可能性すら考えつかなかった。
いっしょにいるために努力したことが、なかった。

ため息がこぼれそうだったので気づかれないよう、不自然にならないよう静かに息を吸った。深く、肺の底までキンキンに冷えた朝の冷気がしみこむ。

春になったら、わたしは今よりきっと寂しくなる。

それを今、もっと思い知らなければいけない。
いつでも鼻歌しながらスキップを踏むようにフラフラと隣を歩いてきたこの人に言わなければいけない言葉があるはずなんだ。
それを伝えなかったら、きっと後悔する。春になったら。

深く息を吸いこんだ。

佐伯、と呼びかけると「あてっ」と間抜けな声がかぶさった。
横を見ると佐伯が電柱にぶつかっていた。

「なにやってんの……」
「……なにやってんだろ」

いてて、と額をさすっている。

「……そういえば、その電柱」
「え?」

あの犬がおしっけひっかけてた電柱だった。あの犬、そういえば今日は見ない。

「コジロー」

ぶつけた額を赤くした佐伯がきょとんと目を丸くした。わたしはその目がやがて元の大きさに戻ってゆっくりと微笑むのを見つめた。
佐伯はそれから、ワン、と鳴いた。





わたしはもうこの世の中に驚くことも、不思議に思うことも何もないような気がしていた。













「あ、さっきなんか言いかけた?」
「なんでもない」