下駄箱の前には既に財前が立っていた。 ホームルームがおわって、早足で降りてきたのだけど。 「財前、ごめん。待たせたね」 片手を上げて謝ると、財前はもたれていた壁からひょいと体を起こしてわたしを認めてうなずいた。 「こんなん人待ちに入らんし。かまわん」 「ありがと」 「ほな行くか」 わたしたちは靴を履き替えて、グラウンドへ出て行く。 三月頭、花粉を乗せた風をつい思い切り吸いこんでくしゃみをしそうになるのを咄嗟にこらえた。 三月というともう春、というイメージがあるけれど、今日のように太陽がなくて風が強い日は歩く体を縮めるほどにまだまだ寒い。 「前から思ってたんだけどさ、財前のクラス、ホームルームかなり早くない?」 「あー、そうかもな。担任、気ぃ短いねん」 「部活やってるとそれはありがたいよね。いいなぁ」 「ええやろ」 財前がいつもの淡泊な顔でしれっと自慢した。 こちらが羨ましがった上でかぶせてくるなよ優越を。 「今日もしかしたら雨降るって言ってたけどこの分なら平気だよね。明日降るのはぜったい嫌だけど、今日降られてもちょっと困るなーと思ってたからよかった」 明日はうちの学校の卒業式だ。 夏にテニス部を引退した先輩たちの門出の式で、晴れの舞台なのだからぜひとも晴れていただきたい。 そしてその前日、つまり今日、送りだす側のわたしたちにはある準備があった。 式が終わった後、後輩から先輩方ひとりひとりに花束を渡すのだが、その花を部長とマネージャーが二人で花屋に取りに行く、というのが我がテニス部代々のしきたりなのだ。 しきたり、と仰々しいことを言っても、実は単に人数分の花束を入れた一メートルほどの縦長のダンボールの端と端を持って運ぶのに「二人必要」というだけなのだけれど。 ま、その人選が部長とマネージャー、というのはたしかに慣例になって久しいらしい。 「明日で先輩たちが卒業するなんて実感ないなぁ」 「は、いまさら」 「え、あなた今、鼻で笑いました?」 「知らん」 「そりゃ、部活引退してからはそんなにみんなとゆっくり顔合わせることも少なくなっちゃったけどさ。なんかあの人たちがうちの学校からいなくなっちゃうって、なんか。全然ピンとこない。変な感じ。財前は全然そういうのない?」 「別に」 「あなた、三、四文字で返事すんのやめなさいよ」 「それ、おかんにも同じことよう言われるわ」 しれっとした顔のまま、口元だけをうんざり、とゆがめて見せる。 仏頂面は仏頂面なりに、財前は意外と表情に喜怒哀楽が出る。その変化はごく些少なものだけど。 ていうか、よく言われんなら直せよ。と、口に出せば面倒くさくなりそうなので、ひとまず、あ、そ、とだけ返す。 財前が部長になってから半年、部活の関係で何かと二人で組みになって動くことも多くなった。 一年の入部したてのころは、この口数の少ない、機嫌よくしている顔など一向に見せない同級生にどう接したものかと悩むこともあったけれど、対人関係における慣れと時間とはものすごい力を持っているもので、今ではたとえ電車で隣の席に座って二時間無言でも何の気詰まりも感じない。(実際こないだの遠征の時そうだった)(しかし周りには「先輩らケンカしたんすか…?」と心配された)(してません) 財前は話しかければ無視はしないし、常時出てくる言葉が死ぬほど辛辣というわけでもない。 多分、一見したよりはコミュニケーションの取れない相手ではないと思うが、自分から会話を切り出すこともあまりしない。 わたしは話したいことがあれば適当に話しかけるし、特にそうでもない時は一人でいる時のように沈黙の内にあれこれ思う。 なので、財前といるのは実はけっこう気が楽だ。 曇天の下、黙々とわたしたちは歩いて、目的のお花屋さんにたどりついた。 「すみません、連絡していた四天宝寺のテニス部の者ですけど」 声をかけるとすぐにお店の方が二人で横一メートルのダンボール箱を持って出てきてくれた。 並べられた花束の数を数えて確認し、お代を払って、一礼をしてお店を出る。 さて、とわたしたちはダンボールの端っこと端っこを片手にかけて、来た道を戻る。 歩くたびに揺れるダンボールから甘くも清々しい花の香りがこぼれて漂う。 やっぱり花束にフリージアを入れてよかった。香り物が好きな小春先輩が喜ぶだろう。 「はー、いい匂い」 「ほんま、よう匂てんな」 クンクン、と思わず二人で空気を調べるように鼻に聞く。 「芳香剤みたいや」 「えっ、トイレの!?」 「……場所はどこでもええけど」 「え、くさい?かな?」 「くさいとは思わんけど」 「あ、よかったー。でも香りの好みって人それぞれだもんね。小春先輩が香りの強い花好きだって前言ってたからそれ系でつくってもらったけど、他の先輩たち大丈夫かな……って、いまさらなんだけどね!」 ははは、と笑って降ってわいた不安を追い払うわたしに、財前が心持ち神妙な顔で再度、スン、と鼻を鳴らしてみせた。 香りを確かめているらしい。何やら犬めいた仕草だった。 「むせるような感じとちゃうし、これそないに苦手な人もおらんのんちゃうん」 「ほんと? 財前的にはどう? 好き?」 「好きか言われたら、普通」 「嫌いではない?」 「嫌いではないな」 そうかそうか。わたしはちょっと安心する。こういうのに敏感ぽい財前がセーフなら先輩方はなんとなくみんな大丈夫そうだ。イメージだけど。 それきりわたしたちは道々花の香りを揺らしながら、無言のまま学校へ戻ってきた。 今日は部活動がすべて休みなので人っこ一人いない静かなグラウンドをつっきって、テニス部の部室へ向かう。 小さなプレハブ。冬には隙間風が吹いて、寒い寒いと騒いでいたら銀さんがコンクリ練って補修してくれたっけ。 「わたしたちもいつか後輩のためにコンクリを練る日がくるかもしれないね、財前」 「は? 白昼夢か?」 「銀さんがいつかしてくれたでしょ」 「そんなんあったか?」 「覚えてるくせに」 うちの部であんたが一番寒がりなんだからさ、と言うのはやめておく。 そらっとぼけさせてやろう。思い出にひたって二人、妙に感傷的になるのはわたしも避けたい。 鍵を開けて部室に入る。常になく整然としているのは昨日まで必死に片づけたからだ。 卒業式の後、先輩みんなが久しぶりにここへ来てさよなら会をするのがこれまた我がテニス部代々の慣習なのだ。 ロッカーの前に花の詰まったダンボールを置いて、さて、と息をつく。 「帰ろっか」 「ああ」 「あ、手紙書いた?」 さよなら会では下級生から卒業生全員に色紙の代わりに手紙を書くことになっている。 「まだ」 「これから全員分書くの? まさか一言だけとかやめなさいよ」 「そういうはどやねん」 「あと白石前部長だけだよ」 「なんでその人最後やねん。いっちゃん書きやすそうやん」 「そう思うでしょ。そう見えてなかなか、あの人何から書いていいのかわかんなくなるから」 「そうなん?」 「なんか、ありがとうございます、て書いてばっかりの手紙になっちゃって、書き直してる。前部長にはお礼言うことが多すぎて」 「……ああ」 財前はうなずいた。そして、小さな声で、そやな、と言った。 ぼつりと落ちたそのつぶやきの響きに、わたしは一気に、ああ、先輩たちが引退して半年という時間が過ぎたのだ、と実感する。 白石前部長は、下級生にとって絶対の存在だった。 この人の言うことを聞いていれば間違いがない、と思わせる統率力と、人を引き付ける生まれ持った明るい引力みたいなものが備わっていて、あの人がいたから勝っても負けても前を向いていられたし、正しい道を進んでいると信じることができた。 白石前部長がぬけた後はどうなることかと思っていたが、人というのは役回りをいったん承るとその職務に合った身の丈をどうにかして手に入れるものなのかもしれない。 溢れんばかりのカリスマとリーダー気質で部をまとめていた白石前部長とはちがうタイプだけど、何でもない顔をして財前は実際、傍で見ているこちらが驚くほど部長として影に日向によく働いている。それはもう、尽くすという言葉が似合うほどの献身さだ。 「なに、ぼっとしてんねん。帰んで」 「あっ、はい」 うながされ、財前に続いて部室を出た。 外はもう薄く暮れ始め、白い三日月が低い空に透けてかかっている。 吐いた息が白く白づく。三月と言っても、ほら、まだこんなに寒いのだ。 ガチャ、クキュルリ、と独特の錆びた音をさせて施錠する財前の背中になんとなく声を投げた。 「卒業式、泣くかな」 「誰が」 「先輩たち。と、財前」 名前を挙げると財前は、間髪入れずに「泣くか」と一蹴した。 振り返った顔は鼻白んでいる。 「なにそれ。寂しい時は泣いたっていいんですよ」 「誰が寂しいねん。お前やろ」 「わたしも寂しいけどさ。財前だって寂しいでしょ」 「アホらし。一生の別れでもあるまいし。別に学校からおらんなるようなるだけやろ。あの人らのことやから、どうせ頼んでもないのにすぐ顔見せに来よんで」 「だといいなぁ」 そんな先輩たちのそれぞれの姿がたしかにすぐに目に浮かんで、思わず小さく笑いがもれた。 明日になれば、大好きな人たちはここを去っていく。 四月になれば、新しい生活がはじまる。 彼らも、わたしたちも。 そうやって、誰にも等しく時間は降りて、過ぎていく。 「ほな、行くか」 「うん」 わたしたちは同じに色づく白い息を吐いて、並んで校門へ向かって歩き出す。 ローファーで踏むグラウンドの砂音が、二人分重なって耳を騒がせる。 「四月から忙しくなるなぁ」 「ほんまにな。もうやってくれる人らはおらんからな」 「そだねー」 一年の頃はまったく何を考えているかわからなくて、何ならあんまり好きじゃなくて、二年になってなんとなくこの人の性格の輪郭、みたいなものが掴めて、部活の仲間として連帯できるようになって。 三度目の春を目前にした今は、部長として財前を信頼している。 わたしと彼は同じ部活の部員だけれど、友達じゃない。 入りこんだ話はお互いしないし、する気もない。 だから、そんな話はきっと一生聞くこともないし、話しもしないのだろうけど。 財前はきっとずっと前から自分が部長になった時のことを考えていたのだろう。 頼れる先輩がいなくなって、部長がいなくなった後。 そこで何ができるのか。 自分がそこでどうすればいいのか。 そんなことを、もうずっと前から考えて、考えて、考えていたのではないだろうか、と誰にも苦労の跡を見せないまま部長の肩書きを馴染ませた財前を見て思う。 財前の葛藤とか、悩みとか。泣きごととか。 わたしは恐らく一生聞く日はこないし、知らないままに来年には彼とも別れてしまうのだろうけど。 「財前」 「なんや」 「これから最高学年として新入部員をまとめたり育てたり、いろいろすることいっぱいあって、正直大変かもしれないけどさ」 「おう」 「まぁ、ほら、わたしもいるし」 もし、聞いてくれと言うんであれば、夜中の三時の電話にだって出てやるから。 「遠慮しないで頼っていいよ」 隣に並ぶ、少し高い位置にある肩をポンとたたくと、はぁ?と器用に片眉下げて、財前は言った。 「こっちのセリフや」 |