時刻恐らく二十時を少し回ったあたり。 わたしはグラウンドと寮舎を隔てる高さ二メートルのブロック塀をちょうど登り切ったところで、見回りをしていたかの人と遭遇した。 「あ、観月さん」 「さん……ですか?あなた何をしているんですか」 こんな時間まで、と非難めいた意を隠そうともせず、観月の声が上ずった。 面倒な人に出くわしちゃったなあ。 「……やあ、こんばんは観月さん。いい月夜ですね」 「何風雅なこと言って話をそらそうとしているんですか、似合いもしないことを口にして。今のあなた、泥棒にしか見えませんよ」 言って、暗闇の中手に持った懐中電灯でわたしを照らす。 「わ、ちょ、まぶしいって!」 「いいから早くそこから降りていらっしゃい、年頃の女子が嘆かわしい」 「わかった、わかりました」 観月は懐中電灯の光をわたしから離し、ブロック塀の下、足元の茂みにやって照らしてくれた。 おお。ありがとう、これで着地の目途がたつ。 よっ、と勢いを殺して飛び降りる。 うん、無傷。 「ありがとう観月さん。助かった」 「ありがとう、じゃないですよ。まったくあなたときたら何をやっているのですか」 観月はもうイライラしている。 イライラするくらいならたずねなければいいのに……。 面倒見がよくて癇癪持ち、てなんだか損な性分だなあ。 「いや、今朝花壇に落し物しちゃってさ」 「は?」 「これこれ」 と、ポケットの中のケータイを出す。 「あなたまだガラケーなんですね」 「失礼な。ガラケー何が悪い」 「悪いとは言ってません」 「……でも今なんか鼻で笑ったじゃん」 「鼻炎です。以前から思っていましたがさんは若干被害妄想の気があるようですね」 んふ、とまた鼻から抜ける息笑い。 「……(こなちくしょう)じゃ、おやすみー」 「ちょっとお待ちなさい」 お待ちなさい、て。お蝶夫人じゃないんだからさ。中三男子でしょあなた、と思いつつ、でもこの人が言うと不思議と違和感なく似合うんだよなあ。 「なんですか。お互い早く帰って寝ようよー」 「あなた、どうやってこんな時間に学校に忍びこんだんですか」 「どうって、ピョンと塀を飛び越して」 「防犯対策は?監視カメラと警報音の設定があるはずですが」 「ああ、あんなものはちょちょいと細工すれば余裕っしょ」 「…………」 「……じょーだんだって。頭かたいなあ。ほら、このへんの寮が建ってる区間てそのへんの設定が時間ごとに区切られてるじゃない。ほんとは禁止されてるけど、寮生の子たちがこっそり夜コンビニ行ったりするでしょ。その度に警報鳴らしてたらあれだってことで。そこ通ってきた」 「待って下さい、防犯対策が区切られてる?」 「そーそー」 「あなた本当のことを言いなさい」 ぎゅっと唇を噛みしめる観月。 おお、薙刀でも突きつけられた気分……。 「なんだ本当のことって!今言った今言った」 「その話がもし本当ならば寮生の安全はまったく守られていないということになるではないですか」 「もし、って言うか、まあ、事実だからしかたない。てゆかまったく守られてないってわけではなくない?九割くらい守られてるでしょだいじょーぶだいじょ」 「その情報、出処はどこです」 「……そんなに鬼気迫らなくても」 「隠すと身のためになりませんよ」 「もーおヒスだな観月さんはー」 「はやくおっしゃい」 「(おっしゃい…)えーだから前、寮生の友達に聞いたんだよーこの時間この区間はセーフって」 「女子ですか?何組の?」 「言わないよ!言ったらその子のことすげー怒る気でしょ!」 「生徒の安全問題に関わることです。もしその情報を得た不審者が寮内に侵入したらどうするんですか」 「まあ……それはそうだけどさ……でも、その子が警報装置切ってるわけじゃないじゃん」 「問題は生徒の誰がそれを実行し、皆が黙認しているかということです。寮生管理委員としてはそれを突き止める責任がある」 「え、観月さんそんなめんどくさい委員やってんの。あーだから見回りなんてしてたの」 「いいから、はやく知っている情報を洗いざらい吐きなさい」 おや、吐きなさい、とは、観月らしくない品のない言い回し。 これは余程腹に据え兼ねている様子。 いくら寮生委員ったって生徒の安全を守るのは学校側の役目でしょ、生徒のあんたが担うには重すぎ、下ろせその荷物。と言いたいが、これも生まれついての性分か。難儀なことだ。 そんな観月にこれを言うのはいささか気が咎めるが、こっちもいつまでも薙刀突きつけられたままではいられない。(帰って見たいテレビある) だからさ、とわたしはいささか重たくなった口を開く。 「一生徒が防犯対策に手ぇ出せるわけないでしょ。その、防犯区間を一定時間オフにしてるのはつまり……」 言葉尻を濁して告げると、観月はすぐに察してくれた。 「学校サイドですか……」 そして観月に訪れる絶望。いや絶望は言いすぎた。落胆、どまり。そして失望。その二つに憤りを混ぜた塩梅。 「なんてことだ……内部から腐敗しているとは」 「いや……大げさじゃね?」 腐敗とかいう単語、つかったことないわ口頭で。 「あなたは黙っていてください」 「話せっつったり黙れっつったり忙しいなーもー。世界はあなたのおもうままに動かないんですよ」 「そんなことは重々承知です!」 「……そんな興奮しないでよ、声大きいと誰か来ちゃうから。わたし一応忍びこんでる感じだから今」 しーしー、と人差し指を立ててなだめるけど、観月は、知ったことか、と低い声で吐き捨てた。 おお、乱雑な言葉遣い。ますますらしくない。 観月は今知った、彼にとっては衝撃の事実に顔色を白くしている。 ……そんなにショックだったのか。こんなことなら言わないで、わたしが防犯システム細工したのエヘ☆で通せばよかったかな。いやそれだと間違いなく警察に突き出されてたなあの剣幕だと。 ていうか、こんな情報、寮生でないわたしでさえ知ってるんだから寮暮らしの子たちはみんなシェアしてると思ってたんだけど……。 (みんな観月には黙って……?) (やだ観月かわいそう…!) (いや、みんな観月が知ったらショック受けると思って秘密にしといてくれたとか……) (うんそうだ、きっとそう……と思いたい。だって現に今すげーショック受けちゃってるもん) 観月が黙ったきりなので、心中わたしはわたしと会話する。 ……それにしても。 観月と責任感。なんて相性の悪い取り合わせなんだろう。 でも進んでこの人はその役をかってしまうのだから、仕様がない。 自分の性分とは死ぬまで付き合っていかなければならない。喧嘩するより仲良くする方法を早いとこ見つけるのが、心安く日々を送る術だよ観月。 なんて言ったら、舌打ちされるかな。 舌打ちくらいされてもいいけど、あんまりぐちゃぐちゃ言ってもな。今この人、気が立ってるからビンタでもされたら殴られ損。 なので、 「観月さん、どんまい」 ごく短く、励ましを送って肩をポンと叩いた。 観月はそのわたしの手をゆっくりと払って(おい)、 「……はやくお帰りなさい。送ってさしあげますから」 ほの暗い目で、予想外なことを言い出した。 「え、いいよ普通に帰るよ一人で」 「馬鹿を言うのも休み休みになさい。今何時だと思っているんですか」 「え……夜八時半くらい……?でも一人で来たんだから一人で帰れるよマジで」 「ここであなたを一人帰して何かあったら僕の一生の負い目になる。あなた、そうしたいんですか?」 「え、ちょ、被害妄想はげしい!」 「いいから黙って送られなさい」 ピシャリと言って観月は歩き出した。 背中越しに、あなたが入ってきた現在防犯システムがオフになっている区間はどちらですか、と声が飛ぶので、西の男子二年寮の自販機横、と答える。 大股で歩を刻んでそっちに向かっていくので、わたしも、えー、と思いながらそれに倣う。 不機嫌な人に送ってもらうのなんて嫌だよ、とボソっと小声で言うとそれは観月の耳に入っていたようで、機嫌のいい不審者に会うのとどちらがいいですか、と感情のない声が返ってきた。 (こええよ観月さん) 「ここですね」 コツン、と観月が前に立ちはだかるブロック塀をこづいた。 「そー」 「あなたのご自宅は徒歩でどれくらいですか」 「えー…と、十分くらい」 「随分お近いんですね」 「いーでしょ。だからルドルフに進学したんだー」 「安易な決断だ」 「いいでしょ近いの便利でしょ」 「その割には去年同じクラスだった時は遅刻が多かったように記憶していますが?」 「近いと安心しちゃってね。つい準備すんのギリギリになるよね」 「怠惰な」 ハッ、と嘲って笑う観月。 でもこれはいつもの観月に近い調子だ。 むかつくけどわたしは安心する。 「じゃ、わたし一人で帰るから」 「送ると言ったでしょう」 「いやほんとにへーきだから」 言うが早いか、わたしはブロック塀に足をかける。 さん!と追い掛けてくる声に、だいじょーぶ!と返事して、よっ、と塀から飛び降りる。 足にわずかなアスファルトの衝撃。 よし無傷。 「おやすみ、観月さん」 さて帰ろう、テレビはじまる。 小走りに足を踏み出した。その時だしぬけに後ろから手頸を掴まれた。 「うおっ」 「…………あなたは人の言葉を理解しているんですか」 「うわ、観月さん」 「……送ると言ったでしょう」 観月はうんざり、と言った。 疲れて呆れて、イライラを通り越している。 「わたしだって、送んなくていいって言ったでしょー」 観月は不機嫌あらわにむすくれたままわたしの手頸を離さない。 なにこれ。補導、というより、捕獲。 「……世界が僕の思うままに動かないことなんて、とうに嫌というほど知っています」 「え?」 「さっきそう言ったでしょう」 「え、ああ……(言ったっけな)」 「そんなことさんに言われずとも知っている」 「はあ……さいですか」 「ですからせめて今、あなたくらいは僕の思うままになったっていいじゃありませんか」 ちらとこっちに目をやって、むすりとしたまま、 「黙って送られてください」 わたしの手頸を掴む観月の手にぎゅっと力がこめられた。 「……別に逃げないから、つかまえてなくてもいいよ」 「どうだか」 観月はそっぽを向いている。 ……この人は、多分。 一生自分の責任感と癇癪とプライドを三つ巴に向き合わせ、戦わせて生きていくんだろう。 それは決して安寧ではないけれど、なんて観月らしい一生だろう、とわたしはなんだか自分のことでもないのに痛快に思えて、なぜだか誇らしい気持ちにさえなった。 重荷を背負って、イライラとして、弱音を吐き捨て、この人がこの人らしく生きていく。 見事だと、思う。 「……こんな安全管理のだらしのない学校、内部進学なんて決めなければよかった」 「えっ観月さん高等部もルドルフにしたんだ」 「今、後悔しているところです」 「ま、どんまい、観月さん。楽しいこともきっとあるって」 「……それは例えばなんです?具体例を上げてください」 「またハーブ分けてあげるよ」 「……それはどうも(げんなり)」 「そしたらお返しに観月さんのお茶会にわたしを呼んでくれてもいいよ」 「そんなもの開いたことありません」 「観月のティーパーティ。具体例一。ほら楽しそう」 白いテーブルクロス、白磁のティーセットを前に優雅に紅茶を嗜む観月の絵が容易に思い浮かぶ。 似合いすぎて思わず頬を緩む。 笑った気配が伝わったのか、観月が懐中電灯でわたしを照らした。 「楽しそうなのは、あなたでしょう」 けれどそう言った観月も笑っているのが、わたしにもわかる。 なにしろ今夜は、きれいな月夜。 君が笑ったことくらい、見通せる。 |