アストロ・ボーイ






「今日は夜まで晴天が続くそうですよ」

と言われても、へえ、としか思えなかったけど、そうか、今日は七夕だったのか、とわたしは動き始めたバスの中で10分前の彼を思い出す。








バス停で珍しい人といっしょになった。部活で紳士と呼ばれる我がクラスの名物、いや名人物。

「柳生くん、今日部活は?」
「やあ、これはさん。テスト休みですよ」

やあ、これはさん。
柳生くんから言葉をかけられるとつい胸の内で反芻してしまう。そしてついつられて敬語になりそうになる。
「テニス部にもテスト休みってあったんだね」

意外だ。あの軍隊のようなテニス部にも。

「副部長などは月月火水金木金金!男子に休日なし、などと得心いかないようですが、休みを知ることも鍛錬の内だとわたしは思いますよ」

ニコ、と口元で笑う。つられてわたしもニコとする。

「ヒューヒュー!なにニコニコしてんだよ!」

急に赤い自転車が通り過ぎざま声を飛ばした。
赤い自転車に赤い頭。目印のようによく目立つ。

「ブン太」

名前を呼んでももう赤い自転車は5メートルは先にいる。そして、「お前と柳生じゃつりあわねーよ」だのなんだのケタケタ笑いながら10メートル先へ去っていった。
お前は騒音流しそうめんか。妖怪自転車赤小僧か。がんばれ。都市伝説まであと少し。

「丸井くんとご友人でらっしゃるんですか?」
「去年同じクラスで今同じ委員会なんだ」
「それはそれは、お手数おかけいたします」

冗談めかして会釈した。そうか、柳生くん、軽い会話もできる人なのか。

「いえこちらこそお手数おかけいたします」

会釈で返した。
ブン太がさっき言ってた「お前と柳生じゃつりあわねーうんぬん」というのは、この間わたしが彼が好きだという噂が流れたからだ。
同じクラスというだけで思い当たる接点にも原因にも覚えがなかったので、不快というよりただただ不思議だったのだけど。

柳生くんはまたニコ、と笑って空を仰いだ。
「今夜は夜まで晴天が続くそうですよ」

へえ、と返してわたしも空を見た。たしかに、夜まで続きそうなピーカンだ。ジリジリジリジリ頭がこげそうだ。

「河童がいたらお皿が乾いて大変なことになるね」
「河童はこんな日に陸へ上がってはいけませんね」
「一応、梅雨なんだけどね」
「雨が降ってれば出てきても大丈夫かもしれませんが、残念ながら今年は空梅雨のようですね」

腕時計をちらと見た。バスが来るまであと6分強か。

「空梅雨だと水不足とかお米が心配だね」
「そうですね。けれど今日に限っては晴れでうれしく思います」
「今日どっかお出かけするの?」
「わたしではありませんが、大切なご予定のある方もいらっしゃいますので」

へー、と曖昧に返して、会話が途切れた。
暑い。
口を開くと喉まで渇く。飲み物買おうかな、いやでもあと5分でバスがくる。家に帰れば麦茶がある。待とう。

「河童を信じますか?」
「え?」
「さきほどおっしゃってましたから」
「ああ……なんとなく、言ったね。河童……どうかな、いたらいいなと思うよ」
「いいなと思いますか」
「思うよ」

暑い。

「わたしも思います」
「思うよね……」

あれ、何の話をしてたんだっけ。

さん、では宇宙人はどうでしょう」
「へ」
「いると思いますか?」
「…………柳生くんは?」
「いるか、いないかのどちらかだと思います」
「……うん、それはそうだね」

それ以外に何があるんでしょうか、と思いながら涼し気な柳生くんの横顔を見上げた。彼の目はまだ空の真上を見つめている。

「知りたいのです、私は」
「……この広い宇宙に、地求人以外にも生命体がいることをたしかめたい?」
「ええ。もしくは、いないということをたしかめたい。でなければいつまでも期待してしまいます。今日は見つからなかった、今日は見つからなかっただけかもしれない、明日は見つかるかもしれない、出会えるかもしれない……とね。それは楽しみですが、苦い期待です」

河童。宇宙人。苦い期待。

「驚いた。柳生くんて意外とさみしがりなんだ」
「意外ですか」
「いつもすごくマイペースに見えるから」
「見えたそのままが真実ではないということですね」
「そうね。太陽が動いているように見えて実は地球が動いているようにね」
「ええ、あなたが私を好きだという噂がありましたが、好意を寄せているのは実は私のほうだというようにです」
「へ」
「妙な噂でわずらわせてしまって申し訳ありませんでした」

重ねてお手数をかけました、と言う柳生くんはまだ空を見ている。そこにカンペでもあるかのような棒読みだ。
真意を測りかねる、けれどあれこれ憶測するにも、驚くにも、恥ずかしくなるにも、暑すぎて気持ちが遠い。 実感という塊が夏の熱気でどんどん解けて曖昧に広がる水になる。

柳生くんが空を見ていて、棒読みで、よかったなと思った。思いつくまま言葉を意思に預けた。

「……ガリレオ・ガリレイの地動説だっけ」
「それでも地球は回っている、ですか」
「そうそれ、でも、太陽でも地面でも、どっちが動いててもいいんじゃない?物事の仕組みを知らなくてもとりあえずわたしたちは元気だわ」
「空に太陽があるかぎりですね」
「しぶいよ柳生くん」
「君の瞳は億千万です」
「それはゴウヒロミだよ柳生くん」
「アチチ、アチですね」
「燃えてるんだろうか、よ」
「燃えているんです」

恋に。私の胸はメラメラと、と柳生くんが無意味に倒置法で言ったのがあまりに似合わないので、変なので、気味が悪いのでわたしは一瞬すっと冷静になった。
わたしが黙ると柳生くんも礼儀正しく口を閉じた。
発言は代わりばんこ。紳士たる彼らしい。育ちがよろしい。この暑いのにネクタイをきっちりとしめて汗の一つもかかないで。
このままわたしが喋らなければこの人はずっとそれを待っているのかしら、どうかしら、と無言のまま答え合わせを待ちたい気分だ。
でもやめた。
暑いし。
それに、広い宇宙にいるかもしれないお仲間の存在をたしかめたい、もしくはいないことをたしかめたいと言うこの人は、見かけに頼る印象よりずっとさみしがりのせっかちで、世の中を悲観的に見る目を今レンズの奥でそわそわと動かしている。

「柳生くん」
「はい」

そんなのはもう、苦い期待より、てっとり早く喜びだけを知るといい。

「宇宙は今は遠いから、手初めにプラネタリウムってのはどうだろう」

そのときは手をつないで。

柳生くんの目がようやく地上に降りてきた。
わたしを捉えてニコと笑う。

「それは随分素敵なプランニングですね」
「涼しいしね、プラネタリウム」

真夏の炎天下で汗一つかかないこの人が、そのときその手に汗をかくかどうか、もしくはかかないかどうかを是非たしかめなくては。

やがてわたしのバスがきた。
じゃ、詳細はまた明日、と手を上げると、柳生くんはポケットからハンカチを取り出して首筋をたれる汗を拭いた。誰の汗。わたしの汗。わたしの首を。拭いた。うわ、拭いた。流れるような仕草だった。ついでに母が子にするような仕草だった。うわ。引くわ。

「……どうも」
「水分と塩分をよく取ってくださいね。あとできれば外出の際は帽子を着用するとよろしいでしょう」

はぁ、とか何とか言いながら、マルオくんみたいな言い方をする、ていうか元々キャラ的に似てる、なんて思ってたら、いつの間にか耳元に寄せられた唇に「君はベガだ」とか囁かれて、ベガってなんだったけ、あ、白鳥座?なんつってまた一瞬冷静になったけど、冷静になってもこの人が好ましいことに変わりはないなぁと思ったので、まぁいいや、少しくらい気味が悪くても、と思った。








バスは走り続ける。10分でなんかいろいろ変わったな、なんかすごいな、とひんやりとクーラーのきいた車内でわたしの実感はようやく固まり直して輪郭を取り戻す。
後悔するかな、と思ったら、しなかった。


明日別れるときは、まあ柳生くんたらなんて彦星、くらいは言えるようにわたしもなっていよう。
大丈夫、プラネタリウムなら逢瀬も雨天決行だ。