校門前で仁王に会った。 「おはよ」と手を軽く上げると、仁王は無言で手を上げ返した。 「寒いねー」とすぐに白く色のつく息を吐きながら手をこすり合わせる。 仁王はこくりとうなずいた。 あれ、とよくよく顔を見ると青いマフラーに鼻までうずめている。わずかにその頬が赤い、か? 「風邪ひいたの?」 またこくりとうなずいた。 「なんでまた」 部室へ移動しながら重ねてきくと、「寝冷え?」とガラガラと低い声がマフラーごしに響いてきた。これはひどい。ていうかなんで疑問符つき? 「熱は? 平気?」 今度は「多分」と返事が返る。喉が痛くて三文字以上はしゃべれないのかもしれない。 「多分」と言ってはいるがこれは仁王のことだから熱を計ってないだけだろうなと見当をつける。 「朝練休んだほうがいいよ」 と言われることは予期していたに違いない。あ、やっぱり?という目でこちらを見ている。 「無理して治るんならいいけどさ。早く治したいなら今休むべきだと思うよ」 仁王の目が今度は「おや」と言うように少し丸くなる。うっすら楽しげな色が奥でちらりとのぞく。 そしてガラガラのひどい声で、 「マネージャーらしいこと、言うのう」 それから咳き込んで笑った。 血が出そうな、聞いてて耳の痛い咳だった。 「真田に連絡してくる。保健室で待ってて」 「なんして」 「保健室で寝て帰りなよ。もう学校まで来ちゃったんだから」 反論するかな、と思ったけど仁王はスンと鼻を鳴らすとすぐにうなずいた。 意外で思わず、えっ、と声が出る。 素直な仁王というのも、これはこれで落ち着かない。 「なんか」 「いや、なんでも」 ほーか、と喉に掃除機かけてるような声のあとに、またひどい咳。 「喋らなくていいよ」 見かねて言うと、ほーか、とまた言って、笑った。 部室にいた真田に仁王のことを説明すると、予想していた「たるんどる!」を本人の代わりに頂戴した。 「伝えておいてくれ」 「わ…わかった。伝えとく」 「ではまた、午後にな」 はーい、返事してドアを開けると、ばったり幸村と出くわした。 「、あれ、朝練でないのかい」 「あ、仁王が風邪ひいてるから保健室に行って様子見てくるとこ。朝は時間ないからもう出れないかも」 「仁王が? 風邪? それ本当?」 「本当って……どゆこと」 「この時間、保健の先生まだ来てないよね」 「まだじゃない?」 「仁王が風邪?」 「うん」 「保健室?」 「だからなに」 幸村が言いたいことがわかってきたのでイライラした。 幸村は軽く両手を広げるととてもとても幸せそうに微笑んだ。 「ふたりきりだ」 「だからなに」 「やったね」 「なにが」 「いやむしろやるね、仁王も」 「なにが」 「やだな、言わせる気」 「今すぐ目の前の男を蹴り倒したい」 「行くがいいよ、俺を踏み越えて愛しい男の下へ。俺は祝福するよ、親愛なる二人の幸福な秘め事を」 フフ☆てな感じで幸村が笑ったので、しかも朝だったので、まだ眠かったので、わたしは欲望の赴くまま幸村を蹴った。 そして保健室へ向かった。 後ろから歓喜の歌のハミングが聞こえてきた。 幸村がいつか、いつの日か、好きな子からこっぴどく振られて人知れず涙で枕を濡らす日がきますように。 控え目に呪いながら、保健室へ向かった。 ドアを開けると仁王の姿がなかった。 「仁王ー?」 返事がない。続けて何度も呼びながらもうベッドにもぐりこんだのだろうかと枕元をのぞきこんでいると、かすれた笑い声がパーテンションの裏から聞こえた。 回ってみると台所でコーヒーを淹れている。 「あ、いた」 「おるよ」 「……なに笑ってんの?」 「不細工な猫がいよる」 そう言ってわたしを指差した。……はぁ? 「仁王、熱高いの?」 「そいじゃ」 「……仁王?」 「ニオウ、ニオウ、ニオーウ、ニオゥ」 「………はぁ?」 「不細工な猫の鳴き声みたいじゃな思うて」 「……そーすか」 そんなことでくつくつとごく楽しそうに笑っていたのか。黒板ひっかいたみたいな声で。 「で、なにしてんの」 「コーヒー淹れとる」 「それはわかる。何そんな優雅なことしてんのって言ってんの」 「喉かわいた」 「それもわかる。けど風邪の時に刺激物はよしたほうがいいよ。白湯にしなよ」 「味せん」 「しないほうがいいんだってば」 「つまらん」 口を尖らせつつ、仁王は既にコーヒーの入ったカップをわたしに渡して自分はベッドにもぐりこんだ。 「白湯は?入れようか」 「いらん。寝るき」 「喉、平気?」 「かまわん」 「かまおうよ。熱は計った?」 「計らん」 「計ろうよ」 呆れる。 ゴッホゴホ、と仁王が盛大に咳き込んだ。横になるとかえって咳がひどくなるのかもしれない。痛ましい。 「あとちょっとしたら先生来ると思うから。そしたらいろいろしてもらおうね。怪我ならあれだけど、風邪とかだとわたしも手ぇ出せないし」 「いろいろしてもらうだの、手ぇ出せないだの」 「うん?」 「やらしいの」 「漫画の見すぎ」 はは、と笑って手を振ると仁王は咳き込みながら笑った。苦しみながら言うことか。 仁王はいつも、こういうセクハラ手前のまぜっ返しをどこか義務めいた所作で振る舞う。 一体なんの義務なんだか。 「ていうか、もうしゃべんないほうがいいよ。喉、もっと悪くするよ」 「しゃべっとらんと眠りそうじゃ」 「眠ったらいいよ。何言ってんの」 「眠ったらその間におらんようなるじゃろ」 「大丈夫だよ。もうすぐ先生来てくれるから」 「行ったらつまらんき。いる間は大目に見んしゃい」 「……なんだ、こどもみたいだよ仁王」 つい笑ってしまった。らしくない。駄々っ子みたいだ。 仁王はそう言われて別に照れる様子もなく、飄然と肩をすくめた。 「人寂しいのに大人もこどももないぜよ」 まあ、それはそうか。 わたしは仁王のベッドの前の丸イスに腰かける。チャイムが鳴るまであと15分。 「じゃ、付き合うよ」 「恩に着るき」 「大げさだな」 「俺は大げさな男なんじゃ」 「あっそ。面倒くさいな」 弱っていても芝居がかった調子がぬけない仁王がおかしい。また、つい笑う。 「楽しそうじゃの」 「仁王が大げさだから」 「ほーか」 「ところで寝冷えって……布団蹴飛ばしたかなんか?」 「いや」 「薄い布団で寝てたとか?」 「いや」 「じゃどしたの」 「寝つかれんくて、どーしたもんかと家の中ウロウロしちょった」 「はー?」 「その内に眠れるじゃろ思って暖房つけんかったらそのまま朝になりよった」 「なんで眠れなかったの」 「夢を見た」 仁王がベッドの上で組んだ手を広げた。そしてごしごしとすり合わせた。 「どんな夢?」 「砂漠」 怖い夢かと思ってたずねたら、意外な言葉が返ってきた。 「砂漠?」 「砂漠じゃ」 「砂漠…………」 「たまに見る夢じゃ。一面砂漠で、ひとっこ一人おらん」 「怖いの?」 「怖いことはない。ただの砂漠じゃ。けど砂の色が」 「砂の色が」 「真っ青」 「……砂漠が青いの?」 「そうじゃ」 「それは…………………………奇妙だ」 「ほーじゃ」 「へえ……」 「別に怖いことはないが、こん夢見るとそのあとはよう寝つけん」 「なんか規則性があるの? 疲れてるときに見る、とか、寒くなってくると見る、とか」 仁王は、んー、と考えこむように視線を斜め上の天井に向けた。 「ない」 「ないのか」 「ないのう」 「そっか」 「、同じ夢を五回見たら死んでしまうって知っちょるか」 「え、知らない」 「俺は今日か明日か明後日にはコロリとあの世いきぜよ」 「その夢、今日で五回目なの?」 「いやもっと見とる」 「じゃ大丈夫じゃん何言ってんの」 「ほんまじゃ何言いよるんじゃ俺は」 ゼイゼイ喉を鳴らして仁王が笑い声をたてる。熱でハイになってるのかな。 てかしゃべってて大丈夫なのかな……。 時計を見る。本鈴まであと7分ほどだ。 「砂漠の中に」 枯れた声が空気にヒビを入れるように鳴った。 「なに?」 「がおった」 「……ひとっこ一人いないんじゃないの?」 「いつもはな」 「昨日はわたしがいた?」 「ほーじゃ」 「何してた?」 「すっぱだかで立っとった」 「…………」 「嘘じゃ。そんな顔しなさんな」 仁王が一瞬でうんざりと眉をしぼった。隠してた0点のテストの答案が見つかってしまったこどもみたいだった。そんな顔するなら最初から言うな。 そしてわたしは一体どんな顔でにらんだんだ。 「般若みたいじゃ」 「…………」 「そん顔」 指をさして仁王が笑う。 「……で、何してたの」 「何もせんよ。ほんに、立っとっただけ。服は着とったけど。夢なのにサービス悪いのう、」 「それはそれは。すいませんね」 「怒っちょる」 「怒ってなか」 「何弁じゃ、そいは」 「仁王の真似」 「似とらん」 「……仁王、もうほんと喋らないほうがいいよ。声、ほんと痛そう」 というか、わたしがいるから逆にしゃべるんだよな。 イスから腰を上げた。 「行くんか」 「うん。わたしがいないほうが休めそうだから、行くよ」 「」 「ん?」 「次、砂漠で会うたら」 「ああ、青い砂漠ね」 「会うたら、俺も腹、決めるき」 「……うん?」 「砂漠で待っとれ」 「……仁王、何言ってんの?」 仁王は熱を出しても顔色一つ変らない顔をこちらへ向けて、顎を引いて、少し上目でわたしを見た。 声もなく笑った。 「ほんまじゃ。何言いよるんじゃ俺は」 自分を笑っているようだった。 保健室から教室へ戻るとき、階段で幸村とすれ違った。 「、仁王の調子どうだった?」 「咳がひどかった。部活は今日は無理だと思う。なのになんかハイになっててよくしゃべって……失敗したな。わたしいないほうがよかったかもしれない」 「どういう意味だい?」 「話し相手がいるとついしゃべっちゃうから」 「ふーん」 顎に手を添えてじろじろと幸村がわたしを見た。 「……な、なに」 「若い二人が、保健室で。なにも起こらなかったというの?」 「というの? じゃないわよ神の子おい」 「なぁ、神の子ってつまり天使だと思わない?」 「知らない」 「無知だなぁ、ハハ」 「………(てめぇ)」 「あとは何か仁王は言っていた?」 「あと?あとは別に…………あ、夢の話をしてたかな」 「どんな?」 「青い砂漠の夢の中でわたしがいたって。よくわかんないけど、砂漠の夢を見ると眠れないんだって」 「わあ」 「……わあ?」 「なんだ。告られたようなものじゃない」 幸村の白い指がパチリと器用に高い音を打った。(表現が二十年前の少女漫画だ)(しかし似合う) 「……こく……は? なに? なにが?」 「無知な上に愚かな娘だねお前は。かわいそうに。神様って残酷だ」 「いやごめん、なに?」 「自分でよく考えるといいよ。男が、女の夢を見て眠れないという意味を。このにぶチン娘」 幸村は今度はウインクしてわたしの額をデコピンした。 目がまったく笑っていなかった。 わたしは目の前の男に心底うんざりしながら、それでも言った。 「……仁王と幸村って、なんか似てる。わけわかんないところが」 「心外だなぁ」 幸村が弾けるように笑った。心底、愉快そうだった。 |