「僕の何が足りないと言うんですか」 またいつものグチがはじまった。 「明晰な頭脳、確固たるテニスの腕、控えめに言っても悲観する必要のない容貌。加えて品もある。有能だ。うん、有能です」 自分で確認してうなずいてどこか眠そうな顔で細い息をつく。 お決まりの口上。 このあとはこう続く。『あとは、』 「あとは何が足りないと言うんです?」 それに対してわたしがこう返すのもいつものことだ。 「謙虚さじゃね?」 「あなたは口が悪いですね。男のご兄弟でもいらっしゃるんですか」 「いえ三人姉妹です」 「姉妹……三人……まるでマクベスの魔女ですね。きれいは汚い汚いはきれい……」 「人の部活の現場まで押しかけて魔女とは言ってくれるわね観月さん」 「部活の現場。随分力のこもった表現ですが、今はテスト休み期間ですよ。あなたの言う部活動というものは現在例外なく休止を言い渡されているはずですが」 持って回ったくどい言い回し。言葉だけならいつもの観月。 でも今花壇の前に座り込んでいる観月にはいつもの覇気がない。人の揚げ足を隙なく見て取る目に光がない。油もささずによくもまぁ、と呆れる舌の回転にキレがない。 裏庭の一角、花壇を四ブロック。わたしたち園芸部の部活の現場。 この人はたまにここに来る。 ここに来るときはきまってこうなっている。少し駄目になっている。 夏前にテニス部がなんかの大会で敗退したらしいときもよく来たし、夏休み学校でやってた特A補講の期間中も休み時間にこっちに顔を出してぬるいサイダーを気まぐれに差し入れてくれたりした。(できたら冷やし直して飲みたかったけどじとっとした目で缶を見つめていたのでそのまま飲んだ)(ありがたいけど美味しくなかった) 部活に勉強。今度は何で駄目になってるんだろう、この人は。 「テスト休みは知ってるけど明日っから大雨続きになるってテレビが言ってたからその前にこれ、ローズマリーだけ摘んじゃおうと思って。せっかく大きくなったのに流されちゃったらあれでしょ」 「天気予報士が言っていたと言いなさい。テレビはものを言いません」 「いいじゃん同じじゃん」 「さん、今が何月かご存知ですか」 「今?10月半ば」 「来年の進路を決めるには今が一番大事な時期だとご存知ですか」 「え、そうなんだー」 「なのになぜあなたはまだ部活動を続けているのですか」 「んー、うちの部員って数は多いけど幽霊が多くってさー。別に普通の部活だったらあいつまたさぼってんなー、でいいんだけど、水やりとか間引きとかさぼられるとこの子ら死んじゃうでしょ。だから3年も声かけあってローテ組んでんの。たいして時間も取らないし」 「前から思っていたのですが、あなたのような粗雑な人が植物の世話をまめに見ているとは意外ですね」 「え、美味しいしかわいいし、植物よくない?」 「……よいですけど……(美味しい……)」 「それにこの一区画ハーブにしたいって言ったのわたしだしね。引退しても卒業するまで見れるだけは見てやらないと」 「あなた内部受験なさるんですか」 「んー多分」 「ハ、多分」 観月が口先で嘲笑した。 「ご自分の未来を丸投げするようなことを言うんですね」 「別に投げてないよ。でもせっかく中高一貫の私立に入ったんだからわざわざまた受験することなくない?」 「なくなくないですよ。そんなものは惰性です。惰性に任せて人生の舵を切ったら二度と港へ戻ってこれませんよ。それでいいんですか」 「いいんだよ、この海にあるすべての港をわたしの故郷として舵を切りつづけ、行き交う船にあったらやあ同士よ!と汽笛をあげて挨拶するよ。うん、すてきな人生」 「まっぴらごめんの人生だ。そんな行き当たりばったりは僕には似合わない」 観月は背中を丸めて収穫時期に入ったローズマリーを手すさびにいじっている。 観月の白い指が灰緑の葉をばらばらと散らしていく。 「観月さん、はっぱ千切るな」 注意すると大人しく手を引っ込めた。 けれどじとっと湿った目線だけローズマリーに向けているのが何とも、あれだ。 「手、匂ってみ」 わたしの言葉に言われるまま素直にスンと鼻に手をやって、 「ああ、いい香りです」 「そう。ローズマリーは肉料理の匂いを消すためにつかわれたりするハーブで、乾かして紅茶の茶葉とブレンドしても美味しいよ。観月さん紅茶好きでしょ。摘んで持ってっていいよ」 「……どうもありがとうございます」 言って、さっそくローズマリーを根元から丁寧に摘み取り始める。 観月は礼儀正しい。 その腹の中が黒くても、口から出てくる言葉に毒があっても、言葉の扱い方はとってもきれいで丁重。 「観月さんって、顔と言葉づかいはきれいだよねぇ」 「ええそうなんです。あとは何が足りないと思いますか」 何が何が。観月はいつも足りないものばかり数えたがる。 今度は「謙虚さじゃね?」とは茶化せなかった。 観月に何が足りないなんて知らない。そんなことがわかる付き合いはしていない。 去年同じクラスで、二回続けて席替えで隣になって、気楽に話したり「あなた、本当にそれでいいと思ってるんですか」とイライラと言われ、「基本的にはいいんじゃないすかね」と言い、深いため息をつかれるというくらいの距離の友人。…友人?友人。うん。友人。 「……頭脳、テニスの腕、顔、品。有能だ。うん、有能です。有能なのに」 そしてまた冒頭に戻る。 わたしはその背中を軽く叩く。 「グチばっか植物に聞かせるのやめてくれない?観月さん。なんか枯れそう」 「僕のため息で枯れるほどここの植物は繊細じゃないでしょう。あなたが作っているんですから」 「どういう意味」 「主人によく似て図太い生命力だと言っているんです」 「(てめぇ…)その図太いハーブを喜んで摘んで小指立ててティーなど飲んでいるのは一体どこのどちら様でしたっけ」 「小指など立てていませんよ。品のない」 「ああそうですか」 「……一つ聞いていいですか」 「なんですか」 「なぜさんは僕のことを観月さんと呼ぶのですか?あなた口は悪いのに、いつもどうにもそれが気持ち悪い」 「気持ち悪……。別に大した理由はないよ。去年同じクラスになったとき一個下の子たちがよく教室まで来て、観月さん観月さん、てピイピイかわいく呼んでたのがなんかうつって」 「なんですかそれ。本当に大した理由じゃない」 「だからそう言ったでしょー」 「しかもピイピイかわいくって、ちょっとあなたの主観おかしいですよ。テニス部の後輩のどこがかわいいんですか」 「え、あんなに懐いてきてかわいいじゃん」 「むさくるしいだけですよ。自分のことも自分でできないからあれやこれや人の手を借りたがる浅はかな性根。借りてきた人の手を使いこなせなければ、これ役に立ちませんでしたよ、なんて平気で笑って捨て置く浅はかさ。若さが免罪符になるとでも思ったら大間違いだ」 そういえば引退しても後輩の指導で観月はマネージャー業務を続けてるってこの間木更津くんが言ってたっけ。 あんまりうまくいってないのか。それでちょっと駄目になってるのか。そうか。 観月は外部受験も進路の視野に入れているらしいから本当は勉強一本に絞りたいのかもしれないな。 自分の大事な時期の大事な時間を割いてまでやってやってるのに、と余計イライラしてるのかもしれない と言ってかける言葉も見当たらない。観月について知ってることは、顔と言葉遣いがきれいで、頭がよくて、元テニス部で山形県出身で、ちょっと癇癪持ちで神経質。色が白くて紅茶が好き、それくらい。 彼に何が足りないのか、欲しがってる言葉がなんなのかなんて知らない。 言うことがなかったので黙ってローズマリーを摘んだ。背中を丸めた観月と並んで。 一度ちっと舌打ちする音が聞こえたけど、適当に聞き流した。 全部を摘み終えると、それの四分の一を観月にあげた。 「こんなによろしいんですか」 「いいよ。手伝ってくれたお礼」 「……ありがとうございます」 うん、とうなずく。 観月は手の中のローズマリーの束をじっと見ている。 「ローズマリーの花言葉をご存知ですか」 「え、ハーブにも花言葉ってあるんだ」 「……園芸部員のくせに不勉強もいところですね」 「テニス部員がそんなこと知ってるほうが不自然だわよ」 「元部員ですよ。無知に胸を張ることは恥ずべきことですよ」 「……別にえばっちゃいませんが」 ゆらゆらと手の中のローズマリーを揺らして匂いを引き出しながら観月がぽつりと言った。 「あなたには育む力がありますね。草だけじゃなく、人も」 「……観月さん、今わたしを褒めた?」 「ただの所見です。そういう能力は思い立って身につけようとしても中々適いません。僕があなたをうらやむ唯一の美点です」 「褒められてるのにいろんなところでカチンカチンくるんだけど……」 「ですからただの所見です」 「素直になれよ」 「言葉が汚い」 「生まれつきです」 「ひどい生まれだ」 「そこまで言うか…!」 「あなたに固有の粗雑を生まれに転嫁したからでしょう」 うー、と歯噛みする。 口合戦でこいつに勝てる当てはない。 歯噛みしながらふと気になった。 口が悪いと言いながら、品がないと言いながらそれでも観月はここに来る。たまに少し駄目になっているときに。 「それはなぜ?」 たずねると観月はちろりと面白くなさそうにこちらを見上げた。 そしてはっきりつまらなそうに息をついて、口を開いた。 「あなたは僕の言うことに傷つくことがない」 そうでしょう、と黒目がちの目で畳み掛けられる。 そうかな、そうかも。そうだな。 「失言に気を使うこともないし、言葉が過ぎたと気を揉むこともない。あなたは図太い人ですからね。安心していくらでもうっかりの悪態をつけます」 「それうっかりじゃなくない?」 「なくなくなくないですよ」 うーん、そうか、そうなのか。 ぼそりと観月が言った。 「あなたの図太さが僕を救うんです」 一秒、二秒、三秒。 観月と目が合った。 四秒。 救うって、あなた。 五秒目、観月の唇がにやりと笑んだ。 「ハ、大仰な」 自分で言って、自分で白けて、自分で笑って呆れている。 そのすがめた目にはもういつもの光が戻りかけている。 「また来ます。鬱屈が溜まったら」 不敵に笑って背を向ける。 駄目なときに少しだけやってきて勝手に元に戻ってさっさと帰る。 餌だけもらいにくる外猫みたいだ。 何を食べさせてやっているわけでもないけれど。 人の部屋で昼寝だけして懐きもしないで帰る猫。 でも、まぁ。 黒板の文字に疲れたら、緑のコートに立つのに疲れたらまた来たらいい。 競う必要のない緑がこの世にあることをたまには知りに来たらいい。 君に足りない何かは知らないし、君が欲しがる言葉もわたしは持たないけれど。 ミントにセージ、タイムにカミツレ、ローズマリーでよかったらいつでも君にわけてやる。 だから、 「気がむいたらまたおいで」 まっすぐに伸びた背中に大声を放ると一瞬肩がぎくりと揺れた。 左右を見て、人目を確認。そして恐らく舌打ち。なんて無遠慮な声! 君がそう思うことくらいは、知っている。 |